2019年1月5日土曜日

陸と海 世界史的な考察(カール・シュミット著)

陸と海―世界史的な考察
海と陸の戦いとしての世界史を描いたシュミット地政学の傑作。ヴェネチア共和国、オランダ、イギリス、米国―海の国の系譜につらなる“海洋国家”日本の針路を考えるための必読書。激動の世界情勢を読み解く地政学的アプローチ。


前書き

著者のカール・シュミットは、ドイツの法学者・哲学者で、ナチス・ドイツのいわゆる御用学者に近い存在であったこともあり評判の悪いところもあるのですが、新聞か雑誌かでこの本が出た時に書評があり、気になったので読もうと思っていました。
内容を概要をまとめしつつ、考察を加えていければと思います。

概要

古代ギリシアか第二次世界大戦まで歴史を通じて、2つのポイントで陸と海を考察していきます。

一つ目のポイントが、陸(ビヒモス)と海(リヴァイアサン)のエレメント(元素)という観点です。

二つ目のポイントしては「空間革命」という概念があります。これは、人間の生が拡張する歴史的なタイミングでは、人間が認識している空間(ラウム)が概念が変化することが伴っており、それを「空間革命」と称しています。
古代ギリシアやヴェネチアの時代は、海洋進出を成し遂げておらず沿岸までのことで、「海戦」も結局は相手の船に上陸して戦うことから、「海の子」にはなっていないとしています。その象徴がヴェネチアのブチントーロと指摘します。

では、本当の海洋生活が始まったのはどこかというと、帆走技術によってガレー船から帆船になり、戦闘が上陸戦から大砲で船を沈めるようになったことと、その船で鯨を世界中で追うようになったことにより、海のエレメントの中で生活する「海の子」になったとします。
そこで、ポルトガル、スペイン、オランダ、フランスと続々海洋進出を果たすわけですが、イギリスはスペインを打ち破ったことや、仏蘭が陸に力を取られている間に、「ヨーロッパ諸民族が築いた遺産」を手に入れ、真の意味で自らを海のエレメントとしたと指摘します。その勝利を「全地球規模の空間革命」と考えます。

この時期に「全地球規模の空間革命」が起こるにあたり、単に遠くまで海洋進出しただけではなく、地球が球体であることや地球が太陽系を回っていること、さらにはその太陽系が広い宇宙の一部でしかないことを、単なる思想ではなく科学的な裏づけのあることとして発見し、空間概念が変革されたことが一つ条件としてあったと指摘します。

イギリスが海洋覇権を握ったことにより、陸と海の分離が為されました。陸上には多数の国家が存在する一方で、海洋は自由であり誰のものでもない、あるいは皆のものであり、国家から離れた存在になります。そこでキリスト教的・ヨーロッパ的な(イギリスの理念)国際法が発展し、この時代の「ノモス」(基本原則)となっていました。
また、陸戦においては国家が作った軍隊同士の戦闘であり、そこで住民が関係することはなかった(攻撃の対象とならなかった)が、海戦になることにより、野戦に該当する海戦よりも、海岸封鎖により経済的ダメージを与えることに遷り変わり、その結果非戦闘員も含めた攻撃となるようになりました。

ここに成立したリヴァイアサンの帝国が変質するのが、産業革命の時代であり、帆船から蒸気船に変わり、「海の子」は機械の操作者になります。海のエレメントと人間の間に機械が挟まることにより、イギリスの本質と海洋支配の核心が暴かれたとしています。

その後第一次大戦期から、飛行機が登場し、空のエレメント(巨鳥)が登場し、陸のエレメントと海のエレメントの関係が変わり、地球のノモスがなくなり、新しいノモスが生まれると結びます。

一方、地政学で有名なマハンについては、新たに生まれた空間概念に背を向け、島国をイギリスからアメリカに読み替えて、古い秩序を留めようとしていると指摘しました。

考察

書籍の内容は、そのぶつかり合いを伝説の生き物(ビヒモス・リヴァイアサン)に例え、歴史上の事柄を織り交ぜながら解説していくストーリーのような体裁であり、難しい学術的な定義をするものではありません。
なので歴史に興味がある人でも読みやすく、却って「シュミット地政学」なんてカバーをつけて、取っ付き辛くしているような感があります。
もちろん、既に西洋史の知識を一定程度持った上で読むことが望ましいです。

この本を読んで感じることは、地政学が陳腐化しているのではないかというところで、シュミットのいうラウムは既に、空や宇宙を越え、サイバー世界まで広がっている現代において、ランドパワー・シーパワーというのは、如何にも古い話なのではないでしょうかということになります。
一方で実態として、ランドパワー(EU・露国・支那)とシーパワー(米・英・日)という構図は、英国が最終的にどちらへ転ぶのかまだわからない中と言えどもあるわけで、一概にもう時代遅れと言い切るのは早計ですが。

本書に戻って考えると、地政学と空間認識は切り離せない関係にあり、現代の国際秩序に対する地政学となると、空や宇宙、サイバーなどの空間をどう認識するかという点が、陸・海以上に重要になってくるのではないでしょうか。
そう考えると、米国の支那に対する処々の制裁を、ディールを求めているなどと訳知り顔で解説するコメンテーターというのは、私は教養を持ち合わせていませんと自己紹介しているようなものであって、宇宙・サイバー空間の新たなリヴァイアサン(支那だけに黒竜とでもしましょうか)が誕生するかという光景をライブで見ているという実情を全く理解できていないということになります。

アメリカは、未だなおその地位を守り続けていますが、次の宇宙・サイバーの世界まで持つのかというのは、やはり気になるところでありますが、少なくとも米国人は、「エレメントの支配者」になることの重要性を理解しているわけで、その点に向けて研究を進めているものでしょう。

翻って、日本のことを考えると暗澹たる気分にならざるを得ないわけです。
敗戦によって戦前と断絶し、地政学は滅びたに近い状況でありますが、その結果(それだけではないですが)として、一切の戦略が失われた国家に成り下がっています。最も、戦前に戦略があったのか、それを生かしたのかと言われれば、前者はともかく後者は絶対にノーとなりますが。
つまり、日本人はまず歴史を振り返り、戦略というものを自らの中で定義しなければ、次のエレメントにどのような方針で臨むかということに答えは出ないのです。
今の若者が未来を悲観しているのは、このような日本の後進性を、知性とは別のもっとプリミティブな意味で察した結果なのではと感じます。

最後に全くの私見を述べるなら、リヴァイアサンは既に海の生き物ではない何かに変容していますが、一方でその根源的な存在定義である、キリスト教的ヨーロッパ的世界観というものはまだ健在なように思います。宗教的なことや欧州連合のことではなく、イギリスがリヴァイアサンとなる過程で成立した、その世界観とそれに基づく体系的な国際関係・法律・哲学というのは、未だに世界を支配しています。その世界の中には、アメリカもイギリスともドイツもロシアも居ます。単一の覇権国としてのそれではなくとも、リヴァイアサンは世界観としてやはり健在なのです。

その中で日本は、非キリスト教国・非西洋であり、西洋の支配を退けながら、一方で西洋を受容し、日本的なものを残しつつ、自発的に西洋化をした稀有な存在であります。
我々は、そのような先人の心意気を無駄にはしたくないものです。