「読書とは他人にものを考えてもらうことである。1日を多読に費やす勤勉な人間はしだいに自分でものを考える力を失ってゆく。」―一流の文章家であり箴言警句の大家であったショウペンハウエル(1788‐1860)が放つ読書をめぐる鋭利な寸言、痛烈なアフォリズムの数々は、出版物の洪水にあえぐ現代の我われにとって驚くほど新鮮である。
前書き
1800年代ドイツの哲学者、アルトゥル・ショーペンハウアーの「Parerga und Paralipomena」の三篇にあたる本です。
哲学者の本というと読みづらい、わかりづらいというのが一般的な印象ですが、本書は比較的平易な文章で、また本自体も分厚くないのでどなたでも手に取れます。
内容は、文学(小説から評論、哲学まで幅広く文章全般を含む)に対する批評です。
情報や出版物の洪水に埋もれる現代にも通じる内容であり、勉強をしていく人にとって指針となるものです。
その中から私が気になる箇所を抜粋し、考察を加えます。
思索
もともとただ自分のいだく基本的思想にのみ真理と生命が宿る。我々が真の意味で充分に理解するのも自分の思索だけだからである。書物から読みとった他人の思想は、他人の食べ残し、他人の脱ぎ捨てた古着にすぎない。表現は過激ですが、ショーペンハウアーの一貫した主張は、書物から得た他人の思想を自分のものだと考えるなという戒めです。なので、書物を読んで満足してはいけないということになります。また、現代は思想のコピペが氾濫している印象があり(私がそうではないとは言わないが)、それがオリジナルなのかコピーなのかを見分けることも必要ではないでしょうか。
美しい思想でも、書きとどめておかなければ完全に忘れられて再現不能となるおそれがあり、最愛の恋人も結婚によってつなぎとめなければ、我々を避けてゆくえも知れず遠ざかる危険がある。思想と恋人が並ぶのがちょっと痛快なのですが、人間は忘れるものなので、文章を書くこと自体は重要なことです。
著作と文体
まず著作者には二つのタイプがある。(中略)第一のタイプに入る人々は思想を所有し、経験もつんでいて、それを伝達する価値のあるものと考えている。第二のタイプに入る人々は、金銭を必要とし、要するに金銭のために書く。(中略)したがってその文章には明確さ、非の打ちようのない明瞭さが欠けている。これは現代も変わらずで、異論はないと思うのですが、本当に自分の思想を伝えるためのものと本を売るための本と二種類があります。
本を読むならば、後者に該当する本を如何に読まないかが重要になります。
現在文学が悲惨をきわめているが、その禍根は著作による金銭獲得にある。金銭の必要なものはだれでも机に向かって本を書く。民衆は愚かにもそれを買う。このような現象に伴ってまた言語が堕落する。良い物を見分けるというのは、言うは易しくとも、実現するのは知者でも難しく、そもそも世の中は大衆が占めているので、悪書が出回り、それによって金銭を得る人がいることで、ループすることを指摘しています。
新書が増え(筆者と違い新書=悪書とまでは言わないが)、さらにネットなどの情報も氾濫する現代は、さらにこの事象が悪化しているように思います。さりとて、執筆に対価を与えないわけにもいかず。読み手は、このような雑文が多数を占めていることを理解することしか手は無いのでしょうか。
そこで我々はできるだけ重大な問題についての創始者、設定者、創案者のものを、あるいは少なくとも定評のある専門の大家のものを読むべきであり、またむしろ古書を求むべきで、古書の内容を手あたりしだい、抜き書きして作成した概説書はひかえるべきである。先ほどの問題に対する筆者の答えが、これだと思います。
もちろん一つの考えであり、専門の書は手垢がついていないかもしれませんが、一方で噛み砕かれても居ないので、読むことそのものが難しい、或いは読めても内容を正確に理解できないということもあるでしょう。概説書・入門書を読むとしても、定評があり多くの人の目による審判を受けた書を選ぶべきでしょう。(その審判でさえ疑わしい現代ですが……)
新人評論家でもない限り、ある本の激賞や、はなはだしい誹謗に気がつけば、だれでもほとんど機械的にただちに出版会社に思いをはせるに違いない。評論批評が読者のためではなく、出版業者のために行なわれていることは普通なのである。世の中に転がっている書評の類が信用できないことを喝破しています。
ステマなどの広告が溢れる現代人からすると普通かもしれませんが、これが19世紀に既に指摘され、現代に通じることに感激を受けます。
匿名主義の評論雑誌は、無恥が学識を裁き、愚昧が聡明を裁いても、また悪書を奨めて大衆から金銭と時間を搾取しても処罰されずにすむまったくの無法地帯である。いったいこのようなことが許されてよいのか。匿名こそ文筆的悪事、特にジャーナリズムの悪事一切の堅固なとりでではないか。先ほどと同じパターンです。匿名がネットに溢れる現代ではなく、既に19世紀にあったということが感激です。現代では、ハンドルネームだろうが、或いは実名だったとしても偽名で書けてしまう時代なので、ますます難しい世の中になっています。
一度考えぬいた明瞭な思想には、ぴたりとした表現辞句も容易に見つかる。人間の力で考えられることは、いついかなる時でも、明瞭平明な言葉、曖昧さをおよそ断ち切った言葉で表現される。つまり、これが書けないということは、思索が足りないということであり、それは思想だけではなく、我々が書く文章全てに当てはまることです。少なくとも人並みの読書をして文章表現を識っているのであれば、書くべきことへの理解が、すなわち文章能力なわけです。このような長い生活で感覚として理解してきたことも、700円ばかしの本で明快にわかるわけですから、やはり古典というのは優れているのです。
少量の思想を伝達するために多量の言葉を使用するのは、一般に、凡庸の印と見て間違いない。これに対して、頭脳の卓越さを示す印は、多量の思想を少量の言葉に収めることである。悪書を捨てるための基礎であり、我々が文書を書くときに考えることを示しています。
この短い言葉で、多くの場面で使える深い示唆を与えられるのは、やはり著者の頭脳が卓越しているのでしょう。
主観的であるとは、執筆者が、文章の意味を自分だけで理解して満足していることである。読者は読者なりの理解のしかたで読んでも結構という態度である。(中略)つとめて客観的にすべきである。それには読者をあらぬ方向に走らせぬ文章、著者が考えたことをそのまま読者にも考えさせる迫力ある文章を作らなければならない。主観的なのが現代(筆者の時代)のドイツ語の欠点とし、主観と客観の違いを指摘しています。執筆とは本来は、読者に何かを考えさせるためのものである点に、筆者は一貫して立っています。この読書メモは、「文章の意味を自分だけで理解して満足している」代物ですが、苦笑。
読書について
読書は、他人にものを考えてもらうことである。(中略)読書にいそしむかぎり、実は我々の頭は他人の思想の運動場にすぎない。本書の最も象徴的なワードであり、数々のガイドでも出てくる内容です。
(本書の順番どおりに記載しているため、既に他と重なっていますが、あえて記載します)
読書に際しての心がけとしては、読まずにすます技術が非常に重要である。その技術とは、多数の読者がそのつどむさぼり読むものに、我遅れじとばかり、手を出さないことである。筆者は、新著を蔑視する傾向が強いので、その点は多少割り引いて考えるところですが、実際のところ「ベストセラー」というものが本当に読む価値があるのか。その「ベストセラー」半世紀、1世紀と時を経ても、まだ真理を残すのか。そう考えて立ち止まることも必要なのだと思います。もちろん、常に最新の情報をアップデートし続けなければならない分野はまた別で、玉石混交の海を泳ぐしかないと思います。そのような場合でも、本書は玉を捜すにあたり、役に立つ示唆を多数与えてくれます。
つねに読書のために一定の短い時間をとって、その間は、比類なく卓越した精神の持ち主、すなわちあらゆる時代、あらゆる民族の生んだ天才の作品だけを熟読すべきである。彼らの作品の特徴を、とやかく論ずる必要はない。良書とだけ言えば、だれにでも通ずる作品である。このような作品だけが、真に我々を育て、我々を啓発する。筆者の主張は些か過激な部分を含みますが、それにしても現代人は、時代の審判を超えてきた、良書中の良書を読んでいない(その割に浅い自己啓発書やセミナーには金を投じる)ことにより、新しい成長がなかったり、むしろ愚劣になっているのはないかと、私も思うことはあります。
だからこそ、若い時分、それを読む機会が少なかったことを悔やむ部分があります。
もっと学校教育の中で、良書を読むことを指導しなければいけません。多読はいけないので1日1時間とかでも。しかし、それは「教育ビジネス」としては「旨み」がないのか、教育を決めるべき政治側に教養がないからなのか、一向に進むことは気配はありませんし、今後も進まないでしょう。
良書を通じて真の教養を子孫に伝えることもまた人間の務めです。例えば、浅薄な道徳の副読本を配り評価をつけるより、「論語」を読ませてアウトプットさせる、そんな世の中になるべきではないかと思うばかりです。
「反復は研究の母なり。」重要な書物はいかなるものでも、続けて二度読むべきである。それというのも、二度目になると、その事柄のつながりがよく理解されるし、すでに結論を知っているので、重要な発端の部分も正しく理解されるからである。これも結構できていなくて反省なのですが、本は数よりいかに身につけるかという点では、 全くそのとおりだと思います。
読みたい本は多いけれど、読書習慣の薄さから長時間読み続けるのも疲れるので、(それだけ浅い本しか読んでこなかったし、浅い読み方しかしてなかったということです)次々読んで、このようにアウトプットして終わりにしてしまっているのですが、記憶を深める意味でも反復は大事ですので、よい書は再読を心がけるようにしたいです。(その際思うことがあればまた記事は更新します…たぶん)
終わりに
読書術に関する本というのは、世の中に無数に転がっていますが、読書の本質を喝破しているこの本は、そのような本を何冊並べても得られないような深い示唆を我々に与えます。
古典は現代人にすると読みづらいこともありますが、得られるものは多いので、引き続き読んでいこうと思います。