前書き
1930年代に書かれた大衆や社会のあり方などが書かれた本です。
特筆すべき点としては、その時代(筆者はスペイン人)の問題点だけではなく、現代日本にも通じる警告の書であること、そして第二次大戦以降の欧州を予言している点でしょうか。
印象的な文章などを中心に筆者の視点を要約しつつ、私の思索も纏めていこうと思います。
特筆すべき点としては、その時代(筆者はスペイン人)の問題点だけではなく、現代日本にも通じる警告の書であること、そして第二次大戦以降の欧州を予言している点でしょうか。
印象的な文章などを中心に筆者の視点を要約しつつ、私の思索も纏めていこうと思います。
中々辛らつな記載な内容の中にある、味わい深い文章(といっても訳文ですが)を感じ取れるかと思います。
1.この本における大衆の定義
大衆という単語が何を指すかは、この本の解釈に大きく影響します。
一般的には、通常の労働者層のように知的定見を持たず、社会の歯車として生きている不特定多数の人々を指すのかなと理解しますし、1章の「充満の事実」などを読むと、その解釈でよいように思います。
たとえば以下の表現などが顕著です。
たとえば以下の表現などが顕著です。
大衆とは、善い意味でも悪い意味でも、自分自身に特殊な価値を認めようとせず、自分は「すべての人」と同じであると感じ、そのことに苦痛を覚えるどころか、他の人々と同一であると感じることに喜びを見出しているすべての人のことである。(充満の事実)なんというか、如何にも典型的な日本人ではないかと思います。
一方で後半の章(11章あたりから)の文脈では、「技術家大衆」という単語もありますが、「専門家は自分がたざわっている宇宙の微々たる部分に関しては非常によく”識っている”が、それ以外の部分に関しては完全に無知なのである。」という印象的なワードにより、筆者が批判するとしての"大衆"は、「近代科学が知的に優れていない人をが働くことを可能にした」結果として誕生した、”専門家”のことを指していると見るべきでしょう。
それがはっきり分かるのが以下の文章です。
それがはっきり分かるのが以下の文章です。
彼にあるがままの自分を固定させ、自分の道徳的、知的資産は立派で完璧であるというふうに考えさせるのである。この自己満足の結果、彼は、外部からの一切の示唆に対して自己を閉ざしてしまい、他人の言葉に耳を貸さず、自分の見解になんら疑問を抱こうとせず、また自分以外の人の存在を考慮に入れようとはしなくなるのである。(「慢心しきったお坊ちゃん」の時代)
マスメディアに出てくる”専門家”のことを思い出すと、如何にもと思われるのではないでしょうか。
この本を読み解くポイントとして、大衆が何かというのを意識することを強くおすすめします。
この本を読み解くポイントとして、大衆が何かというのを意識することを強くおすすめします。
2.知的に優れている人
ものごとに驚き、不審を抱くことが理解への第一歩である。それは知的な人物に特有なスポーツであり、贅沢である。だからこそ、知性人に共通な態度は、驚きに瞠った目で世界を観るところにあるのである。(充満の事実)知的に優れた人の特徴を分かりやすく捉えていると思います。
世界は、ただ住んでいるだけだけで理解できるほど甘いものではないからこそ、知的な"スポーツ"として、世界を観ることが必要なのでしょう。
3.自分の思想
まず自分の中にいくばくかの思想を見出す。そして、それらの思想に満足し、自分を知的に完全なものとみなすに決めてしまう。彼は、自分の外にあるものになんらの必要性も感じないのであるから、自分の思想に限られたレパートリーのなかに決定的に住みついてしまうことになる。(大衆はなぜすべてのことに干渉するのか、しかも彼らはなぜ暴力的にのみに干渉するのか)本当に知的な人は外に目を向け、より上を目指すのに、 "大衆"はそうではないという、筆者が批判する"大衆"の典型例だと思います。所謂専門家にありがちなパターン。
驚くほど現代も同じような輩だらけであると悟ります。
それと共に、このような人間になってはいけないということです。
4.文明の中の未開人
世界は文明開化しているが、しかしその住民は未開なのである。彼らは自分たちの世界の中に文明をさえ見ずに、ただ文明をそれがあたかも自然物であるかのように使っているだけである。(中略)彼は、文明の利器に対する感慨をそれら利器の存在を可能にした原理にまで及ぼそうとはしないのである。(原始性と技術)これは私も気をつけないといけないなと思います。
多くの人が原理を考えることなく消費に勤しんでいるわけですが、それは視野狭窄であり、文明人ならば、自分が拠って立つ文明を意識すべきということですね。
しかし、世の中の文明は発達しすぎて、もはやすべての原理を一人が理解することは不可能に近いでしょう。たとえそうだとしても、原理を追求する姿勢を持つことは大事だということともに、人間の理解を超えた文明というものがどうなるかという警告とも感じます。
5.頂点と終末
真の生の充実は、満足や達成到着にあるのではない。(中略)自己の願望、自己の理想を満足させた時代というものは、もはやそれ以上は何も望まないものであり、その願望の泉は枯れ果ててしまっている。要するに、かのしばらしき頂点というものは、実は終末に他ならないのである。(時代の高さ)19世紀のヨーロッパ人は、「ついに成れり」の時代として、満足を通り越した時代であったとし、その先の時代(つまりこの文書が世に出た頃)について、語っている。日本人の感覚としては、異質なものであり、19世紀が頂点などとは感じないだろう。
日本人としては、バブル期がそうなのではないでしょうか。その時代こそが「自己の願望、自己の理想を満足させた時代」であり、結果として今の日本というのは「願望の泉は枯れ果て」た結果としての終末ではないかと、この文書を読んで投影してみました。
終末の次は再生……だといいのですが。
6.大衆が生まれた背景
前世紀があれほど誇りにしていた学校では、大衆に近代生活の技術しか教ええず、大衆を教育することはついにできなかったのである。(中略)偉大なる歴史的使命に対する感受性は授けられなかった。彼らに対して、誇りと近代的手段の力がせっかちに植えつけられたが、精神は植えつけられなかった。(一つの統計的事実)これまた手厳しい表現であります。
しかし、戦後教育の問題点の真理をついているのではないでしょうか。
自戒もこめますが、現代の日本人は驚くほど歴史について無知です。
年号・武将の名前そのような些事を暗記することで見かけの知恵はついている、これがせっかちに植えつけられた近代的手段というものでしょうか。
しかし、歴史の中の真理や、日本人としての精神というものは、(ある部分はGHQに破壊されたにせよ)まったくをもって教わることなく、殆どの人はそのまま知らずに一生を終えるのです。
これこそが大衆が生まれ、世に放たれ、そして社会が撹乱されていくことの真因ではないだろうかと思います。
凡俗な人間が、おのれが凡俗であることを知りながら、凡俗であることの権利を敢然と主張し、いたるところでそれを貫徹しようとする(充満の事実)行き着いた結果を表現するとこうなるのでしょう。
7.現代の専門家論
科学それ自体に対する無関心がたぶんどこよりもはっきりと現れているのが技術家大衆ー医者、技師等々の場合であるというにいたってはなおさらのことである。彼らが自分の職業に従事する場合の精神状態は、自動車に乗ったり、アスピリンを買ったりして、満足する人のそれと本質的にはなんら変わりないのであって、そこには科学や文明の運命との緊密な連帯感はまったく存在しないのである。(原始性と技術)なかなかに過激な表現ではあるが、その実かなり真に迫っているのではないでしょうか。
専門的な知識を備えているかもしれないけども、自分の立場や利益のために動いている人、かなり目立ちますよね。
そのような専門家をさらに激しく批判するのが12章の「「専門主義」の野蛮性」であり、科学の歴史から、なぜこのような人間が生まれたのかを紐解いていく、示唆に富んだ章です。
8.二世紀の話です。
国家は生を窒息せしめるような絶対的な優位な権力をもって社会の上にのしかかっていた。社会は奴隷化し始め、国家に奉仕する以外に生きる方法をもたなくなってきた。生のすべてが官僚化されたのである。(中略)あらゆる分野における衰退をもたらしたのである。富は減じ、婦人の出産率は低下した。そこで国家は、自己の窮状を救うために、人間の生存形式の官僚化をいっそう強化した。(中略)貧苦はますます増大し、女性の妊娠率はますます低下した。(中略)軍隊は外国の傭兵に頼らなければならなくなっていったのである。(最大の危険物=国家)この内容は古代の帝国主義国家の全盛期から衰退への内容なのですが、こうしてみるとなんだか物凄く現代日本と酷似していないでしょうか。
結局科学がいくら進化しても、人間が進化したわけではないということが、実によくわかる文章です。
過剰な税金や規制、社会保障、果ては教育や経済活動にさえも及ぶ、種々の「国家による社会的自発性の吸収」が、日本人の生を「官僚化」していった結果、初期は人々は幻想の中で、数字上成長した日本と一体化し、幸福な生活を謳歌したと思います。それをバブルと呼ぶのでしょう。
その後のことは筆者の指摘と全く同じであり、恐ろしい限りです。
9.国家というもの
国家というものは、人間に対して贈り物のように与えられる一つの社会形態ではなく、人間が額に汗して造り上げてゆかなければならないものなのだということである。(世界を支配しているのは誰か)国家だけに限りませんけども、現代人はあらゆるものを贈り物のように与えられていると勘違いしています。文明、科学、権利……。
しかし、それらのものは人間が歴史の中で紡いできた結晶なわけで、 本書中の表現を借りれば「遺産相続以外何もしない相続人」にならないよう、生きている人々全てに義務があるのではないでしょうか。
そのことを一人でも多くの人が自覚することが、一番大事なメッセージなのかもしれません。