2018年9月30日日曜日

方法序説(デカルト著)

方法序説
すべての人が真理を見いだすための方法を求めて、思索を重ねたデカルト(1596‐1650)。「われ思う、ゆえにわれあり」は、その彼がいっさいの外的権威を否定して到達した、思想の独立宣言である。近代精神の確立を告げ、今日の学問の基本的な準拠枠をなす新しい哲学の根本原理と方法が、ここに示される。


前書き


哲学書としては有名も有名な本ですが、今更ながら読んでみました。
もう少し知的に生きたいとこの歳になっても成長していない自分への戒めと、「Cogito, ergo sum(我思う、故に我在り)」という有名かつ格好いいフレーズをちゃんと知っておきたいということもあります。

第1部 学問にかんするさまざまな考察


学問を学んできたデカルトが、学問を捨てて、真理を見つけるために旅へ出ることを決意するまでです。

良書を読むこと。

すべて良書を読むことは、著者である過去の世紀の一流の人びとと親しく語り合うようなもので、しかもその会話は、かれらの思想の最上のものだけを見せてくれる、入念な準備のなされたものだ。
デカルトも多くの書物に触れて勉強しました。最終的に真理に至るために、それは不要だと捨てることになるのですが、そこで懐疑を抱き、真理を目指すということになります。しかし、それは基礎の勉強があってのものです。その順番は間違えてはいけないでしょう。ちなみに、人文学とスコラ学を中心に、医学や法学まで修めていたようです。

真理は一つしかありえない。

同一のことがらについて真理は一つしかありえないのに、学者たちによって主張される違った意見がいくらでもあるのを考えあわせて、わたしは、真らしく見えるにすぎないものは、いちおう虚偽とみなした。
上記は哲学について語ったもので、デカルトが好んだ数学との対比です。
わたしは何よりも数学が好きだった。論拠の確実性と明証性のゆえである。
数学と比べると疑っていることがわかります。
これはデカルトが様々なことを学んだが故に到達した境地なのでしょう。
それにしても中々の上から目線です。
しかし、真らしく見えることを虚偽とみなすのはエネルギーを要することです。
全てを疑うことは私には難しいですが、知的な生き方のために、このような考えを持って進めていくことが必要なのだと考えました。

世界という大きな書物


そのために出したデカルトの結論が旅にでるということです。
わたし自身のうちに、あるいは世界という大きな書物のうちに見つかるかもしれない学問だけを探求しようと決心し、(中略)旅をし、あちこちの宮廷や軍隊を見、気質や身分の異なるさまざまな人たちと交わり(中略)いたるところで目の前に現れる事柄について反省を加え、そこから何らかの利点をひきだすことだ。
現代の「多様性を受容する」みたいな考えのはしりなのかと思います。
特に大事なのが下線部で、ただ他者を受容するのではなく、「反省を加え、利点を引き出す」ことに意味があるのだと思います。
つまり、国会議員は女性を○割以上にするとか、外国人材を○人採用するとか、そういう問題ではなく、その結果として、どのようなの利点を引き出せたのかということであり、そのための方法は身内に取り込むだけではなく、最良の手段を考えていくべきなのです。

われわれにはきわめて突飛でこっけいに見えても、それでもほかの国々のおおぜいの人に共通に受け入れられ是認されている多くのことがあるのを見て、ただ前例と習慣だけで納得してきたことを、あまり固く信じてはいけないと学んだことだ。
結局、多様性を実現する最大の利点は、ここなのかもしれません。
同質性で固まっている日本社会の問題点は「前例と習慣だけで納得してきたこと」を信じ、そして変えられないことにあるのだと私は考えます。
市場環境や国際社会に対応できないで没落する日本企業の経営、社会構成の変化や世論が求めるものに対応できないでひたすら先送りを続ける日本の政治。
これらは「前例と習慣だけで納得してきたこと」そのものではないのでしょうか。

第2部 探求した方法の主たる規則


デカルトがドイツに呼び出れたときに、ある冬営地で足止めされ、炉部屋に閉じこもり、思索にふけった日々で見つけたことが記載されています。

多数よりも良識ある一人

書物の学問、少なくともその論拠が蓋然的なだけで何の証明もなく、多くの異なった人びとの意見が寄せ集められて、しだいにかさを増やしてきたような学問は、一人の良識ある人間が目の前にあることについて自然に[生まれながら]になしうる単純な推論ほどには、真理に接近できない。
世の中にそれだけ偽の学問が多いということなのだろうと個人的には解釈しています。
ただ、真理にたどり着くには贅肉を落とさなければいけないということで、俗物が積み上げたものは余計だということを指摘しているのかもわかりません。

そのためにデカルトは、今まで信じてきた見解を捨てようとします。
その上で真理を導くために必要なこととして、以下の4つの規則にたどり着きます。

真理を導くための4つの規則


第一は、わたしが明証的に真であると認めるのでなければ、どんなことも真として受け入れないことだった。(中略)
第二は、わたしが検討する難問の一つ一つを、できるだけ多くの、しかも問題をよりよく解くために必要なだけの小部分に分割すること。(中略)
第三は、わたしの思考を順序にしたがって導くこと。(中略)
そして最後は、すべての場合に、完全な枚挙と全体にわたる見直しをして、なにも見落とさなかったかと確信すること。

実にシンプルな規則だと思います。しかし、何れも重みのあるものであり、真理を導くという使命を帯びたデカルトではなく、私のようなただの小市民にあっても実に有効な規則ではないだろうか。
実生活でこれが出来ている人は意外と限られていたりします。

第3部 道徳上の規則


デカルトは、家の建替えにたとえて、真理をみつけるまでの仮の道徳的規則を導いています。「仮」ということではありますが、最終的にこれに変わる規則が本書で出てくるわけではありません。
第一の格率は、わたしの国の法律と慣習に従うことだった。
ルールがない(検討中)だから、自由というわけではなく、それまではまず今あるものを尊重するという、紳士的な考えに見えますし、穏健な考えを取ることで、軌道修正を行いやすくするという打算的な面もあるようです。
実際問題、今のルールを守れぬものの言い草など、認められないのが関の山です。某大陸みたいな傍若無人が何を言っても、愚かさの証明でしかありません。

わたしの第二の格率は、自分の行動において、できるかぎり確固として果断であり、どんなに疑わしい意見でも、一度それに決めた以上は、きわめて確実な意見であるときに劣らず、一貫して従うことだった。
デカルトは森で迷った例をあげ、迷って適当な方向へ進むより、まっすぐ歩いたほうが、最終的はどこかへ着くと説明しています。
変革を恐れてはいけないが、理由もなく変えるのは変えないより悪いということを解いていると解釈しています。

わたしの第三の格率は、運命よりむしろ自分に打ち克つように、世界の秩序よりも自分の欲望を変えるように、つねに努めることだった。そして一般に、完全にわれわれの力の範囲内にあるものはわれわれの思想しかないと信じるように自分を習慣づけることだった。
自分の範囲外のものを気にすることはよいことにはならないと主張しています。
真理を導くためには周りのことを無視することも重要だと思いますし、その方が自分を満足させるという点において優れています。
個人的には周りを変えようとする考えもないと、それはそれで困ったことになるのではないかと思います。皆が自分以外を変革しようとしないと、結局は秩序だった世の中にもならないし、集団の中での間違いが正されないので、悪化の一途を辿るのではないでしょうか。

第4部 神の存在と人間の魂の存在を証明する論拠

真理を探すために、「真らしく見えるもの」を全て虚偽としていったとき、最後に残ったものは、今考えている私自身ということになります。

Cogito, ergo sum

すべてを偽として考えようとする間も、そう考えているこのわたしは必然的に何ものかでなければならない、と。そして「わたしは考える、ゆえにわたしは存在する」というこの真理は、懐疑論者たちのどんな途方もない想定といえども揺るがしえないほど堅固で確実なのを認め、この真理を、求めていた哲学の第一原理として、ためらうことなく受け入れられる
フレーズだけは皆が知っているCogito, ergo sum(我思う、故に我在り)というものが、どのように導かれてきたのかがわかります。
一つ謎が解明されて嬉しい気持ちと、案外単純だと思う気持ちと、それが故の味わいというものがあります。

この先は、演繹的に神の存在証明していく内容になっていますが、私がコメントをしていくのは難しいです。解説を見て読むと何となくわかった感じになりますが。
ただ、現代日本人の我々に神の存在証明が大事とも思わないので(詭弁であると言い切る解説もありますが、そうだからではありません)、それ以降は省略します。
また、同様に第5部の自然学に関することも、同様の理由で省略します。

第6部 本書を執筆するに至った理由

この章は、役立つとおもった内容を抜粋していくことにします。

自分の発見したことがどんなにささやかでも、すべてを忠実に公衆に伝え、すぐれた精神の持ち主がさらに先に進むように促すことだ。その際、各自がその性向と能力に従い、必要な実験に協力し、知り得たすべてを公衆に伝えるのである。先の者が到達した地点から後の者が始め、こうして多くの人の生涯と業績をあわせて、われわれ全体で、各人が別々になしうるよりもはるかに遠くまで進むことができるようにするのである。
ちょっと理想主義のきらいはあるのですが、この考えは私は好きです。
現代は、研究などは公にしない方がいいみたいな感じになっていて、実際悪用する人間が絶えないから、当然なわけです。しかし、そのような非文明人・無教養人のせいで、文明の進歩が止まるのではないかと、危惧することもあります。AIとか騒がれている現代で何をと思うかもしれませんが、優秀な人を飼い殺していくような社会になれば、進歩が止まって暗黒時代になるのは、そんなに遠くないと思います。

人間はだれも、自分の力にかなうかぎり、他人の幸福をはかる義務があり、だれの役にも立たないのは本来何の価値もないのだが、しかしわれわれの配慮は現在よりもずっと先にまで及ぶべきであり、(後略)
前段の自分だけではなく周りのことも考えるというのは、当たり前にことだと(文明人・教養人なれば)皆が認識しているのではないかと思いますが、そのような人でも未来への配慮はどうなのだろうということであります。
子孫の代の我が国や地球を考えている経営者なり政治家は居るのだろうか。おそらく居まいというのが、私の感想です。

真らしさは、あらゆる種類のことがらにおいてたいした苦労もなく見つけることができるが、真理は、ある限られたことがらで少しずつ発見されるだけであり、ほかのことがらが話題になると、知らないと素直に打ち明けねばならないものなのだ。
現代は、「知らない」といえないから、真らしいことで誤魔化しているものが多すぎると思う。「知らない」ことを恥じて真理を目指すべきだが、畏れるべきではないのだと思う。

注釈

格率……自らの学問、思想や生を導く規準