はじめに
ベンジャミン・フランクリンは、植民地時代~独立期のアメリカで政治家や発明家等として知られる人物であり、「アメリカ合衆国建国の父」とされる一人です。
フランクリン自伝は、その半生を綴ったものであり、綴られた彼の人物像からは、資本主義に通じる様々な考え方が読み取れます。
それらを理解することは、現代の資本主義社会を生きる上でも、アメリカという国やアメリカ人を理解する上でも、大いに参考になるのではないかと思います。
今回は、その中で私が有用だと感じる内容を紹介します。
ポイント
文章に上達しようと努力していた頃のこと、ある時一冊の英文法書を偶然手に入れたが、その巻末に修辞法と論理学の大要を述べた短い文章が二つのっており、論理学のほうの終わりにソクラテス式論争法の例が一つ上がっていた。その後まもなくクセノフォンの「ソクラテス追想録」を求めたところ、その中にこの論争法の例が沢山出ていた。私はすっかり感心して、いきなり人の説に反対したり、頑固に自説を主張したりする今までのやり方を止め、この方法に従って謙遜な態度で物を尋ね、物を疑うといった風を装うことに決めた。
兄の印刷屋を手伝いながら修行時代に、文章に上達するために本を読んでいた中で出会ったソクラテス式論争法ですが、フランクリンは最初は疑いを持っていたキリスト教にについて使っていたようです。しかし、議論が予期しない方向にいって窮地にいくこともあり、最終的に「謙遜な遠慮がちな言葉で自分の考えを述べる」習慣だけが残ったそうです。これは、フランクリンも説得する時に少なからず役に立ったと言っています。
私は印刷所のために背負った借金をだんだんに返し始めた。商人としての信用を保ち、評判を失わぬようにするため、私は実際によく働き倹約を守ったばかりでなく、かりにもその反対に見えるようなことは努めて避けた。着るものは質素なものに限り、遊び場所には絶対顔を出さなかった。(中略)かような具合で、よく働く先のある若者だと思われ、(中略)文具の輸入商で取引を申し込んで来るものもあり、本を卸してやろうと言って来る者もあり、私の店は次第に繁盛していった。
フランクリンが印刷業者として独立した時に、商売が発展していった様です。
簡潔な文章ですが、商売(ビジネス)の本質が実によくわかる文章であります。
信用・評判こそが、最も重要な基盤であり本質であることを理解し、そして実践しなければ、短期的にはともかくとしても、本当の成功者となることはできないのでしょう。
現在名誉心を満足させることを少し我慢されば、後で償いは十分来るのである。誰の功績か、しばらくはっきりしないような場合には、君よりも名誉心の強い男がそれをよいことにして自分の手柄だと主張することもあるだろうが、そういうことがあっても、やがて君を嫉んでいる者ですら、偽りの名誉をはぎとって、正常な持主にそれを返そうと公正な態度をとりたい気持になるものである。
フランクリンがアメリカ初の図書館を設立したとき、 自分が発起人であるという風に話を持ち出すと事がうまく運ばなかったため、自分を前に出さないようにしたところ成功したといいます。
全ての例で正常な持主に名誉が返ってくるのかといわれるとわかりませんが、本質的な成功を得るためには、名誉欲というものは、一つのエネルギーになる一方で、それが邪魔をするケースもあり、自分のそれをコントロールするのが肝要なのでしょう。
十三徳
- 節制 飽くほど食うなかれ。酔うまで飲むなかれ。
- 沈黙 自他に益なきことを語るなかれ。駄弁を弄するなかれ。
- 規律 物はすべて所を定めて置くべし。仕事はすべて時を定めてなすべし。
- 決断 なすべきをなさんと決心すべし。決心したることは必ず実行すべし。
- 節約 自他に益なきことに金銭を費やすなかれ。すなわち、浪費するなかれ。
- 勤勉 時間を空費するなかれ。つねに何か益あることに従うべし。無用の行いはすべて断つべし。
- 誠実 詐りを用いて人を害するなかれ。心事は無邪気に公正に保つべし。口に出だすこともまた然るべし。
- 正義 他人の利益を傷つけ、あるいは与うべきを与えずして人に損害を及ぼすべからず。
- 中庸 極端を避くべし。たとえ不法を受け、憤りに値すと思うとも、激怒を慎むべし。
- 清潔 身体、衣服、住居に不潔を黙認すべからず。
- 平静 小事、日常茶飯事、または避けがたき出来事に平静を失うなかれ。
- 純潔 性交はもっぱら健康ないし子孫のためにのみ行い、これにふけりて頭脳を鈍らせ、身体を弱め、または自他の平安ないし信用を傷つけるがごときことあるべからず。
- 謙譲 イエスおよびソクラテスに見習うべし。
図書館を設立したのとほぼ同じ時期に、道徳的完成に到達するという計画を思い立ち、望ましく考えた十三の徳をまとめたものです。
これ以前の自伝には、失敗談が結構多かった(特に12番笑)ので、まさに自戒の産物なのでしょう。
しかし、「時は金なり」といった現代でも通じる格言や自己啓発の類の基盤とも言える内容になっており、本書を読むだけで全てが分かりやすく自分のものになるのです。
これらの徳がみな習慣になるようにしたと思ったので、同時に全部を狙って注意を散漫にさせるようなことはしないで、一定の期間どれか一つに注意を集中させ、その徳を習得できたら、その時初めて他の徳に移り、こうして十三の徳を次々に身につけるようにしていったほうがよいと考えた。
徳と言う多分に精神的な分野ですが、実に合理的な方法で身につけようとしているところに、フランクリンらしさを感じる内容です。
この物語を書いている数え年で七十九歳になる今日まで私がたえず幸福にして来られたのは、神の恵のほかに、このささやかに工夫をなしたためであるが、私の子孫たる者はよくこのことをわきまえてほしい。
このように結んで、十三徳の重要性を語っています。
さて私の家業をだんだん手広くなり、暮しも日に日に楽になってきた。 私の新聞が一時はこの地方および近隣の地方でほとんど唯一のものだったので、大いに儲かるようになったからである。同時に私は、「初めの百ポンドさえ溜めてしまえば、次の百ポンドはひとりでに溜まる」という諺の真実であることを実際に体験した。金というものは本来繁殖力の強いものなのである。
図書館設立の頃から十年くらい経ったころのことです。
最初の百ポンドは、そもそも借金を抱えて印刷屋を始めていたので、相当大変だったに違いありません。しかし、そこへ到達したということは、既に基盤が出来ているし、新しいことを始めるにしても使えるお金が増えているわけですから、「ひとりで」というのは誇張にしても、明らかに楽なわけです。このお金の繁殖力は、資本主義社会を理解するうえでキーとなる事実です。
こんな些細な事柄は、心に止めるほどのこともなければ、わざわざ述べ立てるほどのことでもないと思う者もあるかも知れない。なるほど埃が風邪の強い日に一人の人間の眼に入ったとか、一軒の店に飛び込んだとかいうのなら大したことではない。だが、人口の多い都市でこういうことが無数に、しかもたえず繰返し起こるとなると、事は重大になるので、この点を考えたなら、一見些細に見えることにも注意を払う人がいたからと言って、手厳しく非難することはあるまい。人間の幸福というのは、時たま起こるすばらしい幸運より、日々起こって来る些細な便宜から生まれるものである。
さらに時代は下って、フランクリンが50歳のころ、街路の舗装を提案した時のことです。
現代人は些細なことは切り捨てて、大枠を素早く掴むことを訓練されることが多いように思います。よくコンサルタント等が訓練されているやつです。これ自体は勿論意味がないことではないのですが、人間という生き物に関して言えば些細な便宜がから生まれた小さな幸福もまた大きな意味があり、些細なことから大きな効果を得られることもあるということを知っておく必要があります。
富に至る道
街路舗装に協力した時とほぼ同じ頃、「富に至る道」という本を出版しています。
これは、「貧しいリチャードの暦」という毎年発行していた処世訓のパンフレットの集大成のようなものです。
人によっては、政府が課している税金とは比べ物にならぬほど重い税金を背負っておるのです。つまり、怠惰であるために二倍もの、虚栄心を持つために三倍もの、愚かであるために四倍もの税金を背負っておるのです。ところが、この種の税金は、収税吏の方がかりに減税を認めて下さったにしても、軽くなることもなければ、ましてや完全に免許されるなど、とうていできた相談ではありません。
怠惰や虚栄を税金と例えるのは斬新な発想だと思うのですが、怠惰や虚栄で失ったものは誰も「減税」することはできませんので、それによって失うお金や時間の貴重さを認識できるかどうかというのは、人生において非常に大きいものです。
「人間、暇を楽しんではいけないだろうか」とおっしゃたのが、この耳に聞こえたような気がします。その方に、貧しいリチャードの申しておることをお聞かせしましょう。「暇がほしくば、時間を上手に使って作れ」。いまひとつ、「一分という時間さえ容易に得られぬ以上、一時間もの時間をむだに使うな」。暇とは、何か有用なことに使う時間を指して言いますが、そういう意味での暇は、勤勉であって初めて得られるのでして、怠け者にはけっして得られるものではありません。
余暇という言葉もありますが、時間を余らせるよう努力してから、暇を楽しむものだということです。しかし、この時間の重みを理解できる人がどれだけいるのでしょうか。
作った暇と怠けた暇(怠惰)は違うというのが、主張なのです。前者は心持ちとして意味があるでしょうが、後者はただ時間が過ぎただけで何にも感慨なく意味もないでしょう。
勤勉の徳による成功を一層確実なものにしたいとお思いでしたら、勤勉である上に、節倹の徳を実行していただかねばなりません。もしも稼ぐだけで残すことを知らなければ、「一生涯、いくら汗水流して働いても、いよいよ死んだ時には、一文の金も残るまい」、「台所が肥えれば、遺言書は痩せる」と、貧しいリチャードは申しております。
これも勤勉と同じくらい重要ですが、ある意味重複しているのかもしれません。いずれも無駄を咎めているのですから。
遺言書が痩せるというのは、面白い表現であります。
まとめ
フランクリンが自分の子孫に語るという体で書かれている自伝でありますが、彼の失敗談や反省も描かれているため、道徳教本のような退屈さはなく、読み物としても面白いところもポイントです。
何気ない文章で書かれていますが、やはり勤勉と倹約という合理的な生き方は、資本主義という中で成功していく上で、なければならないことです。
一方で、フランクリンの生き方からは、社会のために必要とあらばポンとお金を出す様を読み取れます。それによって破産の恐怖が見えたこともありますが、勤勉と節約で生み出した富は、正しく使うこともまた必要なことなのです。
だから、アメリカの資産家が寄付や慈善活動に励んだり、新しい技術へ投資したりしていくのは、(税制とかの理由もあるとはいえ)文化的側面が強いのだと思います。
反面、日本には元々そのような公共の精神があったように思われるのですが、戦後教育のせいかすっかり影を潜めているようです。日本を代表する(とされている)経営者の言うことは、自らの祖国に対して、悪口や批判ばかりであり、まずその富を使って社会や世界に対して貢献するという発想が無く、ただ自分のビジネスの地盤沈下を嘆くばかりであります。
正しい意味での資本主義的精神を理解する一つのきっかけと、多くの人に目を通してもらいたい本です。