2022年3月31日木曜日

核兵器を考える

はじめに


最近、安倍元首相の核シェアリング検討の話やウクライナ情勢を契機に、国際政治・安全保障・核武装等の議論が活発化しています。

しかし、それらは残念ながらレヴェルの低い議論、枝葉末節の議論に終始しているように感じます。ここでは、核兵器の国際的な意味を明確にしつつ、ウクライナ戦争の教訓を取り入れながら、日本のあるべき姿を考えていきたいと思います。

日本の周りは、支那・露国・朝鮮半島という国際法等のルールが通用せず、自由主義・民主主義・資本主義といった価値観を共有できない敵性国家が存在し、それらとの軍事力の格差は日夜拡大しつつあり、しかも日本だけが核を持たないという極めて危険な状況であります。

先に断っておきますが、本項で検討していくことは、我が国日本の平和と安定、独立、体制の保証、経済的利益の確保などを、この厳しい状況下でも確実に実現するための平和的なものであります。


核兵器の意味あい


日本では、戦後の過剰な反戦反核教育の効果なのか、あるいは唯一の被爆国(これが妥当なのかは議論の余地がある)ということなのか、核兵器というものを感情的に「悪」と見なし、それが果たしている安全保障上の国際政治上の役割を考える人間が非常に少ないです。

ミアシャイマーは、大国政治の悲劇の中で、

核兵器 は 短時間 で 破壊的 な 損害 を ライバル 国 に 与える こと が できる ので、 互いに 核武装 し た ライバル 国 同士 は あまり 積極的 に 戦お う とは せ ず、 むしろ 互い を 恐れる 理由 が 少なく なる。

と述べています。

日本では核兵器にイデオロギー的な感覚を持つ人が多いですが、国際政治という大枠の中においては、単に威力が最も大きい攻撃手段と考える方がよいのではないでしょうか。

この点を踏まえて考えてみると、核兵器のポイントは、

  1. 核兵器を持つ国同士では、戦争をするリスクが高すぎるため、戦争になりにくい。
  2. 核兵器を持つ国に対し、核兵器を持たない国は、対抗手段を持たない(使われたら終わるし、使わせないために相手に躊躇させるダメージを与える手段が無い)。
の2点になると思います。

1については、所謂相互確証破壊というものが成立すれば、核兵器を使用した場合、実質的に戦争は負けしかなくなるわけです。核兵器で相手の国を完全に壊滅させることができても、潜んでいる原潜から反撃ができるといった場合、つまり先制核攻撃に対しての生残性を持ち得る場合は、同様に攻撃されてしまうからです。

相手の核攻撃を完全に無力化する手段ができるとかであれば、核兵器は無効化され、また意味合いが変わるのでしょうが、現時点ではそのような技術の目途はないはずであり、当面の間はこのような核兵器の意味合いが変わることはないでしょう。

また、北朝鮮とかのように「相互確証破壊」というレヴェルに達していない核保有国(とされる国・主体)は存在します。それらの国と「相互確証破壊」に達しているアメリカがぶつかれば、核兵器を持たない国と同じようになるというのが理論的には考えられますが、実際に核攻撃をするかしないかというところまでいかないと、その理論が正しいのかは確認のしようがなく、核兵器の威力の大きさから実現することはないでしょうから、核兵器とそれを打ち込む手段(ミサイル)があれば、核保有国としての国際政治的な立場は手に入るのではないかと考えられます。


2については、核保有国が非保有国に対し、核を使うことを明示あるいは暗示して圧力をかけてきた場合、非保有国の側としては、単独で対抗する手段は存在しないということです。

核兵器を上回る破壊手段はない以上、先制攻撃も使われた後の反撃も核保有国側が使用を思いとどまるほどのものにはならないのです。


ここまでの話は理論的というか、極論です。実際は、戦争には目的があるわけで、ただ闇雲に周りの国を破壊したいとかいう愉快犯みたいなものではありません。たとえば、ある国がある国を占領したいと考えた時に、その国の地下資源が狙いとしましょう。そこに核兵器をぶっ放してしまえば、採掘する設備は破壊されますし、核汚染も発生するために、地下資源を採掘することは事実上不可能です。

もちろん、相手国の「目的」や「意思」を100%確実に知る手段はありませんし、それは流動的に変わる可能性も高いです。そのような不確実なものに、国家の安全という重要なものを預けることはできませんので、相手の「能力」に対して備えるというのが基本です。


もう一つ、先ほどの話が「極論」になるのは、リベラリズム的なものです。つまり、国際法・条約や集団的安全保障の存在です。

先ほどは1:1の戦争の話でしたが、実際の国際政治では、1:1で戦争が起こるということはあり得ないわけで、第三者の存在を常に考慮しなければならないでしょう。

核兵器を使用した場合に、他の大国や国際社会の反応は、過去に例が無く(広島・長崎の原爆投下時は今の核兵器に対するコンセンサスがない状態なので比較できない)、実際にどうなるかはわからないため、使用する時に足枷にはなると考えられます。一方で、国連軍は実際に機能したことがなく、安保理には拒否権があり(かつ拒否権を行使できる常任理事国は全て核保有国である)、実行力のある抑止とはなるか不透明であります。

しかし、どこまで行ってもリベラリズム的なものは、条約、国際法、国際機関の決定を他国に強制する手段がない以上、確実性は持たないと思います。これは、国際政治と国内政治の決定的な違いです。国内であれば、国家という主体が絶対的な力を持ち、法律等を実力を持って強制します。それが故に、他の人も法律は守るはずであるという仮定が成り立ちます。

ですが、国際法においては、国家の上に立ち、国家にそれを強制する機関は存在しません。これは、今現在起こっていることを見れば明らかであり、国連総会で賛成多数で露国を非難しようが、それを強制する手段はないため、露国は何も行動を変えていないのです。

また、NPT(核兵器の不拡散に関する条約)体制は、実際にはインド・パキスタン・北朝鮮・イランといった核拡散の動きには全く対応できておらず、核攻撃のリスクを下げることや核軍縮には全く繋がっておらず、単に既存の国際政治体制を守るためのものになっています。

これらの実情から鑑みると、自国の安全という最重要事項をリベラリズム的なものに委ねることはできないと考えます。


核シェアリングを考える


NATO型核シェアリングとは

日本での核シェアリングを考える前に先行事例であるNATOでの核シェアリングを考えてみましょう。

NATOの核シェアリングは、シェアリングという表現をしていますが、シェアハウスとかの一般的な用語のシェアとは意味合いが異なり、核兵器自体の管理は米軍が行っており、戦術核がドイツ等の一部の加盟国に配備されているということを示します。

これは一定程度、同盟を強化する役割を果たしていると考えられますが、抑止力としての効果はないと考えられます。主な理由としては、

  • 実際に核を使用するためには保有国(米国)の意思に左右される。
  • そもそも配備されているものは戦術核であり、射程が短い。
  • 生残性がない(基地に存在する)。
等が挙げられます。


日本での核シェアリング

上記を踏まえて、日本での核シェアリングを考えます。この目的は、日米同盟をより強化することにあります。

結論から言うと、核シェアリングは無駄です。費用対効果に合いません。

まず核シェアリングは、米国側から見てもする意味に乏しいです。戦術核は日本からでは敵性国、つまり支那・露国・朝鮮には届きません。そうすると戦略核ということになりますが、核攻撃を可能とする原潜がある以上、日本に核兵器を配備することには全く意味がありません。

一方でデメリットは多数あり、NPT体制の違反となるため敵国に対して大義名分を与えること、米軍基地を攻撃された際に被害が増えること、セキュリティの弱い日本から関連する情報が流出すること、核使用時に日本と協議する必要が出る可能性があることなどが考えられます。

日本からのメリットは、戦術核という言わば「人質」を取ることができるため、有事の際に日本を見捨てにくくなることがあると思います。逆に言うと私にはこれ以上のメリットが思い当たりません。

デメリットは、戦術核の管理に関わる費用負担を求められる可能性、戦術核を使われる前に潰す先制攻撃に合う可能性、天災・事故のリスクなどが考えられます。


核シェアリングにおいて戦術核というのは、一つの仮定であり、他にも形はあると思います。しかし、基本的なメリットデメリットは大きく変わるものではなく、究極のところでは日本の意思だけで発射できる生残性を備えた戦略核兵器以外では、日本が必要とする相互確証破壊は得られないという問題に変わりは無いと思います。

特に米国側から見た時に、核シェアリングに応じるメリット・理由がないと、話にならないと思いますが、その点を示せるのかと疑問を覚えます。


日本には核保有しかない…が


ここまで何度も触れている通り、核保有国とそうではない国の中には、厳然たる国際的な影響力の差があることは明白であり、いくつかの障害はあるものの、ニュークリア・ブラックメールを受ければ、例え同盟国が何か国あろうとも、最後は屈服することになるのです。

繰り返しになりますが、同盟国が何か国あったとしても、その同盟国が核を持っていたとしても「核兵器を持つ国同士では、戦争をするリスクが高すぎる」以上、自国で対抗する他はなく、核兵器の位置づけから核を保有する以外に対抗手段はないのです。

もっと具体的に言えば、支那が日本に核による脅しをした時、米国は日本のために、自国に核ミサイルが飛ぶという危険を冒しても対抗するということは、有り得ないのです。

加えて、支那や露国は軍事力も多く、通常兵力で戦ったとしても、日本が自国を守り切れるという確証はありません。特に支那に関しては、公表されているGDPだけで見ても圧倒的に支那の方が日本よりも多いのです。


とはいえ、現実的に日本がすぐに核抑止力を自前で構築するのは不可能です。

少なくとも、核爆弾に関する技術、ICBM、原子力潜水艦とSLBM、核技術の機密抑止と他国の核を含めた情報を入手するための情報機関あたりは必要だと思います。

核開発は、中途半端なところで露見した場合は、まず間違いなくニュークリア・ブラックメールによって阻止されるでしょうから、秘密にして開発した上で、最終段階でそれが現実のものであることを証明する実験をしなければなりません。そのような体制も政治的な意思もないので、無理でしょう。

では、それまでに出来ることは何かと言えば、まずは日本の針路を定め、戦略を構築し、通常兵力を強化し、同盟を強化していくことで、少しでも戦争のリスクを下げていくことしかないのではないかと思います。

そういう大局的なビジョンを無視して、ウクライナ問題で関心が高まったところへ枝葉末節の問題を広げるというのは、せっかくの好機を無駄にしているようで、残念です。


核の話でよく言われることを適当に斬る


日本は唯一の被爆国なので~

これを見る度に、過去のそれが現在、そして未来の安全保障と何の関係があるのか?という思いを抱きます。

敵性国家が、日本は唯一の被爆国なので攻撃や脅しをやめようと思うわけがないでしょう。

私たちが考えるべきことは、日本に再び核を使われる事態を避けるためにベストを尽くすことじゃないでしょうか。


核廃絶

全ての核保有国及びそれに準ずる国(技術を持っているが核兵器は不保持である国等)が、不可逆的な方法で核兵器及びそれに関する技術を破棄するのであれば、核廃絶は支持できます。しかし、私は核廃絶を訴える人から、それに至るシナリオを聞いたことがありません。いくら訴えても核はなくならないことは、既に原爆投下の蛮行から75年経過していることから、言うまでもないでしょう。

非現実的な目標が実現することを前提に、国家の安全保障という喫緊の課題を考えるのは間違っています。核なき世界が実現するならば、その世界においての安全保障を定義しなおす必要がありますが、少なくとも今は核があり、なくなる可能性もないのですから、今の現実に対応した安全保障体制をとらなければ、滅亡するか隷属するか悲惨な戦争になるのです。


非核三原則の堅持

今まで戦争もニュークリア・ブラックメールもなかったのは、非核三原則とか憲法9条にその原因を求める人が居ます。

戦争が起きなかった理由を証明するのは難しいですが、それらの要素が影響しているとは考えにくいです。私見で列挙すると

  • 日本を狙う主体がなかった。
  • 周辺国との軍事力の格差が、現在に比べて少なかった。
  • 冷戦構造の存在。日米安保の存在。
  • 第二次世界大戦の抵抗。
などが思いつきます。

日本に対し敵対的な勢力から見れば、非核三原則とか憲法9条は、日本には核はありません、反撃する軍隊はありませんということを宣言しているという意味に過ぎません。それは、まさに侵略しやすいということを意味します。わざわざ弱点を教えているようなものです。

また、核を持たない国に、核保有国が核を使うことはないと考える人も居るかもしれません。これは、安全保障の基本原則である、相手の能力に対して抑止するということに反しています。それに、核は使われなければそれでよいというものではなく、国益や自由・独立を守るためには、脅しに対しても対抗できなければいけません。相手は使うつもりはないけれども、使うことをちらつかせて脅してきた時にどうするのでしょうか?これは単に脅しだと思っても、焦土になるリスクを冒してまで丸腰で対抗するというのは、あまりにも暴論だと思います。


核よりも通常兵力の準備をすべきだ

通常兵力の準備をすべきだという事に関しては、全くの同感です。

ただ、なぜそれで核を除け者にするのかは疑問です。核抑止力と通常兵力の抑止力というのは、どちらも必要なものですし、もっと言えば核抑止力が確立していれば、通常兵力は外征しない限り、相互確証破壊に必要な生残性の確保と相手が通常攻撃で侵略してきたときの防衛(まさか自国に核を打って止めるなんて無いですよね)に絞れるため、ある程度のコストカットはできると思います。


核兵器は道徳的に正しくない

その価値観は尊重しますが、道徳的に正しいかどうかと現実として起こり得るかは別の問題です。そして、敵性国家は道徳的に正しいとは限りませんし、そもそも道徳というものは、社会によって、集団によって、個人によって異なるものです。日本人の多くが非道徳的と考えるであろう主権国家への侵略を現在進行形で行っている国家もあるのです。議論の次元が違うということです。


終わりに

長々と書いてきましたが、核について、そして安全保障について重要なことは、タブーやイデオロギーに左右されずに、如何に現実を直視して対応を考えられるかに尽きると思います。