政府による市場の規制を撤廃し、競争を促進することによって経済成長率を高め、豊かで強い国を作るべきだ―「経済学の祖」アダム・スミスの『国富論』は、このようなメッセージをもつと理解されてきた。しかし、スミスは無条件にそう考えたのだろうか。本書はスミスのもうひとつの著作『道徳感情論』に示された人間観と社会観を通して『国富論』を読み直し、社会の秩序と繁栄に関するひとつの思想体系として再構築する。
前書き
アダム・スミスは、イギリスの哲学者・経済学者であり、国富論が有名な著書です。
国富論は難しい本と言われますが、その国富論をスミスのもう一つの著書である、道徳感情論の内容を踏まえ、一般に分かりやすく示した解説書が本著です。
国富論を道徳感情論から読み解くことにより、一般に考えられている国富論の「神の見えざる手」が自由競争が全てといった見方は、スミスの本意ではないことを解説しています。
道徳感情論
道徳感情論の重要なポイントを概説します。
秩序を導く人間本性
スミスは、人間はお互いに関心を持っており、他人の行動や感情の適切性を判断し、それを是認することで快感を得て、逆に否認することで不快感を得るとします。その為、人間は、他人を意識することで自分の行動や感情が、他人に是認されたいという願ようになり、それは人類共通の重要な感情とします。そこで、他人に是認されるためには、経験を積み重ねていくことで心の中に他人を居るような状態を作り、その判断を重視します。これを「公平な観察者」といいます。
しかし、人間は自分の利害などで公平な観察者の判断を無視することが考えられます。それに対しスミスは、「一般的諸規則」があり、これは公平な観察者が非難に値すると判断されるであろう行為は回避され、逆に賞賛に値すると判断されるであろう行為は推進されなければならないというものです。
私たちが他人との交際により、所属する社会の中で経験的にこれを学びとっていくことにより、賞賛への欲望と非難への恐怖から、自然と秩序だった社会ができると説きます。
具体的に言えば、内容や動機はさておき殺人事件を見れば、殺人は処罰に値するとまず判断するのは、一般的諸規則に基づくのです。
また、一般的諸規則を自分の行為の基準として顧慮しなければならないという感覚を、スミスは「義務の感覚」と呼びます。義務の感覚は、人間の本能を制御し、非難または喝采を与えることと説きます。スミスは、義務の感覚が制御するものの中に、利己心や自愛心を含むとします。著者は、このことが国富論を理解する上での要点と考えています。
では、義務の感覚に従うのは何故かということになりますが、一般的諸規則の侵犯は内面的な恥辱や自己非難となり、一般的諸規則に従えば満足感や心の平穏が得られるとします。
繁栄を導く人間本性
スミスは人間の野心について、人間が集団生活を営むことにより求めるものであり、富や地位の便利さや快適さよりも、それを手にすることによる他人からの賞賛や尊敬といったもののためであるとし、これを「虚栄」と呼びます。
虚栄とは、公平な観察者が自分に与える評価よりもより高い評価を世間に求めることです。このためにかぎられた富や地位をめぐっての競争が発生します。
幸福については、スミスは平静と享楽にあると定義し、その平静のためには「健康で、負債がなく、良心にやましいところがない」ことが必要とします。先ほどの一般的諸規則に従わないあるいは従えない状態というのは、平静にはなれず、つまり幸福ではないということです。また、最低限の富がないということは、それそのものの不便さ以上に、貧しい人の苦しみにに同感せず、軽蔑しあるいは無視する世間があるからです。
一方、幸福は大きく増進するものではないと説きます。
享楽については、平静がなければ享楽はなく、完全な平静ならばどんなことでも楽しめるとしています。
では、最低限以上の富を求める虚栄といった人間の「弱さ」には何の意味があるのかについて、スミスはこの欺瞞こそが経済発展をもたらすとします。人が富を求めるうちに知らず知らず社会の繁栄を推し進めるものであり、社会の発展に貢献したいという公共心に基づくものではないとします。
そうなると富を独占する人と、必要な富が無い人とにわかれていく結果になりますが、結果として富める人は集まった生産物の中で最も貴重で快いものを手に入れるだけで、貧乏な人より多くを消費できず、自らの虚栄心のために贅沢品を作って消費する。その過程で贅沢品を作るために貧乏な人を動員し、対価として必需品を渡すことで配分されていき、幸福は人びとの間で平等に分配されていきます。この仕組みを「見えざる手」として、道徳感情論の中で唯一、この言葉使っています。
野心によって、富を得る過程においては、自己を研鑽していく前に進む方法と逆に他人の足を引っ張り相対的に前に出る方法の二つが大別して存在します。
公平な観察者は、当然ながら後者を許容せず、道徳的に認められませんが、中にはこのような方法でしか、富を得ることのできない場合もあり、また企てに成功することによって、その隠蔽を実現することもあります。
しかし、「一般的諸規則の侵犯は内面的な恥辱や自己非難となる」ことにより、このようなことは容認されず、自然と競争はフェア・プレイのルールに則り行われることになり、社会の秩序は保たれ、繁栄するというのがスミスの考えです。
人間は、賢明さと弱さの両方を併せ持つこと認め、またその両方に役割を持たせていることがスミスの議論の特徴と筆者は説きます。
国際秩序の可能性
さらにスミスは、一つの社会の中の秩序だけではなく、社会と社会、つまり国家間の秩序の可能性についても言及しています。
公平な観察者は、社会の中で産まれるものであり、その社会の慣習や流行に影響されるとしますが、評価基準が多少影響を受けるとしても、一般的な性格や行為に対する評価基準は変わらないとします。その理由として、生命などを侵害することを賞賛する社会は存続できないため、存続し得る全ての社会においては、程度の差があっても共通に見られる感情であり、道徳は文化と異なると説きます。
そのため、公平な観察者に多少の差異があったとしても、多くの部分においては重なり合うため、その部分の「国際的な公平な観察者」が成り立ち、国際秩序の維持や形成は可能とします。
実際に実現しない理由として行き過ぎた祖国愛から生じる「国民的偏見」という道徳的腐敗が生まれていることにあると説明します。
また、利害関係の薄い国が「中立的観察者」になりうるが、遠いのでその目を意識しないこともあるとします。
国富論
続いて国富論についてのポイントです。
分業
スミスは、繁栄の原理として分業が進むことで、社会全体の生産性が向上するとともに、増加した生産物が社会の下層に広がることを重視します。
しかし、分業をするには他者との「交換」がなければ成り立ちません。一見すると分業があるから交換が進むように思われますが、スミスは人間には他者と物を交換するという性向があり、その性向に基づく交換の場ができることにより、人びとは安心して分業を進めることができると説きます。
また、相互の愛着が無いような他人が相手になったとしても、サービスを受けたいという一方とサービスを与えることにより対価を得たいというお互いの自愛心があることにより、交換は成立するという互恵関係です。
このように本来の市場は互恵の場ですが、「財産への道」を歩む人が参加することにより競争が生じます。彼らがフェア・プレイのルールに則り行われる限りにおいては、サービスを向上させることで報酬が上がることが見込め、分業が可能になります。この結果として、他人の生産物で自分の生活を支えることのできる社会となった社会を、「商業社会」と呼びます。
では、市場では何が起こるのかについてです。
- 市場は人びとの欲しいものをリーズナブルかつ豊富に提供する。
- 市場では、相対的に優位な状況を維持し続けられない。
- 上記2点の機能を支えるのは、市場参加者の自愛心なり利己心である。
- 市場が公共の利益を促進するには、利己心だけではなく、フェア・プレイの精神が必要。
1と2は自由経済が分かっていれば、自明のことでしょう。
3については、需給の何れかが偏ったときに、買い損ねたくない、売り損ねたくないといった自愛・利己の精神によって価格の調整を受け入れ、さらにより利益が得られるものに自分のサービスを提供しようとすることで、最終的に需給が調整されます。
4もまた自明ですが、3で言及するような機能を抜け道的に無効化したり、独占などの人為体障壁がある場合、1と2の前提が崩れますので、市場は本来の機能を果たせなくなります。
資本蓄積
スミスは分業の前提として、資本蓄積が進むことが必要と説きます。工場の例が出てきますが、分業を実現するために、部品や工具などの貯蓄が無ければ、分業は不可能であり、これは社会においても同様だとします。
スミスの議論では、階級社会が前提となっており、地主・資本家・労働者という三層が存在します。地主は土地を貸すことで生活している不老階級、資本家は土地を地主から借り、労働者を雇用して、生産活動を行い、労働者は資本家に雇用され、その賃金で生活を維持する階層となります。さらに、労働者には就業者と失業者にわかれ、後者は「最低限の富」がなく、犯罪や物乞いなどをするようになります。
その中で資本家は「財産への道」を歩み、地主の階級で優雅な生活をしたいと野心を持ち、それにより資本を蓄積し事業を拡大することで、労働者階級も就業者が増え、賃金もあがるようになります。このためには、同時に「徳への道」も歩み、正義や節制等の徳を資本家が身につけることが必要です。
ちなみに、スミスは再配分を重要視しなかったのですが、それには失業者層には、富だけではなく独立心を持って、世間の蔑視や無視から自由にならなければいけない(幸福を得られない)ため、「施し」ではなく「仕事」が必要であり、それは資本家が資本蓄積を通じて為すことと考え、経済成長を重視していました。
資本蓄積は、細かい仕組みは省略しますが、資本家の浪費が少なく資本に回る貯蓄が溜まることと政府支出が少なく取られる税が少ないほど早く進みます。
その中で前者は個人が持つ倹約志向があり全体的に大きな問題にならないだろうとし、後者をスミスは問題視します。
公共財を管理するとき、個人が自身の財産を管理するような慎慮と倹約志向は見られないことと、公共財産を管理する階層は、主として地主階級であり、元々倹約志向が弱く、財産管理・運用の経験や知識が乏しい。
一方、資本家はこのような経験知識に勝るが、致命的な欠陥として公共精神に乏しく、自分自身の利益のために公共の利益を犠牲にすることがあるということである。
つまりスミスは、資本家を、資本蓄積を推進させ経済成長へ導く中心的担い手としながら、公共の利益を損ねる可能性が高いと考えていました。
また、一部の資本家を守る政策は、国内市場の不効率化だけに留まらず、保護貿易という形で外国との関係を悪化させ、戦争を誘発し政府支出を増大させていったと指摘します。
今なすべきこと
最後にスミスが何を当時のイギリスで必要と考えたかについてです。
この前の章には、西ローマ帝国以来の歴史を紐解いて、自然な発展と実際の発展の差異を示しています。興味深い内容ですが、本稿ではカットさせていただきます。
スミスは、まず政府が何らかの優先・抑制を行うことを廃止し、経済システムを「自然的自由の体系」に復帰させることを主張しました。
何を優遇、あるいは抑制させることが、社会全体の利益を最大化するのか、その為の方法は何か、人間はそれを正しく判断する完全な知識を持てないということである。
だから、個人がフェア・プレイのルールに基づいて、自由に行動することで「見えざる手」に導かれて社会全体の利益がもたらされるとします。
一方で、めざす理想が如何に正しくとも、その道が苦難に満ちていると、人々は統治者の計画についていけない。急進的に改革を進めていくことは、人々がついていけず、失敗に終わるに留まらず、社会を現状よりも悪化させるだろうとしています。
理想へ向かって急進的に進めるのではなく、(それがたとえ不当な独占を続けてきたような相手でも)損害を被る人々に配慮し、自然的自由の体系への完全な復帰は、時間を書け慎重に行うべきこととしました。
考察
最後にこの本を通じて理解したスミスの思想を元に、私なりの考察を加えます。
スミス思想を生かすには
スミスは、現代日本では(私だけか?)経済学という観点で語られるように思いますが、元々の出身が哲学・道徳ということもあり、彼のバックグラウンドを理解し、道徳感情論の内容を理解することで、また違った考えが導かれます。
この思想の優れた点は、人間の本能に裏打ちされており、「全員が合理的に行動すること」といった有り得ないモデルが前提になっておらず、野心・共感性と言った全員が持っているであろうものであるため、受け入れやすい・理解しやすいものです。
では、何処に穴があるのかというと、1つは「公平な観察者」によって罰せられることではないでしょうか。スミスは、「公平な観察者」に批判されるような行動を取ると、心の平静や安寧が乱されるため、そのような行動は取りえないとします。
残念ながら実社会には、「鈍感力」を発揮して、そのような批判を退ける人もいます。
また、親や周囲の人間が性質が悪く「公平な観察者」の育成に失敗した人もいます。
このような人が、蟻の一穴のように作用し、次々と「公平な観察者」に批判されても大丈夫という思想が「赤信号皆で渡れば怖くない論」で拡大しているのではないでしょうか。
もう1つは、社会の外との関係です。スミスはヨーロッパ人であり、キリスト教的ヨーロッパ的世界観の中にいた人物です。この世界観は未だに有効のようですが(こちらも参照)、昨今は支那の台頭などで揺さぶられており、彼らの行いから鑑みて、「公平な観察者」は居ないのか、もしくは全く異質なのか、ということです。
それでもスミスの思想から学ぶべきことはたくさんあり、よりよい社会を作るベースになるものだと考えます。。
その中で私が重要だと思う考えと、その現代で必要な補足を考えます。
まず最初に「公平な観察者」について。スミスは、社会で生活していく中で、周りの人間の反応から自然に出来上がるとしています。
「公平な観察者」は、スミス思想の肝であり、そして弱点です。
ここを補うには何が必要かと言えば、私は教育だと思います。親が問題人物だったとしても、あるいは既に居なかったとしても、人間として必要な「公平な観察者」を育てるために出来ることがあるとしたら、教育に他ならないのではないでしょうか。
では、次の社会の外とはどうするか。
これは結論がはっきりしています。外は変えられません。自由主義を是として付き合う国とそうでない国を決めて、対応を二分させるしかありません。
「何を優遇、あるいは抑制させることが、社会全体の利益を最大化するのか、その為の方法は何か、人間はそれを正しく判断する完全な知識を持てない」としても、社会の中に対してはともかく外に対しても自由というのは、無理というのが現状ではないでしょうか。
もちろん、世界全体が一つの社会となるような時代がくればまた別であります。