2022年7月28日木曜日

安倍晋三元首相の暗殺と政治と宗教の関わりについて

安倍晋三元首相のご冥福をお祈り申し上げます。


はじめに


参院選中に起きてしまった安倍晋三元首相の暗殺事件と、参院選の結果について語っていきます。


暗殺について


この件、報道では「銃撃」とか「銃で撃たれる」、「倒れる」といった内容でした。

それも間違いではないけれど、安倍元首相を殺害するという行為に、本人の供述はともかくとして、政治的な意思・意味が無いというのはあり得ないわけで、これは暗殺というほかないのです。

銃撃はまだマシとして、倒れるという見出しはさすがにおかしいと思いました。私が見た第一報のそれはNHKで「倒れる」とあったので、熱中症にでもなったのかと感じましたからね。別の通信社の記事で銃撃と知りました。

余談ですが、亡くなったことの正式発表前に、SNS等に書き込んだ人物がいたようですが、それは論外だと思います。本人と近しい関係にあったとかいうのは理由になりません。死者や遺族への冒涜でしかないです。実際、昭恵夫人が到着されてから蘇生を断念して死亡となったわけで、これは普通に病気で亡くなる場合でも遺族が到着してから死亡の判断を医師が下すもので、この事件の特殊性ではありません。

私には、倫理観がないか、あるいは常識が無いかのいずれかとしか思えませんでした。


統一教会と犯人について


既に報道されている犯人の過去が事実としたら、一定程度の同情はあると思いますが、それはともかくとして、統一教会への報復を企てたということと、今安倍元首相を暗殺することになったという点については、大きく2つの疑問があります。

  1. なぜ、このタイミングなのか。犯人の母親の自己破産からは20年程度の時間が経過している。
  2. 教団関係者ではなく、安倍元首相がターゲットなのか。
前項の仮定(報道による犯人の情報がすべて正しい)の上で、考えると統一教会への恨みという動機を肯定できますが、既に犯人は成人しており、一人で生計を成り立たせることは可能であり、さらに週刊誌ベースであれば親族の支援もあったとか。

今ここで復讐を実行に移すのかというタイムラグの問題は気になります。とはいえ、これ自体は個人の感情ですから、ロジックとしておかしいとしても、別に本人の中でそうであれば、あり得ることなのかもしれません。


そこで問題になるのがターゲットが教団そのものやそこに入れ込んだ母親ではなく、安倍元首相であったことであり、そしてそれが選挙期間中であったことです。

安倍元首相と統一教会の関係については、ここでは割愛します。情報が錯綜していることが一つ、もう一つは犯罪者の中では(合理的に考えるのならば、そもそも犯罪はしないでしょう)、どんな些末なことであっても結びつき、そしてそれが固定化するということはあり得るからです。

一つの見方としては、中途半端に教団の関係者に手を下すよりも、程度はともかくとして完全否定できない程度には安倍元首相には関係があったから、こちらを狙った方が効果的(大ニュースになる)だという読みです。

もう一つの見方は、統一教会への恨みそのものが隠れ蓑であって、実際には別の目的があるということです。

統一教会への恨みで説明するには非合理的な点があること。安倍元首相には政治的に大きな影響力があり、かつ強力なアンチも存在することから、危害を加えることを企図する人や集団は存在し得ること。さらに、敵性国家、とりわけ支那や北朝鮮にとってみれば、国防の予算の増加といったタカ派的政策の主張と諸外国への強力なパイプ(奇しくもこの暗殺で証明されました)を持つ安倍元首相の排除は大きな利益であること。

これらのことから、統一教会への恨みよりも遥かに安倍元首相を暗殺する理由を説明できる動機があるのです。これを示唆するような報道が東スポにありましたが、他社の追随や続報がありませんので、真偽は定かではないです。

さらに、事件発覚からあまりにも早く統一教会(大マスコミでは名前は出ていない)に繋がったことも、違和感を禁じ得ません。


これらの疑問は捜査過程で解明されることを強く期待しますが、1つ注文と1つ注意を述べておきたいです。今は、奈良の所轄で捜査しているようですが、政治的案件をその辺の県警レヴェルで捜査して、能力が足りるのでしょうか。また、県警は既に警備で失敗しており、事件を矮小化するインセンティブが働く可能性も否めません。公安案件だと思うのですが。

注意点については、これに伴う陰謀論です。先ほど私も述べた通り、「統一教会への恨みで安倍元首相を暗殺するのはおかしい。背後に何らかの政治的意図があるはずだ」と考えることには一定の合理性があります。しかし、陰謀論というのはそういう「納得しやすいストーリー」をベースに展開されるものです。そうでなければ誰も信じませんので。

既に保守(とされる)界隈では、トランプ氏が大統領選挙で再選に失敗した時の反省もしていないような、専門性どころか情報の精査すらできていない自称「言論人」とやらが、かつての失敗を繰り返そうとしています。

疑問を持って批判的に世の中を見ることと、現実が見えなくなることは紙一重かもしれないので注意しましょう。


最後に、何が理由でも、どういう過程があったとしても、この犯人は死刑以外あり得ないです。永山基準では1人を殺害した場合、無期懲役以下となっています。命に軽重を付けるのは倫理的に正しいことではありませんが、そうだとしても安倍元首相の影響力、政治的意味合いを考慮した時、単なる1人の殺害と片付けるのは、不合理でしょう。


国葬について


岸田首相は、安倍元首相の国葬を決定しました。これは結構なことだと思います。

私は国葬をやる最大の理由は諸外国の反応だと考えます。安倍元首相は在任期間の長さもそうですが、氏の最大の功績は諸外国との関係にあるわけで、海外要人の反応や弔問を見れば、如何に日本の総理大臣としてはすごいことをやってのけたのかわかると思います。

国葬をやれば各国から要人が訪れることは明白であります。その際に、安倍家や自民党の名前で適切な応接や警備が可能でしょうか?国葬として政府が取り仕切る他ないです。

(まぁ、その警備でやらかした結果が暗殺なのですが……)

国費で出すことを問題視する向きもありますが、国葬は要人が多数訪れることが見込まれ、外交の場になります。政治利用と言われるかもしれませんが、政治家とりわけ現役の議員でもあった安倍元首相の死が政治利用されないことの方がおかしく、如何なる名目とはいえ多数の要人が日本に集まる場というのは貴重ですから、その場をフル活用することは国益にかなうわけです。私個人の感想ですが、国葬を活用して、安倍元首相が持っていたパイプや外交的レガシーを引き継ぐようにしていくことが、亡くなった安倍元首相にとっても供養になるのではないかと思います。

国内的には安倍元首相とは政治的な見解を異とする人も多数いますし、賛否が分かれることを推し進めてきた以上、ネガティブな印象を持つ人が居ることは理解できます。むしろ、それが本当に政治家として仕事をしてきたということでしょう。だとしても、上記で述べた通り諸外国とのパイプを維持・強化するというイベントだと思えば、費用対効果の優れたものであるわけで、言い方が卑俗なものになりましたが、それで納得して静かに見守っていただきたいものです。


ちなみにサヨクは執拗に国葬に批判していますが、国葬をやったからといって全ての国民が安倍元首相に弔意を示す義務があるわけではありませんので、何らかの自由に反しているというのは理屈が通りません。左翼政党の親玉でさえもコメントでは一応弔意を示しているわけで、人間としては何はともあれ長い在任期間、国民多数の支持を得て、一定の成果を出してきた安倍元首相に弔意を示すのは、政治的信条の違いに関係なく当然と思いますが。

もう一つ政教分離についてですが、詳細は憲法を引用し後述します。しかし、国葬は宗教行事にならないと思います。逆説的な言い方になりますが、政教分離で叩かれることは想定内なので宗教色のないようなやり方をするのです。

宗教色を抜いて個人を悼むという行為そのものにフォーカスをすれば、戦没者の追悼や災害の犠牲者への追悼などが既に行われているわけで、これが安倍元首相ではいけないというのは、理屈にあわないのではないでしょうか。実際に地鎮祭は社会の一般的慣習として合憲という判例がありますので、一般的慣習の1つである追悼そのものが政教分離に反するという解釈は通らないでしょう。


政教分離


国葬の点でも触れましたが、政教分離という単語がこの事件ではよく出てきました。安倍元首相と統一教会の関係、国葬の実施について等です。

なので、政教分離について確認しておきたいと思います。以下、条文です。

第二十条

信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。

② 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。

国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

 第八十九条

公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。


ちまたで語っている人がこの条文をそもそも読んだことがあるのか、たまに疑問があります。安倍元首相がどの程度、統一教会と関係があったのかという点については、情報が錯綜しており、断定的に言う事が出来ません。

もし仮に、政治家に統一教会の信者がいたとしても、統一教会が票集めをしたり、あるいは選挙とかの人的リソースを提供しているような議員が居たとしても、この条文には当てはまりません。

理由は簡単で、この条文の意味は、個人に対する信教の自由を保障する側面と、特定の宗教に国家が特権を与えることを防ぐ(戦前の国家神道に対するもの)だからです。具体的に違憲になったものをみれば、特定神社への玉串料の支出(県から)などです。

多くの人は、宗教団体の政治活動が否定されると思っているので、話がおかしくなるのです。公明党や幸福実現党が最もわかりやすい例ですが、実際には大小さまざまな宗教団体が政治家への働きかけを行っているわけで、そのことそのものを問題とするのはやや無理筋であるというのが、私の考えです。

政治家は票を得て当選するわけですが、当然1票1票を求めて空中戦を戦うよりも、団体の推薦なり支援なりを得る方が、手軽に1票を得られることは間違いないわけで、ある意味政治家が団体に影響されるというのは、民主主義の仕組み上避けがたく、また宗教という求心力のある団体はそれだけ強いのです。

もし、それが嫌だと思うのならば投票率を上げて、特定団体の票だけでは勝てないようにしていく他ないのではないでしょうか。


統一教会と今後の政治について


統一教会そのものについては、私も詳しいわけではないです。そのため、この宗教がどのような問題を孕んでいるのかという点について詳しい指摘はできませんが、既に欧米ではカルト認定されており、弁護士やジャーナリスト等から多数の指摘があり、今回の容疑者の家庭環境も事実とすれば、統一教会そのものが問題なしとは言えないでしょう。

また、反日的な敵性国家である南朝鮮の新興宗教がこれほど日本の政界に影響を与えているのではないかという話自体が、一般的な日本国民からすれば不愉快極まりないものです。さらに、敵性国家の影響力が日本の政治に直接影響を与えているルートの一つであるのならば、当然シャットアウトする他ありません。

そう考えると、以下の2つのテーマが今後、重要になってくると思います。

  • 統一教会を含むカルト宗教との決別、関係の清算
  • カルト宗教の取り締まり
まずは現職の議員(とりわけ自民党に多い)で、統一教会と関係があるとみられている人は、その関係を明らかにすべきです。その上で、関係を清算するのか、統一教会は問題ないから関係を継続するのかは、一応自由なのかもしれませんが(カルト宗教と癒着する自由が議員にあるのは心情的には納得しない)、ここを明らかにしなければ、何も始まらないと思います。

ただ、講演に出たとか電報を打ったとかで関係者認定を安易にしているのもどうかとは思います。先ほども述べた通り政治家の習性として100%賛同していないところにでも挨拶に行くのは普通ですので。統一教会の信者数を考えると、票はそこまで多くはなく、政治家に与えている影響力にも限りがあると考えるのが自然です。どこまでを許すかは情報公開の上で、有権者個人が判断すればいいことですが。

もし、統一教会との関係を曖昧にして進むのであれば、自民党には退場いただく他ないでしょう。


次にカルト宗教を取り締まるためのきちんとした法的根拠を備え、統一教会がそれに該当するのであれば、処分すべきです。宗教法人は税金面等で優遇があるということもありますが、そもそもカルト宗教は一般の国民の生活に問題があるわけですから、宗教法人として認定することに問題があります。信教の自由はあるものとしても、他者に危害を加えることを含めて認められるものではないのです。

そもそも団体を監視することそのものが、個人に対する信教の自由を侵害するものではなく、宗教法人と認定されなかったとしても同様です。そう考えれば、早期に監視・規制を行って、団体、あるいは違反する個人に対して罰則を作ることは何ら問題ないどころか、法治国家として必要でしょう。

それにしても、日本にはオウムというカルト宗教があり、その宗教団体が悲劇的なテロを起こしたにも関わらず、根本的な対応の取られないまま今日まで至っていること自体が問題だと感じます。全く陰謀論になりますが、統一教会や一部の宗教団体の支援を受ける政治家たちがあえて放置してきたのではと思ってしまいます。

2022年5月8日日曜日

戦争の新しい10のルール(ショーン・マクフェイト著)

戦争の新しい10のルール
21世紀の孫子登場!なぜアメリカは負け戦続きなのか?未来の戦争に勝利するための秘訣を古今東西の敗戦を分析しながら冷徹に説く。

はじめに


筆者のショーン・マクフェイト氏は米国陸軍での軍歴があり、大学の戦略学の教授である一方、民間軍事会社のコントラクター等の経歴で第三世界での実情も見ている方で、その知見を活かし、どうしてアメリカが負け続けるのかという点を突き詰めた本です。

第二次世界大戦以降、朝鮮・ベトナム・アフガン・イラクetcと負け続ける原因は、国家間の戦争という所謂「通常戦」に固執しているからだと指摘する筆者の見方は、興味深いものであります。

筆者の経歴上、民間軍事会社とか「戦争の民営化」については、バイアスを感じざるを得ない箇所がありますが、勝利に向けての戦略ということを考える上で、参考になる本です。


あらすじ


本書で出てくる10のルールは以下の通りです。(本の紹介でも出ているものなので、全て記載しておきます、赤字は私の強調)

  • Rule1「通常戦」は死んだ
  • Rule2「テクノロジー」は救いにならない
  • Rule3「戦争か平和か」という区分はない。どちらも常に存在する
  • Rule4「民衆の心」は重要ではない
  • Rule5「最高の兵器」は銃弾を撃たない
  • Rule6「傭兵」が復活する
  • Rule7「新しいタイプの世界パワー」が支配する
  • Rule8「国家の関与しない戦争」の時代がやってくる
  • Rule9「影の戦争」が優勢になる
  • Rule10「勝利」は交換可能である


欧米は、国家間とりわけ大国間の戦争として、「通常戦」というものを前提に置いています。これは簡単に言えば第二次世界大戦のような国家主体が保有する軍事力による衝突ということになります。

筆者が指摘するまでもないことですが、このような戦争は実際には殆ど起こっていないのです。実際に行われているのは、非国家主体との闘いや内戦などの紛争なのです。

その際に、多額のお金をかけたテクノロジー(たとえばF-35戦闘機や航空母艦)は、全く役に立たないというのが筆者の主張です。このような通常戦用の高価な武器を買うのをやめ、現代の戦争で成功している兵器に投資すべきだとします。その一つが特殊作戦部隊です。


次に「戦争か平和か」の区分については、ハイブリッド戦争や支那の超限戦、グレーゾーン等様々な言葉が出ていますので、目新しい内容ではありませんが、戦争の在り方の変化としてはとても重要なものです。


「戦争の民営化」という流れが、この本の趣旨としては重要な部分であると思います。傭兵の復活というのは、既にアメリカ軍でも起こっていますが民間軍事会社の「活用」が一例です。傭兵は軍隊の劣化コピーに思われているが、実際は欧米人が考えるより強力であると指摘します。

さらに傭兵ビジネスは、中東の様な富裕で戦争を欲するが攻撃的軍隊を持たない国家に、有益なオプションであるとし、テロリスト、NGO、多国籍企業等にもその利用は広がっているようです。

このような流れの中で、戦争の民営化、プライベート・ウォーが起きるというのが筆者の主張です。


考察


通常戦は死んだのか?


本書は通常戦は「死んだ」としています。確かに通常戦は殆ど発生していません。これは事実ですが、起きていないことが、すぐに「死んだ」ことを指すのかというと、私は違うと思います。

これは抑止力を無視している話であって、本書の後半部分では氏も書いていますが、非通常戦はそもそも正面から米国と通常戦を行えば勝てる見込みがないことから、敵対勢力は米国を負かすために編み出したものということになります。つまり、通常戦は死んだと額面通りに受け取って、通常戦に対応するための軍隊を全て解体してしまえば、敵対勢力は何の憂いもなく通常戦を仕掛けることが出来ると思われます。

通常戦への備えは、まず国家の基礎体力として必要であって、その上で一定のレヴェルを超えると、通常戦がもたらす破壊や不利益が大きくなりすぎるが故に、通常戦以外の手段で敵対勢力は勝利を目指すのです。その点に対し、果たして欧米は対応できているのかと言えば、全くそうではないというのが論旨であると思われます。

その上で、本書は米国の硬直化した軍事戦略、すなわち通常戦偏重を批判するものであり、米国以外の人間が受け取る際は、額面通りに受け取るのではなく、氏の戦略的意図を理解することが必要だと思います。


日本に置き換えるならば、そもそも日本は全く通常戦に対応できていません。同盟国が核保有国の米国である以上、敵性国家である支那・朝鮮・露国から通常戦を仕掛けるハードルはそれなりに高いとは言えますが、自国にまともな備えが無い以上、通常戦が起こらないとは言えず、この本の話以前のレヴェルにあるわけです。

その上で、筆者が唱える戦略についても、よく理解し、活用していくことが求められるのではないかと考えます。


国家の関与しない時代は来るのか


個人的な話ですが、この本の前に、ジョセフ・ナイの「国際紛争」を読んでいまして、そこでリベラリズム的、あるいはコンストラクティビズム的な方向で、国家主体が絶対的な存在であるウェストファリア体制は終わったみたいな内容を読んでいたのですが、真逆の方向性なのに結論が同じで、ちょっと笑ってしまいました。

さて、本当にこの方向になるのかという点についてですが、私はまだ半信半疑です。技術革新は、様々なコストを低下させて来たために、個人あるいは非国家主体の組織でも、場合によっては国家と肩を並べるだけの軍事力や影響力を得ていることは、本書にもある通り事実です。

しかし、どの程度国際政治という分野で影響があるようになるかというと、それは別の話になるのではないかと考えています。確かに技術革新は、個人あるいは非国家主体の組織の能力を底上げしたと思いますが、一方で国家主体の能力も同様に、あるいはそれ以上に向上させたのではないでしょうか。例えば、支那共産党の独裁体制は、新しい技術を徹底的に活用しています。つまり、個人あるいは非国家主体の組織の能力が技術革新で高まったからといって、同じかそれ以上に国家主体の能力が高まれば、影響力は変わらないどころか、下がる可能性すら考えられるということです。


もう一つ、筆者が例に出している事例は殆どが第三世界のそれです。正直なところ、確かにアメリカは負け続きでしたが、ヴェトナムやアフガン、イラクで負け続けたことで、米国の覇権体制が揺らいだのかというと、それは違うと思います。戦費をドブに捨て、多くの若者を失ったことは重大ですが、そもそもやらなければそれで済んだ話であって、大局からすると意味が無いのではないか。これは、主にリアリズムの論者から出る話です。

問題はこれを支那や露国のような、覇権に対して挑戦する側の国が、有効活用していることであって、それはまさに国家が関与しているわけです。筆者が指摘するような、傭兵ビジネスやお金のための兵士というファクターは重要ですが、これは紛争レヴェルの話であり、戦争の主体がそれに置き換わるというのは過大評価、あるいはミスリードと考えます。

第三世界ではそのような戦いが増えるかもしれません。しかし、これらの国ではそもそも国家としての能力が大きく劣り、国際政治という分野で議論になる国家主体とは、形式的に(あるいは国連の1票という意味で)は同じ国家ですが、実態は全く違う存在であり、この構図は別に新しいものではないのです。

戦争とは何か、国際政治のアクターは何かということへの見方が変われば、また違う考えになると思いますが、現時点で国家主体が確立している大国、先進国においては、あまり重要な論点ではないと思います。これは本書が与える示唆が重要ではないという意味ではなく、本書の結論がそうであるということです。


本書から学ぶべきこととは


私見ですが、この本は所謂国家主体の間で行われる「戦争」というより、「紛争」について大きな示唆を与えます。また、覇権国に対する挑戦国(支那・露国等)は、通常戦を仕掛けることは困難(軍事力での正面衝突はリスクが高い)ことから、彼らの手段を考察・理解していく上でも役立つと思います。

そして、第三世界の紛争を解決する方法を考える上でも(私の興味ではないので詳しくは触れませんでしたが)、意義があるのではないでしょうか。特に、市場原理と結びついた傭兵の存在は、停戦を難しくするからです。イデオロギーと並んで、厄介な戦争になることは間違いないと思います。傭兵は平和な世界では存在意義がなくなってしまうからです。ある時は警備部隊に、ある時はテロリストに、ある時は大国の軍事力の一部として、マルチに活躍する存在は確実に紛争を複雑化させます。このような事態に対する解を求めていくことも、21世紀の課題の一つになるのではないでしょうか。

2022年3月31日木曜日

核兵器を考える

はじめに


最近、安倍元首相の核シェアリング検討の話やウクライナ情勢を契機に、国際政治・安全保障・核武装等の議論が活発化しています。

しかし、それらは残念ながらレヴェルの低い議論、枝葉末節の議論に終始しているように感じます。ここでは、核兵器の国際的な意味を明確にしつつ、ウクライナ戦争の教訓を取り入れながら、日本のあるべき姿を考えていきたいと思います。

日本の周りは、支那・露国・朝鮮半島という国際法等のルールが通用せず、自由主義・民主主義・資本主義といった価値観を共有できない敵性国家が存在し、それらとの軍事力の格差は日夜拡大しつつあり、しかも日本だけが核を持たないという極めて危険な状況であります。

先に断っておきますが、本項で検討していくことは、我が国日本の平和と安定、独立、体制の保証、経済的利益の確保などを、この厳しい状況下でも確実に実現するための平和的なものであります。


核兵器の意味あい


日本では、戦後の過剰な反戦反核教育の効果なのか、あるいは唯一の被爆国(これが妥当なのかは議論の余地がある)ということなのか、核兵器というものを感情的に「悪」と見なし、それが果たしている安全保障上の国際政治上の役割を考える人間が非常に少ないです。

ミアシャイマーは、大国政治の悲劇の中で、

核兵器 は 短時間 で 破壊的 な 損害 を ライバル 国 に 与える こと が できる ので、 互いに 核武装 し た ライバル 国 同士 は あまり 積極的 に 戦お う とは せ ず、 むしろ 互い を 恐れる 理由 が 少なく なる。

と述べています。

日本では核兵器にイデオロギー的な感覚を持つ人が多いですが、国際政治という大枠の中においては、単に威力が最も大きい攻撃手段と考える方がよいのではないでしょうか。

この点を踏まえて考えてみると、核兵器のポイントは、

  1. 核兵器を持つ国同士では、戦争をするリスクが高すぎるため、戦争になりにくい。
  2. 核兵器を持つ国に対し、核兵器を持たない国は、対抗手段を持たない(使われたら終わるし、使わせないために相手に躊躇させるダメージを与える手段が無い)。
の2点になると思います。

1については、所謂相互確証破壊というものが成立すれば、核兵器を使用した場合、実質的に戦争は負けしかなくなるわけです。核兵器で相手の国を完全に壊滅させることができても、潜んでいる原潜から反撃ができるといった場合、つまり先制核攻撃に対しての生残性を持ち得る場合は、同様に攻撃されてしまうからです。

相手の核攻撃を完全に無力化する手段ができるとかであれば、核兵器は無効化され、また意味合いが変わるのでしょうが、現時点ではそのような技術の目途はないはずであり、当面の間はこのような核兵器の意味合いが変わることはないでしょう。

また、北朝鮮とかのように「相互確証破壊」というレヴェルに達していない核保有国(とされる国・主体)は存在します。それらの国と「相互確証破壊」に達しているアメリカがぶつかれば、核兵器を持たない国と同じようになるというのが理論的には考えられますが、実際に核攻撃をするかしないかというところまでいかないと、その理論が正しいのかは確認のしようがなく、核兵器の威力の大きさから実現することはないでしょうから、核兵器とそれを打ち込む手段(ミサイル)があれば、核保有国としての国際政治的な立場は手に入るのではないかと考えられます。


2については、核保有国が非保有国に対し、核を使うことを明示あるいは暗示して圧力をかけてきた場合、非保有国の側としては、単独で対抗する手段は存在しないということです。

核兵器を上回る破壊手段はない以上、先制攻撃も使われた後の反撃も核保有国側が使用を思いとどまるほどのものにはならないのです。


ここまでの話は理論的というか、極論です。実際は、戦争には目的があるわけで、ただ闇雲に周りの国を破壊したいとかいう愉快犯みたいなものではありません。たとえば、ある国がある国を占領したいと考えた時に、その国の地下資源が狙いとしましょう。そこに核兵器をぶっ放してしまえば、採掘する設備は破壊されますし、核汚染も発生するために、地下資源を採掘することは事実上不可能です。

もちろん、相手国の「目的」や「意思」を100%確実に知る手段はありませんし、それは流動的に変わる可能性も高いです。そのような不確実なものに、国家の安全という重要なものを預けることはできませんので、相手の「能力」に対して備えるというのが基本です。


もう一つ、先ほどの話が「極論」になるのは、リベラリズム的なものです。つまり、国際法・条約や集団的安全保障の存在です。

先ほどは1:1の戦争の話でしたが、実際の国際政治では、1:1で戦争が起こるということはあり得ないわけで、第三者の存在を常に考慮しなければならないでしょう。

核兵器を使用した場合に、他の大国や国際社会の反応は、過去に例が無く(広島・長崎の原爆投下時は今の核兵器に対するコンセンサスがない状態なので比較できない)、実際にどうなるかはわからないため、使用する時に足枷にはなると考えられます。一方で、国連軍は実際に機能したことがなく、安保理には拒否権があり(かつ拒否権を行使できる常任理事国は全て核保有国である)、実行力のある抑止とはなるか不透明であります。

しかし、どこまで行ってもリベラリズム的なものは、条約、国際法、国際機関の決定を他国に強制する手段がない以上、確実性は持たないと思います。これは、国際政治と国内政治の決定的な違いです。国内であれば、国家という主体が絶対的な力を持ち、法律等を実力を持って強制します。それが故に、他の人も法律は守るはずであるという仮定が成り立ちます。

ですが、国際法においては、国家の上に立ち、国家にそれを強制する機関は存在しません。これは、今現在起こっていることを見れば明らかであり、国連総会で賛成多数で露国を非難しようが、それを強制する手段はないため、露国は何も行動を変えていないのです。

また、NPT(核兵器の不拡散に関する条約)体制は、実際にはインド・パキスタン・北朝鮮・イランといった核拡散の動きには全く対応できておらず、核攻撃のリスクを下げることや核軍縮には全く繋がっておらず、単に既存の国際政治体制を守るためのものになっています。

これらの実情から鑑みると、自国の安全という最重要事項をリベラリズム的なものに委ねることはできないと考えます。


核シェアリングを考える


NATO型核シェアリングとは

日本での核シェアリングを考える前に先行事例であるNATOでの核シェアリングを考えてみましょう。

NATOの核シェアリングは、シェアリングという表現をしていますが、シェアハウスとかの一般的な用語のシェアとは意味合いが異なり、核兵器自体の管理は米軍が行っており、戦術核がドイツ等の一部の加盟国に配備されているということを示します。

これは一定程度、同盟を強化する役割を果たしていると考えられますが、抑止力としての効果はないと考えられます。主な理由としては、

  • 実際に核を使用するためには保有国(米国)の意思に左右される。
  • そもそも配備されているものは戦術核であり、射程が短い。
  • 生残性がない(基地に存在する)。
等が挙げられます。


日本での核シェアリング

上記を踏まえて、日本での核シェアリングを考えます。この目的は、日米同盟をより強化することにあります。

結論から言うと、核シェアリングは無駄です。費用対効果に合いません。

まず核シェアリングは、米国側から見てもする意味に乏しいです。戦術核は日本からでは敵性国、つまり支那・露国・朝鮮には届きません。そうすると戦略核ということになりますが、核攻撃を可能とする原潜がある以上、日本に核兵器を配備することには全く意味がありません。

一方でデメリットは多数あり、NPT体制の違反となるため敵国に対して大義名分を与えること、米軍基地を攻撃された際に被害が増えること、セキュリティの弱い日本から関連する情報が流出すること、核使用時に日本と協議する必要が出る可能性があることなどが考えられます。

日本からのメリットは、戦術核という言わば「人質」を取ることができるため、有事の際に日本を見捨てにくくなることがあると思います。逆に言うと私にはこれ以上のメリットが思い当たりません。

デメリットは、戦術核の管理に関わる費用負担を求められる可能性、戦術核を使われる前に潰す先制攻撃に合う可能性、天災・事故のリスクなどが考えられます。


核シェアリングにおいて戦術核というのは、一つの仮定であり、他にも形はあると思います。しかし、基本的なメリットデメリットは大きく変わるものではなく、究極のところでは日本の意思だけで発射できる生残性を備えた戦略核兵器以外では、日本が必要とする相互確証破壊は得られないという問題に変わりは無いと思います。

特に米国側から見た時に、核シェアリングに応じるメリット・理由がないと、話にならないと思いますが、その点を示せるのかと疑問を覚えます。


日本には核保有しかない…が


ここまで何度も触れている通り、核保有国とそうではない国の中には、厳然たる国際的な影響力の差があることは明白であり、いくつかの障害はあるものの、ニュークリア・ブラックメールを受ければ、例え同盟国が何か国あろうとも、最後は屈服することになるのです。

繰り返しになりますが、同盟国が何か国あったとしても、その同盟国が核を持っていたとしても「核兵器を持つ国同士では、戦争をするリスクが高すぎる」以上、自国で対抗する他はなく、核兵器の位置づけから核を保有する以外に対抗手段はないのです。

もっと具体的に言えば、支那が日本に核による脅しをした時、米国は日本のために、自国に核ミサイルが飛ぶという危険を冒しても対抗するということは、有り得ないのです。

加えて、支那や露国は軍事力も多く、通常兵力で戦ったとしても、日本が自国を守り切れるという確証はありません。特に支那に関しては、公表されているGDPだけで見ても圧倒的に支那の方が日本よりも多いのです。


とはいえ、現実的に日本がすぐに核抑止力を自前で構築するのは不可能です。

少なくとも、核爆弾に関する技術、ICBM、原子力潜水艦とSLBM、核技術の機密抑止と他国の核を含めた情報を入手するための情報機関あたりは必要だと思います。

核開発は、中途半端なところで露見した場合は、まず間違いなくニュークリア・ブラックメールによって阻止されるでしょうから、秘密にして開発した上で、最終段階でそれが現実のものであることを証明する実験をしなければなりません。そのような体制も政治的な意思もないので、無理でしょう。

では、それまでに出来ることは何かと言えば、まずは日本の針路を定め、戦略を構築し、通常兵力を強化し、同盟を強化していくことで、少しでも戦争のリスクを下げていくことしかないのではないかと思います。

そういう大局的なビジョンを無視して、ウクライナ問題で関心が高まったところへ枝葉末節の問題を広げるというのは、せっかくの好機を無駄にしているようで、残念です。


核の話でよく言われることを適当に斬る


日本は唯一の被爆国なので~

これを見る度に、過去のそれが現在、そして未来の安全保障と何の関係があるのか?という思いを抱きます。

敵性国家が、日本は唯一の被爆国なので攻撃や脅しをやめようと思うわけがないでしょう。

私たちが考えるべきことは、日本に再び核を使われる事態を避けるためにベストを尽くすことじゃないでしょうか。


核廃絶

全ての核保有国及びそれに準ずる国(技術を持っているが核兵器は不保持である国等)が、不可逆的な方法で核兵器及びそれに関する技術を破棄するのであれば、核廃絶は支持できます。しかし、私は核廃絶を訴える人から、それに至るシナリオを聞いたことがありません。いくら訴えても核はなくならないことは、既に原爆投下の蛮行から75年経過していることから、言うまでもないでしょう。

非現実的な目標が実現することを前提に、国家の安全保障という喫緊の課題を考えるのは間違っています。核なき世界が実現するならば、その世界においての安全保障を定義しなおす必要がありますが、少なくとも今は核があり、なくなる可能性もないのですから、今の現実に対応した安全保障体制をとらなければ、滅亡するか隷属するか悲惨な戦争になるのです。


非核三原則の堅持

今まで戦争もニュークリア・ブラックメールもなかったのは、非核三原則とか憲法9条にその原因を求める人が居ます。

戦争が起きなかった理由を証明するのは難しいですが、それらの要素が影響しているとは考えにくいです。私見で列挙すると

  • 日本を狙う主体がなかった。
  • 周辺国との軍事力の格差が、現在に比べて少なかった。
  • 冷戦構造の存在。日米安保の存在。
  • 第二次世界大戦の抵抗。
などが思いつきます。

日本に対し敵対的な勢力から見れば、非核三原則とか憲法9条は、日本には核はありません、反撃する軍隊はありませんということを宣言しているという意味に過ぎません。それは、まさに侵略しやすいということを意味します。わざわざ弱点を教えているようなものです。

また、核を持たない国に、核保有国が核を使うことはないと考える人も居るかもしれません。これは、安全保障の基本原則である、相手の能力に対して抑止するということに反しています。それに、核は使われなければそれでよいというものではなく、国益や自由・独立を守るためには、脅しに対しても対抗できなければいけません。相手は使うつもりはないけれども、使うことをちらつかせて脅してきた時にどうするのでしょうか?これは単に脅しだと思っても、焦土になるリスクを冒してまで丸腰で対抗するというのは、あまりにも暴論だと思います。


核よりも通常兵力の準備をすべきだ

通常兵力の準備をすべきだという事に関しては、全くの同感です。

ただ、なぜそれで核を除け者にするのかは疑問です。核抑止力と通常兵力の抑止力というのは、どちらも必要なものですし、もっと言えば核抑止力が確立していれば、通常兵力は外征しない限り、相互確証破壊に必要な生残性の確保と相手が通常攻撃で侵略してきたときの防衛(まさか自国に核を打って止めるなんて無いですよね)に絞れるため、ある程度のコストカットはできると思います。


核兵器は道徳的に正しくない

その価値観は尊重しますが、道徳的に正しいかどうかと現実として起こり得るかは別の問題です。そして、敵性国家は道徳的に正しいとは限りませんし、そもそも道徳というものは、社会によって、集団によって、個人によって異なるものです。日本人の多くが非道徳的と考えるであろう主権国家への侵略を現在進行形で行っている国家もあるのです。議論の次元が違うということです。


終わりに

長々と書いてきましたが、核について、そして安全保障について重要なことは、タブーやイデオロギーに左右されずに、如何に現実を直視して対応を考えられるかに尽きると思います。

2022年2月6日日曜日

見えない手(クライブ・ハミルトン、マレイケ・オールバーグ著)

見えない手―中国共産党は世界をどう作り変えるか
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〇日・米・欧での「浸透工作」、全体像を初めてとらえた‼ 〇中国を痛撃し、世界の流れを変えた警鐘の書、待望の第2弾! 〇独英豪で相次ぎベストセラー、ハミルトン教授は中国入国禁止に。 〇アメリカの混迷と衰退で、全体主義的解決策がコロナ後の世界を席巻する。 〇反対意見を消去し、北京の望む通りに各国の世論を動かす手口がすべてわかる! 「言論の自由と報道の自由は中国共産党にとって最大の敵であり、我々はこれを最優先事項として守らなければならない」
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まえがき


本書は「目に見えぬ侵略」で有名になったクライブ・ハミルトン教授の続編で、前作は豪州を舞台としたものでしたが、本書は欧州、アメリカ、カナダを主な舞台としています。

チャイナの工作における手法、ポイントは前作と同様ですので、今回は何故欧州が"堕ちた"のかという点について注目してみます。


要約


欧米の多くのビジネスマンが、支那との取引で稼いでいるか、または稼ぎたいと思っているために、中共は実質的にロビイストを雇っているのと同じだと指摘します。

支那の政府関係者が二国関係について少し暗示するだけで、彼らは北京を怒らせないよう自国政府に圧力をかけてくれる。「以商逼政」として知られています。


また、欧米でよくみられる政治的な間違いとして、「中国での長年の経験は大使になる人間にとって常に有利」という考えを指摘します。

例として本書で出てくるのが、ドミニク・バートンという駐支那のカナダ大使ですが、彼はマッキンゼーでアジア担当として上海に5年の滞在経験があるようで、中国開発銀行の諮問委員、清華大学の非常勤教授も務めるなどの人物であります。

このように欧米の政府は、支那とその有力者を知る過程で、既に北京の影響力工作の術中にはまっていると指摘します。このような大使は、実質的に北京のメッセージを送り返すだけのメッセンジャーの役割しか果たせなくなるのです。


「農村から都市を包囲する」というのは毛沢東の理論として有名ですが、中共は影響力工作でこれを実践しています。地方の政治家は、支那のことに詳しくなく、国家安全保障にも責任を持たないため、支那の純粋な民間組織を相手にしていると思い込み、実際に工作員や北京の機関に指導されている人を相手にしていることがあるようです。

経済的・文化的結びつきに焦点があてられ、政治的な要素が無いように装われていますが、必要があれば中央政府に圧力をかけるために利用するのです。


メディアも中共にかかれば党のエネルギーを広める機関となります。彼らのジャーナリズムという概念では、真実の唯一の決定者は党なのです。

習近平の演説では。「メディアは党の姓名を名乗るものでなければならない」と述べたそうです。この意味について、メディアは習近平の率いる家父長的な「党の家族の一員」であることを意味すると指摘します。


中共にとっては「文化」もまた政治的なものであったと指摘します。毛沢東主義のイデオロギーが後退した後の中共は、その支配を正当化するためにナショナリズムを選択しました。

さらに習近平政権になってから、「伝統的な文化を復活させる正当な保護者」というだけでは満足せずに、党が「正しい支那文化とは何か」を決定するようになったと指摘します。


考察


本書からわかることは、中共は自由主義圏では通常政治的な意図を持たないと考えられるような部分も含めて、隅々まで党の意思というものが含まれています。

しかし、自由主義圏はそのような発想がなく、政治的な「免疫力」について非対称性があり、かつそれを中共は認識した上で徹底的に活用しているために、このような影響力工作ができたのだと感じます。

楽観的に見れば、このような影響力工作はできなくなってくるとも見れます。かつて後進国だった支那は既に欧米から見ても大国であり、かつそれは単なる大国ではなく異質な、敵性国家である大国とみなされていく現状から、全体的に警戒が強まるでしょう。警戒が進めば、お金の流れは当然規制が進むわけで、中共の力の源泉の一つである「チャイナマネー」や支那の市場にビジネスマンが感じるポテンシャルも落ちます。

また、本書のように中共の影響力工作を暴く言論は、自由主義圏では封じることはできません。中共の云う「友好」や「チャイナ文化」等の欺瞞も信じられなくなり、人を動かせなくなるでしょう。

一見して自由主義というものの弱みがわかったように感じるかもしれませんが、本書の存在は、自由主義の強さを示していると私は思います。党が真実を決めるという権威主義体制では、誤りは正されることなく破滅まで突き進むか、誤りを認めた結果正当性がなくなって崩壊するかのいずれです。中共の行く末がどちらになるのかはわかりませんが。

このような自由主義の強さというものを活かすためには、自由主義圏のそれぞれの国民が真実を求め最善と考えられる行動をとる必要があるのではないでしょうか。


「目に見えぬ侵略」のご紹介はこちら。


目に見えぬ侵略 中国のオーストラリア支配計画(クライブ・ハミルトン著)


中共が仕掛ける影響力工作を含むハイブリッド戦争について、わかりやすい本です。

ハイブリッド戦争の時代(志田淳二郎著)
2022年1月1日土曜日

年頭のご挨拶(皇紀2682年、令和04年、西暦2022年)

 



皆様、新年明けましておめでとうございます。

昨年も拙文にお付き合いいただきありがとうございました。
武漢肺炎騒ぎの継続、岸田政権の誕生、東京五輪等のイベントがありました。
しかし、どうも日本が良い方向に向かっているとは言い難く、地政学的リスクは非常に高まっている現実に対し、あまりにも無力な状態であると感じます。

一方、内政に目を向ければ、武漢肺炎対策は経済無視の過剰な対応を内部に強いるにもかかわらず、水際対策は何もできない(憲法上の制約はありますが、憲法を変えられなかった自民党の責任という意味では同じ)という酷い状況であります。
その結果として、日本経済は一人負けといった状態であります。にもかかわらず、財政出動は渋り、増税議論だけは花が咲くというとんでもない状態です。

参院選が今年ありますから、せめてもの意思を示す他無いと思いますが、現状の支持率、マスメディアの報道を見る限りは、厳しいように思われます。

個人としては、生活を日本から移すことは難しいですので、せめて資産を米国に移すことで防衛していくことで対応していきたいと思います。
2020年3月末~今までの米国相場は(少なくともインデックスは)イージーでした。
その終焉は近そうにも感じますが、S&P500に勝つことを目標に頑張っていこうと思います。

末筆ではございますが、皆様のご健勝とご発展をお祈り申し上げます。


皇紀2682年、令和04年
西暦2022年

管理人 らうにー


いらすとや様から画像をお借りしております。