2019年11月30日土曜日

フランクリン自伝(ベンジャミン・フラクリン著

フランクリン自伝
科学者であるとともに出版業者、哲学者、経済学者、政治家、そして何よりもアメリカ資本主義の育ての親であったフランクリン(1706‐90)。その半生の記録がここに淡々とつづられている。

はじめに


ベンジャミン・フランクリンは、植民地時代~独立期のアメリカで政治家や発明家等として知られる人物であり、「アメリカ合衆国建国の父」とされる一人です。
フランクリン自伝は、その半生を綴ったものであり、綴られた彼の人物像からは、資本主義に通じる様々な考え方が読み取れます。
それらを理解することは、現代の資本主義社会を生きる上でも、アメリカという国やアメリカ人を理解する上でも、大いに参考になるのではないかと思います。
今回は、その中で私が有用だと感じる内容を紹介します。

ポイント


文章に上達しようと努力していた頃のこと、ある時一冊の英文法書を偶然手に入れたが、その巻末に修辞法と論理学の大要を述べた短い文章が二つのっており、論理学のほうの終わりにソクラテス式論争法の例が一つ上がっていた。その後まもなくクセノフォンの「ソクラテス追想録」を求めたところ、その中にこの論争法の例が沢山出ていた。私はすっかり感心して、いきなり人の説に反対したり、頑固に自説を主張したりする今までのやり方を止め、この方法に従って謙遜な態度で物を尋ね、物を疑うといった風を装うことに決めた。

兄の印刷屋を手伝いながら修行時代に、文章に上達するために本を読んでいた中で出会ったソクラテス式論争法ですが、フランクリンは最初は疑いを持っていたキリスト教にについて使っていたようです。しかし、議論が予期しない方向にいって窮地にいくこともあり、最終的に「謙遜な遠慮がちな言葉で自分の考えを述べる」習慣だけが残ったそうです。これは、フランクリンも説得する時に少なからず役に立ったと言っています。


私は印刷所のために背負った借金をだんだんに返し始めた。商人としての信用を保ち、評判を失わぬようにするため、私は実際によく働き倹約を守ったばかりでなく、かりにもその反対に見えるようなことは努めて避けた。着るものは質素なものに限り、遊び場所には絶対顔を出さなかった。(中略)かような具合で、よく働く先のある若者だと思われ、(中略)文具の輸入商で取引を申し込んで来るものもあり、本を卸してやろうと言って来る者もあり、私の店は次第に繁盛していった。

フランクリンが印刷業者として独立した時に、商売が発展していった様です。
簡潔な文章ですが、商売(ビジネス)の本質が実によくわかる文章であります。
信用・評判こそが、最も重要な基盤であり本質であることを理解し、そして実践しなければ、短期的にはともかくとしても、本当の成功者となることはできないのでしょう。

現在名誉心を満足させることを少し我慢されば、後で償いは十分来るのである。誰の功績か、しばらくはっきりしないような場合には、君よりも名誉心の強い男がそれをよいことにして自分の手柄だと主張することもあるだろうが、そういうことがあっても、やがて君を嫉んでいる者ですら、偽りの名誉をはぎとって、正常な持主にそれを返そうと公正な態度をとりたい気持になるものである。

フランクリンがアメリカ初の図書館を設立したとき、 自分が発起人であるという風に話を持ち出すと事がうまく運ばなかったため、自分を前に出さないようにしたところ成功したといいます。
全ての例で正常な持主に名誉が返ってくるのかといわれるとわかりませんが、本質的な成功を得るためには、名誉欲というものは、一つのエネルギーになる一方で、それが邪魔をするケースもあり、自分のそれをコントロールするのが肝要なのでしょう。


十三徳

  1. 節制 飽くほど食うなかれ。酔うまで飲むなかれ。
  2. 沈黙 自他に益なきことを語るなかれ。駄弁を弄するなかれ。
  3. 規律 物はすべて所を定めて置くべし。仕事はすべて時を定めてなすべし。
  4. 決断 なすべきをなさんと決心すべし。決心したることは必ず実行すべし。
  5. 節約 自他に益なきことに金銭を費やすなかれ。すなわち、浪費するなかれ。
  6. 勤勉 時間を空費するなかれ。つねに何か益あることに従うべし。無用の行いはすべて断つべし。
  7. 誠実 詐りを用いて人を害するなかれ。心事は無邪気に公正に保つべし。口に出だすこともまた然るべし。
  8. 正義 他人の利益を傷つけ、あるいは与うべきを与えずして人に損害を及ぼすべからず。
  9. 中庸 極端を避くべし。たとえ不法を受け、憤りに値すと思うとも、激怒を慎むべし。
  10. 清潔 身体、衣服、住居に不潔を黙認すべからず。
  11. 平静 小事、日常茶飯事、または避けがたき出来事に平静を失うなかれ。
  12. 純潔 性交はもっぱら健康ないし子孫のためにのみ行い、これにふけりて頭脳を鈍らせ、身体を弱め、または自他の平安ないし信用を傷つけるがごときことあるべからず。
  13. 謙譲 イエスおよびソクラテスに見習うべし。

図書館を設立したのとほぼ同じ時期に、道徳的完成に到達するという計画を思い立ち、望ましく考えた十三の徳をまとめたものです。
これ以前の自伝には、失敗談が結構多かった(特に12番笑)ので、まさに自戒の産物なのでしょう。
しかし、「時は金なり」といった現代でも通じる格言や自己啓発の類の基盤とも言える内容になっており、本書を読むだけで全てが分かりやすく自分のものになるのです。

これらの徳がみな習慣になるようにしたと思ったので、同時に全部を狙って注意を散漫にさせるようなことはしないで、一定の期間どれか一つに注意を集中させ、その徳を習得できたら、その時初めて他の徳に移り、こうして十三の徳を次々に身につけるようにしていったほうがよいと考えた。

徳と言う多分に精神的な分野ですが、実に合理的な方法で身につけようとしているところに、フランクリンらしさを感じる内容です。

この物語を書いている数え年で七十九歳になる今日まで私がたえず幸福にして来られたのは、神の恵のほかに、このささやかに工夫をなしたためであるが、私の子孫たる者はよくこのことをわきまえてほしい。

このように結んで、十三徳の重要性を語っています。


さて私の家業をだんだん手広くなり、暮しも日に日に楽になってきた。 私の新聞が一時はこの地方および近隣の地方でほとんど唯一のものだったので、大いに儲かるようになったからである。同時に私は、「初めの百ポンドさえ溜めてしまえば、次の百ポンドはひとりでに溜まる」という諺の真実であることを実際に体験した。金というものは本来繁殖力の強いものなのである。

図書館設立の頃から十年くらい経ったころのことです。
最初の百ポンドは、そもそも借金を抱えて印刷屋を始めていたので、相当大変だったに違いありません。しかし、そこへ到達したということは、既に基盤が出来ているし、新しいことを始めるにしても使えるお金が増えているわけですから、「ひとりで」というのは誇張にしても、明らかに楽なわけです。このお金の繁殖力は、資本主義社会を理解するうえでキーとなる事実です。

こんな些細な事柄は、心に止めるほどのこともなければ、わざわざ述べ立てるほどのことでもないと思う者もあるかも知れない。なるほど埃が風邪の強い日に一人の人間の眼に入ったとか、一軒の店に飛び込んだとかいうのなら大したことではない。だが、人口の多い都市でこういうことが無数に、しかもたえず繰返し起こるとなると、事は重大になるので、この点を考えたなら、一見些細に見えることにも注意を払う人がいたからと言って、手厳しく非難することはあるまい。人間の幸福というのは、時たま起こるすばらしい幸運より、日々起こって来る些細な便宜から生まれるものである。

さらに時代は下って、フランクリンが50歳のころ、街路の舗装を提案した時のことです。
現代人は些細なことは切り捨てて、大枠を素早く掴むことを訓練されることが多いように思います。よくコンサルタント等が訓練されているやつです。これ自体は勿論意味がないことではないのですが、人間という生き物に関して言えば些細な便宜がから生まれた小さな幸福もまた大きな意味があり、些細なことから大きな効果を得られることもあるということを知っておく必要があります。


富に至る道


街路舗装に協力した時とほぼ同じ頃、「富に至る道」という本を出版しています。
これは、「貧しいリチャードの暦」という毎年発行していた処世訓のパンフレットの集大成のようなものです。

人によっては、政府が課している税金とは比べ物にならぬほど重い税金を背負っておるのです。つまり、怠惰であるために二倍もの、虚栄心を持つために三倍もの、愚かであるために四倍もの税金を背負っておるのです。ところが、この種の税金は、収税吏の方がかりに減税を認めて下さったにしても、軽くなることもなければ、ましてや完全に免許されるなど、とうていできた相談ではありません。

怠惰や虚栄を税金と例えるのは斬新な発想だと思うのですが、怠惰や虚栄で失ったものは誰も「減税」することはできませんので、それによって失うお金や時間の貴重さを認識できるかどうかというのは、人生において非常に大きいものです。

「人間、暇を楽しんではいけないだろうか」とおっしゃたのが、この耳に聞こえたような気がします。その方に、貧しいリチャードの申しておることをお聞かせしましょう。「暇がほしくば、時間を上手に使って作れ」。いまひとつ、「一分という時間さえ容易に得られぬ以上、一時間もの時間をむだに使うな」。暇とは、何か有用なことに使う時間を指して言いますが、そういう意味での暇は、勤勉であって初めて得られるのでして、怠け者にはけっして得られるものではありません。

余暇という言葉もありますが、時間を余らせるよう努力してから、暇を楽しむものだということです。しかし、この時間の重みを理解できる人がどれだけいるのでしょうか。
作った暇と怠けた暇(怠惰)は違うというのが、主張なのです。前者は心持ちとして意味があるでしょうが、後者はただ時間が過ぎただけで何にも感慨なく意味もないでしょう。

勤勉の徳による成功を一層確実なものにしたいとお思いでしたら、勤勉である上に、節倹の徳を実行していただかねばなりません。もしも稼ぐだけで残すことを知らなければ、「一生涯、いくら汗水流して働いても、いよいよ死んだ時には、一文の金も残るまい」、「台所が肥えれば、遺言書は痩せる」と、貧しいリチャードは申しております。

これも勤勉と同じくらい重要ですが、ある意味重複しているのかもしれません。いずれも無駄を咎めているのですから。
遺言書が痩せるというのは、面白い表現であります。


まとめ 


フランクリンが自分の子孫に語るという体で書かれている自伝でありますが、彼の失敗談や反省も描かれているため、道徳教本のような退屈さはなく、読み物としても面白いところもポイントです。
何気ない文章で書かれていますが、やはり勤勉と倹約という合理的な生き方は、資本主義という中で成功していく上で、なければならないことです。

一方で、フランクリンの生き方からは、社会のために必要とあらばポンとお金を出す様を読み取れます。それによって破産の恐怖が見えたこともありますが、勤勉と節約で生み出した富は、正しく使うこともまた必要なことなのです。
だから、アメリカの資産家が寄付や慈善活動に励んだり、新しい技術へ投資したりしていくのは、(税制とかの理由もあるとはいえ)文化的側面が強いのだと思います。

反面、日本には元々そのような公共の精神があったように思われるのですが、戦後教育のせいかすっかり影を潜めているようです。日本を代表する(とされている)経営者の言うことは、自らの祖国に対して、悪口や批判ばかりであり、まずその富を使って社会や世界に対して貢献するという発想が無く、ただ自分のビジネスの地盤沈下を嘆くばかりであります。

正しい意味での資本主義的精神を理解する一つのきっかけと、多くの人に目を通してもらいたい本です。
2019年11月25日月曜日

他人を気にしないことが真の自由である

個人的になぜアーリーリタイヤが目標としての価値の持つのかということを考えていた時に、ふと浮かんだこととして、「他人を気にしなくて良い」ということがあるのだと感じました。
これは、アーリーリタイヤをすることで真に実現できる目標である一方で、アーリーリタイヤを目指す上で必要なステップの一つです。私なりの考えを通じて何らかの人生のヒントになれば幸いです。


他人とは何か


まず本題に入る前に、「他人」という言葉の定義を述べておきます。
辞書的な意味とは別に、本稿における「他人」とは、
自発的に関わろうと考えない人
です。
この「自発的に」がポイントで、家族とか友人以外でも、付き合いがある事で何か学べるとか楽しい時間を過ごせる、自分一人ではできない体験をできるといったメリットがある人は、「他人」ではありません。
しかし、私も含めた一般人の日常においては、会社の同僚などのビジネスの付き合い、近所の人や通勤電車とかで絡んでくる人といった物理的に接近している存在、果ては「匿名」や「平均」といった実物か幻かわからないような存在まで、必ずしも「関わりたい訳ではない人」がそれなりに居ます。

もちろん、その中にも素晴らしい方は居ると思いますし、そういう人は「身内」の側にカウントすればよいでしょう。
しかし、そのような人は稀であり、実際には人付き合いのうちの大部分は「関わりたい訳ではない人」が占めているのではないでしょうか。


アーリーリタイヤこそ、真に他人から解放される手段


アーリーリタイヤとは、基本的に会社などの拘束力の強い給与所得もしくは他人と行う事業所得以外の、配当所得や貯蓄などで未来までの生活を成り立たせることができるものと捉えています。場合によっては、嫌なら辞めてもいい程度の軽い仕事も含むかもしれません。

この場合においては、ビジネス上付き合わなければいけない人はいないか、居たとしても自分が望まなければ容易に切り捨てられる段階ではないかと思います。
一定のお金の自由があるので、隣人が不快ならすぐ引越しもできるし、通勤電車のような不快な移動手段を強制されることもなくなるでしょう。

つまり、アーリーリタイヤで得られるのは、単なるお金や時間だけではなく、付き合う人を選別することができるという「権利」ではないかと考えます。

残念ながら筆者はアーリーリタイヤを実現できていないので、理想主義的な部分が目立つとは思います。


他人と比べて得るものはない


アーリーリタイヤ成功のポイントの一つであり、真の解放のために必要なことは、他人と自分を比較することを辞めることです。
競争することによって伸びる分野や能力もあるから、全てを否定するわけではありません。
しかし、不必要に比べることは有害なのです。一例を挙げると、
  • 能力や実力を向上させることを放棄し、他人の足を引っ張る
  • 他人に比較することによる、コンプレックスやストレス
  • 他人の目を気にすることにより、自分のしたいことができない
  • 他人との競争のために、不必要な時間やお金、労力を使ってしまう
などが考えられるでしょう。
これは、人間の本能に反する部分があるため、決して容易ではありません。

一番良いのは、必要な部分では競争し、そうでない部分ではスルーするいいとこ取りです。でも、それは難しいのです。だから、ばっさり他人と比べるのは辞めてみるというのが先決です。


人間関係の断捨離は、幸福に直結する


このような他人との付き合いをバッサリ切り捨て、他人の目をシャットアウトすることは、お金と時間の節約になります。
服や装飾品、化粧等の見た目にかかわるお金、付き合い自体にかかる交際費とそれにかかる時間がごっそり浮くというのは大きいことです。
我々の生活の中で、食費や光熱費をゼロにするということは全く非現実的な話ですが、このようなお金はゼロにしても、生活は成り立つし、幸福感は減りません。

アーリーリタイヤを実現するためには、お金の節約がとても重要です。
しかし、幸福のためにはお金だけではなく、時間も大事です。時間は唯一全ての人間に等しく与えられている限られた資源です。これだけは、どんなお金持ちであっても増やすことが出来ないのです。
その貴重な資源を手軽かつ確実に増やす唯一の方法が、人間関係の断捨離なのです。
2019年11月24日日曜日

VIG:Vanguard Dividend Appreciation ETF(米国増配株式ETF)

久々になった投資情報は、VIGを取り上げます。
このETFは、「10年以上連続して増配の実績を持つ」という厳しい条件の元で選ばれた米国株へ投資できるものです。

チャート


2019/11/23時点です。


リターンという意味でいうと、1年で17.63 %、10年で12.83 %(バンガード社サイトより)になります。
なお、米国株の基幹となるVTIは、1年で13.47 %、10年で13.63 %(バンガード社サイトより)です。

詳細情報


2019/11/23時点です。
  • ティッカーコード VIG
  • 経費率      0.06%
  • 配当利回り    1.74%
  • NASDAQ USディビデンド・アチーバーズ・セレクト・インデックスのパフォーマンスへの連動を目指します。

このETFはどうか


おすすめする理由


  1. 「連続増配10年」という厳しい条件がついているため、優良企業ばかりである。
  2. VTIと比べて金融やテクノロジーの比率が下がっていることや成熟傾向にある企業が多いことから下落局面に対する強さが期待できる。

微妙なところ


  1. 結局、VTIやS&P500関連のETF(VOO等)で足りているのでは?と言えなくはない。
  2. 回転率が15.7%と結構高い。
  3. 配当利回りは高くない。

結論


特に配当を出している中で優良な企業を集めたETFというのが感想です。
一方で、今の利回りが高くないのは、「今後増配する確率の低いものを除外する」という方針によって高配当株が除外されていることによるものだと考えられます。
成長性と配当のバランスを取ったと評価すればよいでしょう。


VIGを構成する株式


バンガード社の公式サイトから、セクター別の割合と、組み入れ株の上位を確認しましょう。


マイクロソフト、P&G、ウォルマート、ビザと錚々たる顔ぶれです。
セクター別でみるとトップが資本財なので、むしろ景気に敏感に反応するように見えます。
一方で、TやVZなどの電気通信セクター、XOMやCVXなどの石油・ガスが見事に除外されています。
増配の確率が低いという評価で除外されているのでしょうが、何故なのか素人目にはよくわからない部分もあります。

VIGの買い方


下落時点でのショックを緩和しつつ、上昇相場に置いていかれ過ぎないようにするための、フレーバー的な利用が好ましいのではないかと筆者は考えています。
実際、リーマンショック期においてそのクッションとしては機能しています。
主軸に据えるには、この「偏り」がマイナスに作用する可能性も、トラックレコードとしては現時点でないとしても、否定できないなということもあります。

一方で、トータルリターンとしてみた時には、VTIとそこまで差があるものではない(10年で多少劣後しますが)ので、値下がりは気にしないとか細かい管理が面倒とかの理由で組み入れないのもありだと思います。

VTI一本VOO一本というポートフォリオは楽で確実でありますが、そこであえて色をつけたくなるのが弱さとみるか、投資を楽しむためのワンポイントと取るかは人それぞれであります。



米国株の基幹となるVTIの解説記事です。

VTI:Vanguard Total Stock Market ETF(バンガード・トータルストック・マーケット・ETF)



投資についての考え方、哲学を涵養するのに非常に有用な良書です。

投資で一番大切な20の教え(ハワード・マークス著)
2019年11月21日木曜日

今ここで米国株に投資するのは

まとまりのない雑文というか、ただの自己決意のためです。
そんな考えもあるのか(笑)と読み飛ばしてもらえると幸甚です。


私は、2016年ごろから景気後退の時期に入ってきたのではと思い、当時持っていた日本株や投信等をかなり処分しました。無駄と知りながらもわずかでも金利の高い銀行へ資金を退避させ、米国の債権ETFやわずかなインデックス(VTI)だけを残しました。
よって、資産における現金と債権の割合は合計すれば8割にも達するのです。

しかし、皆様ご存知の通り、景気後退の足音は足音のままで、短期的な調整はあるにせよ、結局は下がっていないわけで、2年以上機会損失を続けているわけであります。
最近投資本でも確認をしていますが、結局素人投資家にとって購入売却の判断というのは容易ではないのです。ましてや、決算のような数字で示されるものをならともかく、先の株価という見えないものでは。

ということで、次の10年。どこかで本当に暴落が来るかもしれませんし、レンジ相場、あるいは緩やかな右肩上がりかもしれません。
そこで、ある程度システマティックにインデックスを買って行こうと思いました。

買うのは今まで当ブログで取り上げているVTIの他、VIGやVYMも混ぜていこうかと考えています。
さらには、パフォーマンスを下げる可能性のあることを承知で、個別株も少し買うつもりです。そのリスクよりも、米国株やマーケットに関心を持ち続けていくということの意味があります。やはり、投資はスクリーニングが醍醐味であり、ETFは確実であるものの退屈な側面があることを否定できません。


さて、今のままでいいのか?という話の次は、米国株でよいのか?ということになります。
勿論、未来に確実なことはありませんから、結局は納得して決断するかです。
そういう意味では、世の中にはVTのような「全世界」を対象とするものもあります。

それでも私は米国株を選ぼうと思います。

  1. 優秀なトラックレコードがあるから
  2. 米国内のみならず国際的に高い競争力・収益力を持つ会社が多くあるから
  3. その一方で、新技術への投資・精神も盛んであるから
  4. 経済成長へのマインドが高いから
  5. 覇権通貨ドルの存在があるから

肯定的な理由を挙げてみました。内容については、諸先賢が語りつくしていると思うので、あえてここでは何も語りません。
程度問題として異議がある方は居ても、完全にこれらのことを否定される方は多分いないのではないでしょうか。

では、米国に死角はないのでしょうか。

  1. 社会分断の増大(貧富の格差、政治的立場etc)
  2. 高齢化などによる社会負担の増加、成長率の低下
  3. 多額の債務
  4. 支那や印度などの新興国の追い上げ
  5. 覇権から転落することによる、揺り戻し


こんなところでしょうか。
これらに対する所感を述べておきます。ただの所感なので、エビデンスはありませんが。

1つ目は社会分断の問題です。まず目に付くのが一時期話題になった99%と1%のような貧富の格差です。日本でも「上級国民」なる層が出現していると感じる人が増えていますが(私もそう思いますw)、富の偏在が何故問題かというと、それがどうしても階層の固定化につながり、階層が固定化されるとどうしても影響力の大きい層が腐るため、国家全体が駄目になるのです。
また、富を稼いだ創業者は、色々な要素はあるにせよ自らが動いたことで稼いでいるわけですが、人間には寿命があるので、死んだ時にその大量の富が残り、それは通常の場合、自分の子孫に行くわけです。しかし、そこで世襲となると子孫がその本人の能力と同等か超えることは自明ではないため、浪費が始まることは不可避なのです。
かといって、相続財産に税金をかけても、創業者自身の意欲をそぐ上に、国家が世襲した子孫より有益に使えるかというと、また別の話になります。
ただ、これは米国だけの問題ではなく世界的な現象であり、米国株を避ける理由ではないのかと考えています。

2つ目は、日本・欧州の先例のように、米国がなっていくことです。
人口動態のデータを見る限り、日本や欧州のレベルになるには、相当の時間がかかることが予想されますが、今までの世紀よりこれらの事象が進むことは確かです。
しかし、先例の各国だけではなく、新興国とカテゴライズされる国であっても少子高齢化は進んでいるわけであり、そうなると相対的に見れば、既に多くの富を積み上げている米国は有利な立場と言えるでしょう。

3つ目は、米国の政府や企業の債務です。債務の多さと言う面でいうと、日本は比較的少なく欧州や米国は多いようです。債務が膨らむことは危険であることは確かですが、一方でそれはすなわちバブルであり、景気循環の一部と考えると、振り子が戻る時もまたあるのです。つまり、個人のスキルや忍耐力でカバーのできる範疇ではないかと思います。

4つ目と5つ目については、まとめてばっさり考えにくいと否定します。
人口動態を考えると、米国に変わる可能性のある国は支那と印度だけと考えます。
アフリカはあまりもスタート地点が後ろすぎており、日本や欧州は米国に先んじて成長率が低下しています。露国は所詮は軍事力と資源だけの国です。
支那については、国としては有り得ないだろうとだけ。いずれまた、支那というものについて語る機会があればと考えています。なお、個人的には共産党王は嫌いですが、支那人には嫌悪する部分もありつつ、学ぶべき部分もあると思います。
ただし、支那を国としてではなく、支那人(漢民族)として考えると、もしかしたら今までとは違う形での覇権を手にすることがあるやもしれません。
印度については、現状は社会や法律の整備があまりも追いついていないと思います。ポテンシャルがあることは確かとして、先物買いで大もうけを目指すのでなければ、個人投資家としてはまだ遠目で見るという段階でしょう。
よって、米国の覇権は、四半世紀という単位であれば、変わらないと考えられます。



米国株全体に投資するVTIは、米国株投資の一番スタンダードであり、筆者もVTIを軸に他のETFや個別株も購入するつもりです。

VTI:Vanguard Total Stock Market ETF(バンガード・トータルストック・マーケット・ETF)



覇権について考えるのにあたり、カール・シュミットの「陸と海 世界史的な考察」は参考になる本の1つです。

陸と海 世界史的な考察(カール・シュミット著)
2019年11月2日土曜日

フェイクニュースは罰するべきか

先日、共同通信が報じた内容(日韓が協力基金を創設する案が浮上)が、直後に菅官房長官によって否定されるということがありました。
これ自体はありふれていることで、本当に会談中でまとまっていないものを出せないのかもしれませんが、今までの同社の報道スタンスを鑑みると政治的意向を感じるわけであります。

それで、ふと「フェイクニュースは罰するべきか」ということを考えたので、語ってみたいと思います。
結論からいうと、デメリットというかリスクが大きすぎるので辞めた方がいいと考えていますが……。
その上で、今の新聞のように自由に記事の合間に事実とオピニオンを織り交ぜて、「伝えたいことを伝える」状態を「国民が知るべき事実を伝える」に、努力を皆が続けることで変えていくしかないだろうと思います。


まず、前提としてフェイクニュースを罰せられる対象は誰かということです。
誰も彼もを対象にするのは、影響力の違いがあるということや思想・信条の弾圧にも繋がりかねない危険なことですから、ありえません。
また、情報発信の自由というものも尊重されるべきものであることも確かであり、個人や法人であっても報道機関として強い発信力を持ちえない場合、規制の対象としない方が良いと考えます。
もちろん、だからといって意図的にフェイクニュースを流してよいわけではなく、それによって実害があれば(例えば名誉毀損)、そちらで罰するのが妥当という考えです。


そこで、下記の条件を考えました。
  1. 公的機関(に勤務するものが公的立場で発した場合)
  2. 一定規模があり、特権的立場のある報道機関
  3. 他国の政府機関・諜報機関及びそれに準ずるもの
1番は、公的機関及び公人として情報を発信するのであれば、当然一般国民はそれを信じるしかないわけですから、当然対象になるでしょう。想定されるのは政府広報や政府高官、政治家です。

2番は、果たしてどこまでそれを認めるのかが難しいラインでありますが、私の想定としては、テレビやラジオについては、放送法の定義するところの放送事業者がまず入るでしょう。
次に新聞ですが、「日刊新聞紙の発行を目的とする株式会社の株式の譲渡の制限等に関する法律」というものがあります。早い話が新聞社は買収できませんということになるので、これは特権的立場といえるのではないでしょうか(高橋洋一氏が厳しい批判をしているので、ぜひご覧いただきたいです)。
あるいは、第三種郵便物に該当するものを発行する発行体と考えるのもありではないでしょうか。
要するにこのような「特権的立場」を持つメディアは、国民の自由・権利を守るために(本来であれば)事実を適切に報道する義務を負っていると考えます。
しかし、権利と対になる義務について、今の法律では書いていない気がします(筆者が知らないだけかもしれません)。

3番は、外国からの政治的な介入を抑止するのが基本的な狙いです。外国政府が表立ってフェイクニュースを出すなんてことは、一部のならず者国家を除けばないでしょうから、諜報機関なり政府系メディアということになるでしょう。日本にはこの手の機関に対峙する法律がないので、参考に示すものがありませんが。


次に、犯罪とする以上は、その構成要件が決まっていなければいけません。
単に、事実と違うことを発したり、報道したりしたことを犯罪するのは、明らかにやりすぎです。何故なら、これでは萎縮効果が大きすぎるからです。
つまり、誤報は無罪であり、捏造は有罪なのです。よって定義するならば、

  1. 事実と反することを意図して発表・報道する。
  2. 事実の確認や編集において、重過失がある。
  3. 事実の認識を誤認させることを意図して、重要な事項を発表・報道しない。


1番はわかりやすいと思います。意図的に事実と異なることを報道することを禁止するわけです。でも、これで捕まるケースは余程のことがないとないのではないでしょうか。
だって、どう考えてもわざとじゃない、誤認があったと言うに決まっているでしょう。

2番は、そのような事態を防ぐためにあります。特権的立場にあるものが発信する以上、私のような個人が発信するのと同程度の事実確認では、当然駄目なわけであって、「報道機関が取材を尽くしても、事実だと認識せざるを得なかった」というところまで行くべきです。

3番は、非常に難しいです。心情としては、「報道しない自由」と揶揄されるメディアの実態からすると、事実を隠すとかあるいは編集上のテクニックでぼやかすという行為は、処罰に値すると思います。しかし、法律にそれを落とし込むというのは、言うは安しですが、事実困難であります。また、隠した部分が、報道上重要なのか否かも難しいです。たとえば犯罪があったとき、犯人が日本人なのか外国人なのか、その時国籍まで伝えるのかというのは、私は国籍まで伝えるべきだと思いますが、「報道機関の責任」としてどこまでかは決まっていないし、おそらく決めようもないでしょう。


長々と語ってきましたが、要する犯罪として定義するには、デメリットが大きすぎるのと、それが故に定義を厳しくしようとすると、実効性がなくなってしまうということです。

では、どうすればよいのかというのが最後の論点です。
結局は、我々一人ひとりが情報リテラシーをつけていくことに尽きてしまうのです。
そうやってフェイクニュースに騙されなくなり、その発信元を不買していくことでお金のめぐりを止めていく。あとは、事実を明示して批判していく。これしかないのです。

どちらも一朝一夕ではなく、理想論にしか聞こえないでしょう。
それでも、情報統制を法律にするのは、やはりあってはならないのではないでしょうか。
その牙がいつ国民に向くかはわからないのです。
我々が批判する支那や朝鮮、露国のような姿に、進んで我が国をしていくべきではないのです。


しかし、「特権」がある報道機関が、あらゆる技法を使ってフェイクニュースや印象操作を行ってしまえば、これでは知る権利という民主主義の基本原則が捻じ曲げられてしまい、それもまた統制国家と同じかそれ以上に悪であります。
そこで、報道についていくつかのガイドラインを設ける必要があるでしょう。

  1. 事実とそうでないものを混在させることを禁止する。
  2. 事実は、取材若しくは公式発表に基づくものであり、全て断定できるものである。
  3. 誰かの発言を記載する場合は、常に発言者のプロフィール(現在の職業・専門性・立場)と発言の全文を公開する。
  4. 1~3までの表記は、印象や予断を与える表現をしない。
  5. オピニオンは、そうであることを明記した上で、署名入りでしか認めない。
  6. オピニオンは、報道の一定割合以下(1割程度)までとする。
まず、新聞や通信社の記事を見ている方なら、よく目にするものですが、事実と書き手の印象を巧妙に織り交ぜた文章というのは、日常茶飯事であります。
このようなものは、有害以外の何者でもなく、事実に対し、読者に予断を持たせるものであり、フェイクニュースや印象操作を意図していないとしても(有り得ないが)、報道のあり方として極めて不適当です。

次に、事実の定義としては、取材は原則として全て証拠を公に示せるものとします。逆にいうと○○関係者といった明確でない情報は、事実ではないのです。

また、ありがちなフェイク記事として、専門家と称する人の発言を取り上げることがあります。実際は、教授とか肩書きがあったとしても、本当の専門ではないケースや特定の利害関係者と繋がっており、所謂「ポジショントーク」であったりすることがあります。
発言したことが事実でも、発言内容が事実かはわからないのであれば、発言内容をどう読者が受け取るか、判断材料を示すのが、報道機関のあるべき姿ではないでしょうか。
しかし、現実は印象操作や特定の意見を強調するための専門家が多すぎます。それを減らすために、読者が判断できるようにすることも必要ではないでしょうか。

新聞にオピニオンは要らないというのが私の考えなのですが、一切新聞紙上では表明してはならないというのも厳しいかと思いまして。
まずは社の名においてという名の責任逃れを防ぐため、はっきり署名するべきです。これは、欧米でも当たり前のようです。そして、オピニオンだらけの社会に事実を伝える役割を捻じ曲げた新聞が出現しないように割合を定めました。
オピニオンならネットなりに示せばいいのです。

これを報道機関に対するガイドラインとして示して、大きく外れるものは上記の特権的立場から外す、政府の記者会見から締め出すというのも悪くないと思います。
そのくらいまでであれば、報道・表現を続けること自体は可能であることもあり、弾圧に至らないレヴェルで留められるでしょう。


そして、やはり必要なのは、このような新聞社を追放できる仕組、すなわち自由経済の枠組みの中に報道機関を収めて、質の低い報道を競争の上で排除していくのが最短なのでしょう。しかし、その世論を盛り上げるためには、世論を操作しているマスコミが障害になるという堂々巡りであります。


フェイクニュースを見分けることについての本を過去に読みました。
今回の記事を書く上でも参考にしてみました。
リテラシーを高める上で、読者の皆様にも役に立つと思います。
(書いている人の属性はよく認識して読むことを推奨しますが)


フェイクニュースの見分け方(烏賀陽弘道著)