これ自体はありふれていることで、本当に会談中でまとまっていないものを出せないのかもしれませんが、今までの同社の報道スタンスを鑑みると政治的意向を感じるわけであります。
それで、ふと「フェイクニュースは罰するべきか」ということを考えたので、語ってみたいと思います。
結論からいうと、デメリットというかリスクが大きすぎるので辞めた方がいいと考えていますが……。
その上で、今の新聞のように自由に記事の合間に事実とオピニオンを織り交ぜて、「伝えたいことを伝える」状態を「国民が知るべき事実を伝える」に、努力を皆が続けることで変えていくしかないだろうと思います。
まず、前提としてフェイクニュースを罰せられる対象は誰かということです。
誰も彼もを対象にするのは、影響力の違いがあるということや思想・信条の弾圧にも繋がりかねない危険なことですから、ありえません。
また、情報発信の自由というものも尊重されるべきものであることも確かであり、個人や法人であっても報道機関として強い発信力を持ちえない場合、規制の対象としない方が良いと考えます。
もちろん、だからといって意図的にフェイクニュースを流してよいわけではなく、それによって実害があれば(例えば名誉毀損)、そちらで罰するのが妥当という考えです。
そこで、下記の条件を考えました。
- 公的機関(に勤務するものが公的立場で発した場合)
- 一定規模があり、特権的立場のある報道機関
- 他国の政府機関・諜報機関及びそれに準ずるもの
2番は、果たしてどこまでそれを認めるのかが難しいラインでありますが、私の想定としては、テレビやラジオについては、放送法の定義するところの放送事業者がまず入るでしょう。
次に新聞ですが、「日刊新聞紙の発行を目的とする株式会社の株式の譲渡の制限等に関する法律」というものがあります。早い話が新聞社は買収できませんということになるので、これは特権的立場といえるのではないでしょうか(高橋洋一氏が厳しい批判をしているので、ぜひご覧いただきたいです)。
あるいは、第三種郵便物に該当するものを発行する発行体と考えるのもありではないでしょうか。
要するにこのような「特権的立場」を持つメディアは、国民の自由・権利を守るために(本来であれば)事実を適切に報道する義務を負っていると考えます。
しかし、権利と対になる義務について、今の法律では書いていない気がします(筆者が知らないだけかもしれません)。
3番は、外国からの政治的な介入を抑止するのが基本的な狙いです。外国政府が表立ってフェイクニュースを出すなんてことは、一部のならず者国家を除けばないでしょうから、諜報機関なり政府系メディアということになるでしょう。日本にはこの手の機関に対峙する法律がないので、参考に示すものがありませんが。
次に、犯罪とする以上は、その構成要件が決まっていなければいけません。
単に、事実と違うことを発したり、報道したりしたことを犯罪するのは、明らかにやりすぎです。何故なら、これでは萎縮効果が大きすぎるからです。
つまり、誤報は無罪であり、捏造は有罪なのです。よって定義するならば、
- 事実と反することを意図して発表・報道する。
- 事実の確認や編集において、重過失がある。
- 事実の認識を誤認させることを意図して、重要な事項を発表・報道しない。
1番はわかりやすいと思います。意図的に事実と異なることを報道することを禁止するわけです。でも、これで捕まるケースは余程のことがないとないのではないでしょうか。
だって、どう考えてもわざとじゃない、誤認があったと言うに決まっているでしょう。
2番は、そのような事態を防ぐためにあります。特権的立場にあるものが発信する以上、私のような個人が発信するのと同程度の事実確認では、当然駄目なわけであって、「報道機関が取材を尽くしても、事実だと認識せざるを得なかった」というところまで行くべきです。
3番は、非常に難しいです。心情としては、「報道しない自由」と揶揄されるメディアの実態からすると、事実を隠すとかあるいは編集上のテクニックでぼやかすという行為は、処罰に値すると思います。しかし、法律にそれを落とし込むというのは、言うは安しですが、事実困難であります。また、隠した部分が、報道上重要なのか否かも難しいです。たとえば犯罪があったとき、犯人が日本人なのか外国人なのか、その時国籍まで伝えるのかというのは、私は国籍まで伝えるべきだと思いますが、「報道機関の責任」としてどこまでかは決まっていないし、おそらく決めようもないでしょう。
長々と語ってきましたが、要する犯罪として定義するには、デメリットが大きすぎるのと、それが故に定義を厳しくしようとすると、実効性がなくなってしまうということです。
では、どうすればよいのかというのが最後の論点です。
結局は、我々一人ひとりが情報リテラシーをつけていくことに尽きてしまうのです。
そうやってフェイクニュースに騙されなくなり、その発信元を不買していくことでお金のめぐりを止めていく。あとは、事実を明示して批判していく。これしかないのです。
どちらも一朝一夕ではなく、理想論にしか聞こえないでしょう。
それでも、情報統制を法律にするのは、やはりあってはならないのではないでしょうか。
その牙がいつ国民に向くかはわからないのです。
我々が批判する支那や朝鮮、露国のような姿に、進んで我が国をしていくべきではないのです。
しかし、「特権」がある報道機関が、あらゆる技法を使ってフェイクニュースや印象操作を行ってしまえば、これでは知る権利という民主主義の基本原則が捻じ曲げられてしまい、それもまた統制国家と同じかそれ以上に悪であります。
そこで、報道についていくつかのガイドラインを設ける必要があるでしょう。
- 事実とそうでないものを混在させることを禁止する。
- 事実は、取材若しくは公式発表に基づくものであり、全て断定できるものである。
- 誰かの発言を記載する場合は、常に発言者のプロフィール(現在の職業・専門性・立場)と発言の全文を公開する。
- 1~3までの表記は、印象や予断を与える表現をしない。
- オピニオンは、そうであることを明記した上で、署名入りでしか認めない。
- オピニオンは、報道の一定割合以下(1割程度)までとする。
このようなものは、有害以外の何者でもなく、事実に対し、読者に予断を持たせるものであり、フェイクニュースや印象操作を意図していないとしても(有り得ないが)、報道のあり方として極めて不適当です。
次に、事実の定義としては、取材は原則として全て証拠を公に示せるものとします。逆にいうと○○関係者といった明確でない情報は、事実ではないのです。
また、ありがちなフェイク記事として、専門家と称する人の発言を取り上げることがあります。実際は、教授とか肩書きがあったとしても、本当の専門ではないケースや特定の利害関係者と繋がっており、所謂「ポジショントーク」であったりすることがあります。
発言したことが事実でも、発言内容が事実かはわからないのであれば、発言内容をどう読者が受け取るか、判断材料を示すのが、報道機関のあるべき姿ではないでしょうか。
しかし、現実は印象操作や特定の意見を強調するための専門家が多すぎます。それを減らすために、読者が判断できるようにすることも必要ではないでしょうか。
新聞にオピニオンは要らないというのが私の考えなのですが、一切新聞紙上では表明してはならないというのも厳しいかと思いまして。
まずは社の名においてという名の責任逃れを防ぐため、はっきり署名するべきです。これは、欧米でも当たり前のようです。そして、オピニオンだらけの社会に事実を伝える役割を捻じ曲げた新聞が出現しないように割合を定めました。
オピニオンならネットなりに示せばいいのです。
これを報道機関に対するガイドラインとして示して、大きく外れるものは上記の特権的立場から外す、政府の記者会見から締め出すというのも悪くないと思います。
そのくらいまでであれば、報道・表現を続けること自体は可能であることもあり、弾圧に至らないレヴェルで留められるでしょう。
そして、やはり必要なのは、このような新聞社を追放できる仕組、すなわち自由経済の枠組みの中に報道機関を収めて、質の低い報道を競争の上で排除していくのが最短なのでしょう。しかし、その世論を盛り上げるためには、世論を操作しているマスコミが障害になるという堂々巡りであります。
フェイクニュースを見分けることについての本を過去に読みました。
今回の記事を書く上でも参考にしてみました。
リテラシーを高める上で、読者の皆様にも役に立つと思います。
(書いている人の属性はよく認識して読むことを推奨しますが)