2022年5月8日日曜日

戦争の新しい10のルール(ショーン・マクフェイト著)

戦争の新しい10のルール
21世紀の孫子登場!なぜアメリカは負け戦続きなのか?未来の戦争に勝利するための秘訣を古今東西の敗戦を分析しながら冷徹に説く。

はじめに


筆者のショーン・マクフェイト氏は米国陸軍での軍歴があり、大学の戦略学の教授である一方、民間軍事会社のコントラクター等の経歴で第三世界での実情も見ている方で、その知見を活かし、どうしてアメリカが負け続けるのかという点を突き詰めた本です。

第二次世界大戦以降、朝鮮・ベトナム・アフガン・イラクetcと負け続ける原因は、国家間の戦争という所謂「通常戦」に固執しているからだと指摘する筆者の見方は、興味深いものであります。

筆者の経歴上、民間軍事会社とか「戦争の民営化」については、バイアスを感じざるを得ない箇所がありますが、勝利に向けての戦略ということを考える上で、参考になる本です。


あらすじ


本書で出てくる10のルールは以下の通りです。(本の紹介でも出ているものなので、全て記載しておきます、赤字は私の強調)

  • Rule1「通常戦」は死んだ
  • Rule2「テクノロジー」は救いにならない
  • Rule3「戦争か平和か」という区分はない。どちらも常に存在する
  • Rule4「民衆の心」は重要ではない
  • Rule5「最高の兵器」は銃弾を撃たない
  • Rule6「傭兵」が復活する
  • Rule7「新しいタイプの世界パワー」が支配する
  • Rule8「国家の関与しない戦争」の時代がやってくる
  • Rule9「影の戦争」が優勢になる
  • Rule10「勝利」は交換可能である


欧米は、国家間とりわけ大国間の戦争として、「通常戦」というものを前提に置いています。これは簡単に言えば第二次世界大戦のような国家主体が保有する軍事力による衝突ということになります。

筆者が指摘するまでもないことですが、このような戦争は実際には殆ど起こっていないのです。実際に行われているのは、非国家主体との闘いや内戦などの紛争なのです。

その際に、多額のお金をかけたテクノロジー(たとえばF-35戦闘機や航空母艦)は、全く役に立たないというのが筆者の主張です。このような通常戦用の高価な武器を買うのをやめ、現代の戦争で成功している兵器に投資すべきだとします。その一つが特殊作戦部隊です。


次に「戦争か平和か」の区分については、ハイブリッド戦争や支那の超限戦、グレーゾーン等様々な言葉が出ていますので、目新しい内容ではありませんが、戦争の在り方の変化としてはとても重要なものです。


「戦争の民営化」という流れが、この本の趣旨としては重要な部分であると思います。傭兵の復活というのは、既にアメリカ軍でも起こっていますが民間軍事会社の「活用」が一例です。傭兵は軍隊の劣化コピーに思われているが、実際は欧米人が考えるより強力であると指摘します。

さらに傭兵ビジネスは、中東の様な富裕で戦争を欲するが攻撃的軍隊を持たない国家に、有益なオプションであるとし、テロリスト、NGO、多国籍企業等にもその利用は広がっているようです。

このような流れの中で、戦争の民営化、プライベート・ウォーが起きるというのが筆者の主張です。


考察


通常戦は死んだのか?


本書は通常戦は「死んだ」としています。確かに通常戦は殆ど発生していません。これは事実ですが、起きていないことが、すぐに「死んだ」ことを指すのかというと、私は違うと思います。

これは抑止力を無視している話であって、本書の後半部分では氏も書いていますが、非通常戦はそもそも正面から米国と通常戦を行えば勝てる見込みがないことから、敵対勢力は米国を負かすために編み出したものということになります。つまり、通常戦は死んだと額面通りに受け取って、通常戦に対応するための軍隊を全て解体してしまえば、敵対勢力は何の憂いもなく通常戦を仕掛けることが出来ると思われます。

通常戦への備えは、まず国家の基礎体力として必要であって、その上で一定のレヴェルを超えると、通常戦がもたらす破壊や不利益が大きくなりすぎるが故に、通常戦以外の手段で敵対勢力は勝利を目指すのです。その点に対し、果たして欧米は対応できているのかと言えば、全くそうではないというのが論旨であると思われます。

その上で、本書は米国の硬直化した軍事戦略、すなわち通常戦偏重を批判するものであり、米国以外の人間が受け取る際は、額面通りに受け取るのではなく、氏の戦略的意図を理解することが必要だと思います。


日本に置き換えるならば、そもそも日本は全く通常戦に対応できていません。同盟国が核保有国の米国である以上、敵性国家である支那・朝鮮・露国から通常戦を仕掛けるハードルはそれなりに高いとは言えますが、自国にまともな備えが無い以上、通常戦が起こらないとは言えず、この本の話以前のレヴェルにあるわけです。

その上で、筆者が唱える戦略についても、よく理解し、活用していくことが求められるのではないかと考えます。


国家の関与しない時代は来るのか


個人的な話ですが、この本の前に、ジョセフ・ナイの「国際紛争」を読んでいまして、そこでリベラリズム的、あるいはコンストラクティビズム的な方向で、国家主体が絶対的な存在であるウェストファリア体制は終わったみたいな内容を読んでいたのですが、真逆の方向性なのに結論が同じで、ちょっと笑ってしまいました。

さて、本当にこの方向になるのかという点についてですが、私はまだ半信半疑です。技術革新は、様々なコストを低下させて来たために、個人あるいは非国家主体の組織でも、場合によっては国家と肩を並べるだけの軍事力や影響力を得ていることは、本書にもある通り事実です。

しかし、どの程度国際政治という分野で影響があるようになるかというと、それは別の話になるのではないかと考えています。確かに技術革新は、個人あるいは非国家主体の組織の能力を底上げしたと思いますが、一方で国家主体の能力も同様に、あるいはそれ以上に向上させたのではないでしょうか。例えば、支那共産党の独裁体制は、新しい技術を徹底的に活用しています。つまり、個人あるいは非国家主体の組織の能力が技術革新で高まったからといって、同じかそれ以上に国家主体の能力が高まれば、影響力は変わらないどころか、下がる可能性すら考えられるということです。


もう一つ、筆者が例に出している事例は殆どが第三世界のそれです。正直なところ、確かにアメリカは負け続きでしたが、ヴェトナムやアフガン、イラクで負け続けたことで、米国の覇権体制が揺らいだのかというと、それは違うと思います。戦費をドブに捨て、多くの若者を失ったことは重大ですが、そもそもやらなければそれで済んだ話であって、大局からすると意味が無いのではないか。これは、主にリアリズムの論者から出る話です。

問題はこれを支那や露国のような、覇権に対して挑戦する側の国が、有効活用していることであって、それはまさに国家が関与しているわけです。筆者が指摘するような、傭兵ビジネスやお金のための兵士というファクターは重要ですが、これは紛争レヴェルの話であり、戦争の主体がそれに置き換わるというのは過大評価、あるいはミスリードと考えます。

第三世界ではそのような戦いが増えるかもしれません。しかし、これらの国ではそもそも国家としての能力が大きく劣り、国際政治という分野で議論になる国家主体とは、形式的に(あるいは国連の1票という意味で)は同じ国家ですが、実態は全く違う存在であり、この構図は別に新しいものではないのです。

戦争とは何か、国際政治のアクターは何かということへの見方が変われば、また違う考えになると思いますが、現時点で国家主体が確立している大国、先進国においては、あまり重要な論点ではないと思います。これは本書が与える示唆が重要ではないという意味ではなく、本書の結論がそうであるということです。


本書から学ぶべきこととは


私見ですが、この本は所謂国家主体の間で行われる「戦争」というより、「紛争」について大きな示唆を与えます。また、覇権国に対する挑戦国(支那・露国等)は、通常戦を仕掛けることは困難(軍事力での正面衝突はリスクが高い)ことから、彼らの手段を考察・理解していく上でも役立つと思います。

そして、第三世界の紛争を解決する方法を考える上でも(私の興味ではないので詳しくは触れませんでしたが)、意義があるのではないでしょうか。特に、市場原理と結びついた傭兵の存在は、停戦を難しくするからです。イデオロギーと並んで、厄介な戦争になることは間違いないと思います。傭兵は平和な世界では存在意義がなくなってしまうからです。ある時は警備部隊に、ある時はテロリストに、ある時は大国の軍事力の一部として、マルチに活躍する存在は確実に紛争を複雑化させます。このような事態に対する解を求めていくことも、21世紀の課題の一つになるのではないでしょうか。