前編からの続きです。
第九編
古の時代より有力の人物、心身を労して世のために事をなす者少なからず。今この人物の心事を想うに、豈衣食住の饒かなるをもってみずから足れりとする者ならんや。人間交際の義務を重んじて、その志すところけだし高遠にあるなり。今の学者はこの人物より文明の遺物を受けて、まさしく進歩の先鋒に立ちたるものなれば、その進むところに極度あるべからず。今より数十の星霜を経て後の文明の世に至れば、また後人をしてわが輩の徳沢を仰ぐこと、今わが輩が古人を崇むがごとくならしめざるべからず。概してこれを言えば、わが輩の職務は今日この世に居り、わが輩の生々したる痕跡を遺して遠くこれを後世子孫に伝うるの一事にあり。その任また重しと言うべし。この場合における「人間交際」とは社会のことを指します。
衣食住が足りるということで満足せず、社会に対する義務を重んじて高遠を目指す。そのような先賢から、今の人間は「文明の遺物」を受け取っている立場なわけです。
だとすれば、今の人間は、将来の世代に対し、我々の世代のものを残し、伝えていくという重大な責任があるということです。
しかし、現代社会を見ると「文明の遺物を受け取っている立場」であることを自覚している人はどれだけいるのでしょう。筆者が批判する武士のように、巻き上げた税金は当然のものとして受け取っている、それと現代人はどこまで違うのか。いや、さほど違わないのではないだろうかと思う次第です。
第十一編
されどもよく事実を考うれば、政府と人民とはもと骨肉の縁あるにあらず、実に他人の付合いなり。他人と他人との付合いには情実を用ゆべからず、必ず規則約束なるものを作り、互いにこれを守りて厘毛の差を争い、双方ともにかえって円く治まるものにて、これすなわち国法の起こりし所以なり。この章は第八章の続きに該当し、身分制度(名分)を論じる内容です。
アジア的というか儒教的な身分制度の批判で、君主と臣民を親子関係の如く扱う発想を、政府とその人民は、親子ではなく他人であるから、そこに親子の情を前提としたやり方は致命的に間違っていると喝破しています。
朝鮮人がとく、支那を父・日本を弟などとする気色の悪い言説をしていたりしますが、それはやはり自然の摂理に反するものであり、子供が小さい保護されるべき存在である一時期という例外でしかない、親子の情を国の統治や果ては外国との関係にまで適用してしまうのは、おかしいのではないでしょうか。
そのような固定された上下関係というものが、不正を生むとこの先筆者は続けますが、全くそのとおりであると思います。 上下とした時点で、下からそれを正すということは、非常なエネルギーと犠牲の覚悟が必要になってしまうわけで、そうなれば不正や無能が自然の摂理に反して蔓延ってしまうわけで、これは悪しき制度なのです。
名分とは虚飾の名目を言うなり。虚名とあれば上下貴賤悉皆無用のものなれども、この虚飾の名目と実の職分とを入れ替えにして、職分をさえ守ればこの名分も差しつかえあることなし。すなわち政府は一国の帳場にして、人民を支配するの職分あり。人民は一国の金主にして、国用を給するの職分あり。文官の職分は政法を議定するにあり。武官の職分は命ずるところに赴きて戦うにあり。このほか、学者にも町人にもおのおの定まりたる職分あらざるはなし。 しかるに半解半知の飛び揚がりものが、名分は無用と聞きて、早くすでにその職分を忘れ、人民の地位にいて政府の法を破り、政府の命をもって人民の産業に手を出だし、兵隊が政を議してみずから師を起こし、文官が腕の力に負けて武官の指図に任ずる等のことあらば、これこそ国の大乱ならん。自主自由のなま噛りにて無政無法の騒動なるべし。名分と職分とは文字こそ相似たれ、その趣意はまったく別物なり。学者これを誤り認むることなかれ。そして、筆者は名分(身分制度)は無用だが、職分は重要であり、そこを勘違いしてはならないということを説いています。
ここの注目点一つは、昭和に入って大東亜戦争まで突っ走った日本の未来が、事前に警告されていることでしょう(下線部)。 かつての日本が反面教師として見事に証明をしています。
第十二編
ゆえに学問の本趣意は読書のみにあらずして、精神の働きにあり。この働きを活用して実地に施すにはさまざまの工夫なかるべからず。オブセルウェーションとは事物を視察することなり。リーゾニングとは事物の道理を推究して自分の説を付くることなり。この二ヵ条にてはもとよりいまだ学問の方便を尽くしたりと言うべからず。なおこのほかに書を読まざるべからず、書を著わさざるべからず、人と談話せざるべからず、人に向かいて言を述べざるべからず、この諸件の術を用い尽くしてはじめて学問を勉強する人と言うべし。この章は学問の修め方について書かれています。
今風に言うなれば、ただ黙々とインプットを重ねて勉強するだけでは意味が無く、アウトプットも重要であるということです。
このような拙文を書き散らしている私でさえ、単に本を読むだけではなく、ここで吐き出すことで、読むということに対し、単に読むより要点を理解することを心がけたりや面白い点見つけようとしたりすることで、読むことそれ自体が深くなっていると感じますし、アウトプットするということで、書くときにもう一度考えるきっかけになり、本を読み終わった後でも振り返りができる(もちろん、読み直すのがベストですが)という点で、個人的にはわずかなりとも知的レヴェルの向上に意味があるのかと感じているわけです。
世間的には、無知な愚民が知ったかをして書いている雑文、ネットデブリであるかと思いますが。
人の見識を高尚にして、その品行を提起するの法いかがすべきや。その要訣は事物の有様を比較して上流に向かい、みずから満足することなきの一事にあり。ただし有様を比較するとはただ一事一物を比較するにあらず、この一体の有様と、かの一体の有様とを並べて、双方の得失を残らず察せざるべからず。譬えば今、少年の生徒、酒色に溺るるの沙汰もなくして謹慎勉強すれば、父兄・長老に咎めらるることなく、あるいは得意の色をなすべきに似たれども、その得色はただ他の無頼生に比較してなすべき得色のみ。謹慎勉強は人類の常なり、これを賞するに足らず、人生の約束は別にまた高きものなかるべからず。自らの見識を高める方法として、自分以上のものと比較すること、比較する時は特定の一点だけではなく全体を比較することが重要だとしています。
例として、勤勉な学生は、放蕩を繰り返す無頼の輩と比較すれば良いけれど、本来勤勉は人間の常識であるわけで、これでは賞賛に値しないということです。
実際問題、レヴェルの低いものと自らを比較して満足するようになっては、人間は終わりというもので、そこから何も進めなくなるものです。当然、人間は無限に前を進めないものですから、どこかでその小さな満足に拠って生きることを余儀なくされる場面が来るかもしれませんが、見識を高め、学問を修めるという人が、そうであってはいけないのです。
第十三編
また誹謗と弁駁とその間に髪を容るべからず。他人に曲を誣うるものを誹謗と言い、他人の惑いを解きてわが真理と思うところを弁ずるものを弁駁と名づく。ゆえに世にいまだ真実無妄の公道を発明せざるの間は、人の議論もまた、いずれを是としていずれを非とすべきやこれを定むべからず。是非いまだ定まらざるの間は仮りに世界の衆論をもって公道となすべしといえども、その衆論のあるところを明らかに知ることはなはだ易からず。ゆえに他人を誹謗する者を目して直ちにこれを不徳者と言うべからず。そのはたして誹謗なるか、または真の弁駁なるかを区別せんとするには、まず世界中の公道を求めざるべからず。
この章は言論の自由の重要性を説いています。
誹謗と弁駁(反対)とはわずかな違いしかなく、真実がわからない間においては、世の中の大勢を持って正とするにしても、それはすぐわかるものではなく、他人を誹謗したからといってすぐに不徳とするのではなく、不徳か真実かを判別するには、真実がわからなければならないと説きます。
勿論、これは知的な学問上の問題に関してという但し書きの元でありますが、簡単にこのような「不徳者」という認定をしてしまえば、言論が萎縮してしまい、特定の正義だけが罷り通るような、封建的な世の中に繋がる可能性が高いと言う意味で、重要です。
ひとり働きの素質においてまったく不徳の一方に偏し、場所にも方向にもかかわらずして不善の不善なる者は怨望の一ヵ条なり。怨望は働きの陰なるものにて、進んで取ることなく、他の有様によりて我に不平をいだき、我を顧みずして他人に多を求め、その不平を満足せしむるの術は、我を益するにあらずして他人を損ずるにあり。では、不徳は何かということについて、筆者は怨望がそうだと指摘します。
怨望は、自らを改善するものではなく、他人を見て不平を感じ、他人に過大な要求をしていく・他人の足を引っ張るという性質のものであり、社会にとって有害であるがゆえ、不徳であるということです。
私は今の世の中で、意見の表明を誹謗とみなして、行き過ぎた対応をすることが目立つのが気になります。特にナショナリズムの発露が誹謗として(いわゆるヘイトスピーチなるもの)非難される場面が目立ちます。
しかし、これらはどこまでが真実でどこまでが怨望に該当するものなのか、簡単に判ずることができるものではないと思います。
それを警察や人権委員なる特定の集団、さらには一地方自治体や民間企業が決めるのであれば、それを見逃すことより、遥かに危険なのではないでしょうか。
まずは言論の自由が立ち、実害あれば取り締まるというのが順番だと思いますが、いかがでしょう。
これによりて考うれば怨望は貧賤によりて生ずるものにあらず。ただ人類天然の働きを塞ぎて、禍福の来去みな偶然に係るべき地位においてはなはだしく流行するのみ。昔孔子が「女子と小人とは近づけ難し、さてさて困り入りたることかな」とて歎息したることあり。今をもって考うるに、これ夫子みずから事を起こしてみずからその弊害を述べたるものと言うべし。貧しいかどうかということより、人間の自由が押さえ込まれて、幸福や不幸が偶然によるような場合に、怨望は生じると説きます。として孔子が女子と小人を抑圧していたからこそそうなったわけで、自業自得であるというのが、筆者の主張です。
先ほどの話の続きになりますが、そのように言論の自由を抑えこむということは、怨望が広がるということであり、今欧米などで起きている「ポリティカル・コレクトネス」などは、まさにそうなのではないでしょうか。
第十四編
人生の有様は徳義のことにつきても思いのほかに悪事をなし、智恵のことにつきても思いのほかに愚を働き、思いのほかに事業を遂げざるものなり。この不都合を防ぐの方便はさまざまなれども、今ここに人のあまり心づかざる一ヵ条あり。その箇条とはなんぞや。事業の成否得失につき、ときどき自分の胸中に差引きの勘定を立つることなり。商売にて言えば棚卸しの総勘定のごときものこれなり。(中略)他の人事もまたかくのごとし。人間生々の商売は十歳前後人心のできし時よりはじめたるものなれば、平生、智徳事業の帳合いを精密にして、勉めて損亡を引き受けざるように心がけざるべからず。「過ぐる十年の間には何を損し何を益したるや。現今はなんらの商売をなしてその繁盛の有様はいかなるや。今は何品を仕入れていずれの時いずれのところに売り捌くつもりなるや。年来心の店の取締りは行き届きて遊冶懶惰など名のる召使のために穴を明けられたることはなきや。来年も同様の商売にて慥かなる見込みあるべきや。もはや別に智徳を益すべき工夫もなきや」人間は、よいことをしているつもりで悪事をするし、知的と思っても愚行をし、思うほどのことはできないものであるから、商売における棚卸しのように、人生の棚卸しを定期的に行って点検するようにということです。
棚卸しとはつらいもので、振り返ると人生を無為に示しているなと思うばかりですが、そこで逃げては人生で何も為せないということでしょうか。
世話の字に二つの意味あり、一は「保護」の義なり、一は「命令」の義なり。保護とは人の事につき、傍より番をして防ぎ護り、あるいはこれに財物を与え、あるいはこれがために時を費やし、その人をして利益をも面目をも失わしめざるように世話をすることなり。命令とは人のために考えて、その人の身に便利ならんと思うことを指図し、不便利ならんと思うことには意見を加え、心の丈を尽くして忠告することにて、これまた世話の義なり。世話というと、通常は保護の面が強く、人に何かを与えるといった意味で考えられますが、筆者はそれだけではなく、命令をし、その人に干渉して正しい道へ導くということも重要だと主張しています。
本来、人は自立して生きていくものですが、誰かの世話を要するということは、その人が正しい道を歩んでいない、歩めない状態であることであり、そう考えるとその状態で何かを与えるだけでは不足するばかりか、却って悪化するというのは、理解しやすいかと思います。
また世に貧民救助とて、人物の良否を問わず、その貧乏の原因を尋ねず、ただ貧乏の有様を見て米銭を与うることあり。鰥寡孤独、実に頼るところなき者へは救助も尤もなれども、五升の御救米を貰うて三升は酒にして飲む者なきにあらず。禁酒の指図もできずしてみだりに米を与うるは、指図の行き届かずして保護の度を越えたるものなり。諺にいわゆる「大きに御苦労」とはこのことなり。英国などにても救窮の法に困却するはこの一条なりという。その最たる例として、一つが貧民救済の例を挙げています。現代の生活保護も全く同じ問題をかかえているでしょう。
お金を支給するということに偏重しており、彼らを社会に復帰させるという働きはとても弱いように思います。もちろん、人並みにできないが故にそこまで達したというのも一つ事実であり、お金を与えて放っておく方が効率的だという功利的考えもあるのでしょう。
しかし、そのような不平等を放置することは社会の歪みを拡大させ、目先の利益以上の不利益となって返ってくるのではないでしょうか。
第十五編
然りといえども、事物の軽々信ずべからざることはたして是ならば、またこれを軽々疑うべからず。この信疑の際につき必ず取捨の明なかるべからず。けだし学問の要はこの明智を明らかにするにあるものならん。わが日本においても、開国以来とみに人心の趣を変じ、政府を改革し、貴族を倒し、学校を起こし、新聞局を開き、鉄道・電信・兵制・工業等、百般の事物一時に旧套を改めたるは、いずれもみな数千百年以来の習慣に疑いを容れ、これを変革せんことを試みて功を奏したるものと言うべし。この章は、疑うことの重要性を説いています。
今を疑わなくなれば、変化が生じなくなり、変化が生じなくなれば、進歩が無くなり、進歩が無くなると言うことは、退化することであります。
一方で筆者はその先で、今の変化は全て西洋を無批判に受け入れているものだということを指摘しており、かつてのものを疑うことと同様に、入ってくるものを疑うことも重要だと指摘します。
今の日本も、これほど不全な状態にも関わらず疑いをもって世の中を変革しようとする人が出ないという異常事態が続いています。これは本当に危険なことです。
第十七編
言語を学ばざるべからず。文字に記して意を通ずるは、もとより有力なるものにして、文通または著述等の心がけも等閑にすべからざるは無論なれども、近く人に接して、直ちにわが思うところを人に知らしむるには、言葉のほかに有力なるものなし。ゆえに言葉は、なるたけ流暢にして活発ならざるべからず。近来世上に演説会の設けあり。この演説にて有益なる事柄を聞くはもとより利益なれども、このほかに言葉の流暢活発を得るの利益は、演説者も聴聞者もともにするところなり。この章は人望(人からの信用)が重要であり、人望のある人であれば同じことをしてもそうで無い人より成功するということを説いています。
では、その人望を高めるためにどうするかということで、言葉(弁舌)を学ぶことをあげています。文字として起こすことも重要であるが、すぐに人に伝えるならば弁舌が重要だとしています。
あとがき
前編から期間が空いてしまい、申し訳ありませんでした。
文語調の本文はやはり現代人にとっては読むのが骨が折れ、なおかつそれを咀嚼していく作業は大変であり、間に旅行もあったので遅くなってしまいました。
まだまだ、上手く解釈できていない点やもっと語りたい点もありましたが、一旦公開とさせていただきます。
また、読み返してみて何かあれば、更新する予定です。皆様もぜひお手にとって読んでいただくと世界が広がるのではないでしょうか。