2019年12月31日火曜日

日本は民主主義国家ではない

はじめに


日本は政治体制からすると、民主主義国家であることは疑いようはないはずです。
しかし、その実は民主主義を機能させるための仕組みがないため、民主主義国家とは言いがたいと考えています。

一般的に民主主義とは「国民が主権を持ち行使する政治」と解されます。
その意味でいうと、日本は形式的には民主主義国家です。
しかし、国民、つまり一般大衆というのは、殆どにおいて社会的な諸問題を解決する能力はありません。だから、議員を通じた間接民主制があるのです。
では、この間接民主制を維持するために必要なことは何でしょうか。

  1. 国民の代表として、適切な能力を持つ人間が政治参加すること。
  2. 代表者を選出するために、政治・社会・経済の適切な情報が共有されていること。
  3. 全ての国民が代表選定において平等であること。
この3つが最低限必要であると考えます。
しかし、日本は現状でこれらの条件が充たされていると考えがたいです。


政治参加について


今の議員を思い浮かべれば明白でしょう。年齢構成も偏っているし、社会階層もそうでしょう。
今の議員というのは、殆どが地盤を持っている二世・三世等の半ば貴族と化した階級と、特定の政治団体(労組等)に選ばれたものではないでしょうか。
何れにも当てはまらない人間が、特に国会議員でいうと、さて何人いるのでしょうか。

それらに当てはまらない人からすると立候補すら難しいのです。
まずは諸外国に比べて異常に高額な供託金の制度や政党を過剰に優遇する制度が邪魔しているのではないでしょうか。
供託金はそもそも一般国民がポンと出せる金額なのでしょうか。それだけのお金を取らないと選挙は成り立たないのでしょうか。何れもノーだと考えます。
政党は、政党助成金といった金銭的な優遇や比例との重複立候補や選挙放送といった選挙制度的優遇とあり、純粋無所属で出馬するというのは現実的に厳しいのです。

もちろん当選するには一定の票数が必要なので、政党や組織が裏にないと自由に立候補できたとしても困難であります。
しかし、既成の政党や組織が国民を代表できなくなった今でも硬直した議員構成のままであるのは、制度による面がかなり大きいのではないでしょうか。
ここまで投票率が下がってしまった一因には、「誰に投票しても同じ」「いつもの同じメンバー」ということで、投票することで政治に影響を及ぼすことができるという考えを国民の側が失っていることにあると考えざるを得ません。


情報共有について


昨今は「桜を見る会」の話が多く言われます。政治の側からの公開も問題ですが、マスメディアからの情報も問題です。
本来であれば、政治に不備があれば、それを中立で事実に基づいた取材により、公に示すことがマスメディアの役割です。
そうでなければ、主権者たる国民が判断を下すことはできないでしょう。

しかし、この国のマスメディアは、少なくとも国民から見てその役割を果たしているとは思われていません。その状態でありながら、政治と同様に既得権が貴族化しており、全く変わる様子はありません。
この問題については拙稿「フェイクニュースは罰するべきか」でも取り上げています。
働きが悪かったり、政府の御用機関に成り下がったり、果ては敵国のアジビラと化したマスコミを資本主義の力で、退場させることができ、新陳代謝の中でマスコミがもっと政府を監視できるようにしていく。そして、その結果が選挙にダイレクトに反映されるとなれば、政府の側の姿勢も変わるのではないでしょうか。


平等について


最後の「代表選定において平等」というのは、難しい問題です。
一票の価値が皆で同じという意味においては、地域格差はあるにせよ概ねはそのとおりです。この格差を埋めるためには、どのような制度がよいかということは大いに議論の余地があります。

しかし、ここで筆者が問題提起したいのは、世代間の公平さです。
はっきり言ってしまえば、後5年や10年で死ぬであろう老人と、あと50年以上現役で居る可能性のある若者は、本当に同じ一票でよかったのか。
中学生や高校生は投票できないが、痴呆老人の元には投票の案内が来るが、どちらも政治的判断力は備わっていないのではないか。
また、まだ産まれていない世代であっても、現代の悪政の影響というものは未来においても受けるのです。実際、産まれていないか参政権の無い頃のバブルの悪影響を、現代の若者は必至に処理しているとも言えるでしょう。

このようなことは、シルバー民主主義といわれ、投票率が高く有権者の多い高齢者に対し、適切な負担をさせられないまま、将来への投資や若年層への負担増が無節操に行われている現状が当てはまります。
表面的に見れば「国民が望んでいるから」ということになるのかもしれませんが、実際は「(有権者の多い)国民の特定層が望んでいるから」なのです。

1つの私案としては、平均寿命から算出される想定余命を元にして、投票者の票数に影響度を掛けるのはどうでしょうか。
想定余命を理由にするのは、当然ながら若い人の方が政治の影響を受ける期間が長いからです。

かつては、これを人口ピラミッドという形で自然に実現していたと言えましょう。しかし、今は皆が長生きをする時代になっており、一方少子化となって若者が減った以上、あるべき姿と真逆になってしまったということです。表面的には不平等ですが、公平さを守るための投票におけるアファーマティブ・アクションとでも言うべきでしょうか。

但し、想定余命以外の条件をつけることには徹底して反対します。
あくまでも民主主義の原則「代表選定において平等」を実現するためにどうしても必要な劇薬というのが考えであって、想定余命には十全な理由があるからです。
(日本ではありませんが)少数民族だからとか人種だからとか性別がとつけ始めてしまうと、平等からただ遠ざかるだけであります。

今の紙での投票では不可能ながらも、電子投票とすれば、年齢と性別と投票者だけであれば、秘密投票を守りながら、この重み付けを実現することは十分可能だと考えます。


終わりに


テーマが重いこともあって、今私もここで明白な回答を持ち合わせているものではなく、まとまりのない文章になってしまいました。

しかし、新元号「令和」になったにも関わらず、相変わらず「昭和」から何も進歩しておらず、「平成」という失われた30年を、40年、50年と延ばすだけではいけないし、その時は本当に取り返しがつかなくなっていて、貧民に成り下がるのではという危機感があります。
「令和」の世に相応しい日本を作るために、拙文ながら問題提起した次第です。




参院選前に日本の今後を論じてみた記事です。

日本復活へ一市民の妄言2019 その1



日本の社会の問題点として、年齢を中心とした上下があるという考えは以前から指摘しています。

封建的年功序列社会の限界