序文
結論から述べると、封建的年功序列社会というものの歪みが大きな影響を与えているのではないかと考えます。
人は誰しも自分が育ってきた環境(過去)をよいものとして考えるものであり、封建的年功序列というのは遥か昔から日本に流れてきた習慣(悪習)であります。それを振り払うというのは、明治維新でも敗戦でも出来なかったことであり、極めて難しいことでしょう。
小手先で、民法を変えたり、児童養護施設を増やしても、根本的な解決にはつながらないでしょう。しかし、本当の社会の病巣を知り、対処していくのは社会の担い手として、義務であると考えます。
封建的年功序列社会とは
年功序列というのは、一般的に企業等における給与体系のことを指します。
ここではもう少し広げて、社会全体において年齢及び功績によって序列が決まっている様を表すと考えていただきたいです。実態は年齢がかなりのウェイトを占めますが、年齢が同じ場合や、特に功績がある場合は、功績が前に出ることもあるでしょう。
それが表向きには対等とされる関係ながらも、実態として社会秩序の中における序列に組み込まれている。それが年功序列社会です。
あえて封建的とつけるのは、それが日本人的な「お上」の考えを簡潔に示せるからです。
では、具体的に分かりやすい例を示しましょう。
体育会系のクラブ活動というもの(といって筆者は蛇蝎の如く嫌っていたので所属したことなくイメージですが…)でしょうか。わずか1つ学年が上という、全く意味の無い序列を元にして「先輩」というものから、理不尽な命令までも実行させられる。そして、翌年、自分が味わった理不尽を無反省のまま、また1つ学年が上ということだけをもって繰り返す。当然、普通の学校のクラブ活動に功の要素は殆どないので、年の部分が非常に大きなウェイトを占めますが、一番顕著な例ではないでしょうか。
封建的年功序列社会はどこから来たのか
私は歴史の専門家ではないので、何故そのようなものが出来たのかということを正しく示すことは難しいです。ただ、源流としては儒教が考えられるのではないでしょうか。儒教の原点ともいえる論語にも以下のような記述が見られます。現代訳論語(下村湖人著)から抜粋してみましょう。
「家庭において、親には孝行であり、兄には従順であるような人物が、世間に出て長上に対して不遜であつたためしはめつたにない。長上に対して不遜でない人が、好んで社会国家の秩序をみだし、乱をおこしたというためしは絶対にないことである。古来、君子は何事にも根本を大切にし、先ずそこに全精力を傾倒して来たものだが、それは、根本さえ把握すると、道はおのずからにしてひらけて行くものだからである。君子が到達した仁という至上の徳も、おそらく孝弟というような家庭道徳の忠実な実践にその根本があつたのではあるまいか。」論語が間違っているか、合っているかという問題や時代背景の違いなどもありますが、「忠孝」 という考えは、本来無批判にお上や家長の言うことに従うことを示しているわけではなく、そうした方が正しい「可能性が高い」というレヴェル感のものだと思います。
だから、「歪み」なのです。如何に優れた古典であっても、当時の時代背景・空気感というのは文字で示せませんので、全て無批判に受け入れることはできないのですが、それが都合よく切り貼りされて、社会秩序に組み込まれているという歪みです。
封建的年功序列社会のもたらす災い
先ほどの虐待はあくまでも一例ですが、基本的には年齢なら(過去の)功績などで上に立った人間が何でもしてもよいというこの歪みは、非常に多くの問題を引き起こしています。
現在のシルバー民主主義というのも、単純に高齢者の数が多く若者が少ないという人口動態の問題だけではなく、高齢者の意識としての影響が大きく、「自分たち(の世代)が今の社会を支えてきたのだから恩恵を受けて当然」という発想があるのではないでしょうか。封建的年功序列の眼鏡を外して世の中を見れば、社会というものは誰か個人や世代のものではなく、先祖代々続いてきたものであり、そしてその先もやはり子々孫々続いていくものであるわけで、その中の一員として責任ある行動を取るべきであり、そうであれば選択として、今の若者やさらにその先のまだ生まれていない世代までのことを考えて投票するものでしょう。
あるいは、企業に目を転じてみると、日本企業の失敗は多くがこの点と関わりがあるのではないでしょうか。一番顕著な例は、雇用を守るといって、今働いている人を守ったかわりに、新卒を絞ったり、派遣を雇ったりし、自分たちの責任を、封建的年功序列社会において立場の弱い人に押し付けたことでしょう。
他にも、年齢と(多くの場合低レヴェルな)その世代の中で相対的な功績で社長になった、所謂「サラリーマン社長」は経営判断を誤り、高度成長期という人口ボーナスに恵まれた時代を過ぎてから、坂を転がるように転落するという結果になりました。
その他にも、ビジネスマナーや慣習の世界で多くの不効率を生み出し、雇用や賃金の世界では当人の能力や貢献を無視することにより人材流出を招くといった、国際競争力の低下に大きな影響を与えています。
そして子供の世界に目を転じると、親からの虐待も教師からの体罰も、封建的年功序列社会で説明がつきます。
親である、教師であるというのは、単なる年齢が上という事実以上に、自分の立場が上だと勘違いさせやすいものです。相手が知らないことを自分が知っているわけですから。
しかし、それは大きな過ちであり、知っているかどうかは、単に生きている時間軸の違いによるもので、能力の差でも努力の差でもなく、何一つ優越なものではないのです(能力が上、努力を多くしたといったことが、人と人の関係で優越であるものではありませんが)。
封建的年功序列社会を克服するために
そのような誤った封建的年功序列社会を克服するためには、まず本来どうであるべきかということを考えなければいけません。
筆者としては、天賦人権説を一度学び、考えるのがよいのではないかと思います。
勿論、正解はありませんが、天賦人権説を知ることは、少なくとも封建的年功序列社会の誤った考えを客観的に改める契機になることは間違いありません。それは元々自然権というものが、封建社会を転換していくものであったからです。
世の中の悪習を払うために、西洋の政治理論を学ぶというのは、如何にも迂遠のように感じるでしょうが、こと社会の問題については、テクノロジーが進化してもあまり変わらないようなものです。そして、また今後もテクノロジーの進歩では解決しないでしょう。
だからこそ、現代の問題から急に考えるのではなく、古代ギリシャから順序だてて、人間の(ほぼ西洋ですが)紡いだ歴史を紐解くのがよいのではないでしょうか。
だからこそ、現代の問題から急に考えるのではなく、古代ギリシャから順序だてて、人間の(ほぼ西洋ですが)紡いだ歴史を紐解くのがよいのではないでしょうか。
そして、封建的年功序列社会を克服したならば、先述の体育会系のような悪しき再生産を断ち切り、小さなこと(自分の家族からでも)啓蒙していければよいのではないでしょうか。
最後に
筆者は論語にも一通り目を通したことはありますが、論語や儒教は決して全て間違いだということはなく、解釈が間違っている、社会に歪んで染み付いているということに警鐘を鳴らすものです。
西洋の歴史を紐解いていくのと同時に、論語などの儒教的な考えも理解しておくことは、決してマイナスではないと思います。
それは、どちらが正解というものではなく、様々な考えを理解し、そこから自分で考えていくということが必要であるためです。そして、残念ながら儒教的考えを第一とし、そこから進歩できない人も居ます。そのような人とどう向き合うかということもあります。
しかし、人間社会というものは、年代が進むにつれて学ぶべきことが多くなり、人間の能力を超えつつあるなと感じる限りです。
一方で、(わかりやすく)お金になるものに偏った教育は偏った人間を作り出してしまいます。技術の進歩で一番危惧されるものは、この点なのかもしれません。