前書き
超がつくほどの有名な本ですが、中身についてはどうかというと、案外これが知られていないもので、「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」という一節が一人歩きしているかの様子です。
果たしてその中身は如何ようなのかというと、洋書の翻訳を交えながら、筆者の思想が伺える本は、明治時代初期の本ながら現代社会の病巣をも厳しく捉えています。(最も社会は殆ど進歩していない、むしろ退化していると考えるべきなのかもしれません)
原文は文語調で書かれ、現代文と同じ言葉ながら解釈・意味合いのことなる部分もあるので、語釈付の講談社学術文庫版を読みました。
現代語訳も存在しますが、訳文は美しくない、訳者による色が出るといった問題があるので、なるべく原著に苦労してでも当たったほうがよりよいのではないかと思います。その上で誤解を防ぐ意味で、語釈を追うのがよいでしょう。
(外国文学は訳書も致し方なしですが、なるべく評判を参考に原著の色を壊さないものを選んでいるつもりではあります…)
少々長くなりそうですので、第八編までを前編として公開します。
この先も引き続き読み進めて行きますので、しばらくお待ち下さい。
少々長くなりそうですので、第八編までを前編として公開します。
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初編
身分重くして貴ければおのずからその家も富んで、下々の者より見れば及ぶべからざるようなれども、その本を尋ぬればただその人に学問の力あるとなきとによりてその相違もできたるのみにて、天より定めたる約束にあらず。諺にいわく、「天は富貴を人に与えずして、これをその人の働きに与うるものなり」と。されば前にも言えるとおり、人は生まれながらにして貴賤・貧富の別なし。ただ学問を勤めて物事をよく知る者は貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人となるなり。いきなり有名な一節の後からの引用ですが、 重視すべき点は、「造られた」その瞬間は上下がなくとも、それ以降には上下があり、それは学問に勤めるか否かであるという点でしょう。
本当に「造られた」その瞬間に上下がないのかと言う点については、遺伝的な問題などがあり、どうにもそうではないようです。科学と言う点ではともかく、人文学としては、天賦人権説は真に迫っているのではないでしょうか。
人間社会をよくしていく上で、己の遺伝的特性や環境を理由に、無知蒙昧や犯罪を正当化されてしまっては困るわけで、人間が動物を超えていくためには必要なことでしょう。
学問をするには分限を知ること肝要なり。(中略)すなわちその分限とは、天の道理に基づき人の情に従い、他人の妨げをなさずしてわが一身の自由を達することなり。自由とわがままとの界は、他人の妨げをなすとなさざるとの間にあり。譬えば自分の金銀を費やしてなすことなれば、たとい酒色に耽り放蕩を尽くすも自由自在なるべきに似たれども、けっして然らず、一人の放蕩は諸人の手本となり、ついに世間の風俗を乱りて人の教えに妨げをなすがゆえに、その費やすところの金銀はその人のものたりとも、その罪許すべからず。この場合の分限とは、義務という感じでしょうか。
学問に限らないとは思いますが、最近は自由を履き違えたものが多すぎます。
筆者にいう条件は、「他人の妨げにならないこと」の範囲で自由であり、単に直接的な妨げだけではなく、「社会の風俗を乱さないこと」もまたそうであると説きます。
現代社会では、前者もあやしいですが、特に後者についての意識が欠如しています。
これは社会とは何か、社会のありようとは何かということを学び、考えることが蔑ろになっており、その前に自由が来てしまっていることに起因するのではないでしょうか。
かかる愚民を支配するにはとても道理をもって諭すべき方便なければ、ただ威をもって畏すのみ。西洋の諺に「愚民の上に苛き政府あり」とはこのことなり。こは政府の苛きにあらず、愚民のみずから招く災なり。愚民の上に苛き政府あれば、良民の上には良き政府あるの理なり。独裁のような政治は、実は民衆は愚劣であることによって起こっているという指摘です。
西洋伝来のものを日本に当てはめた言い方で、やや簡素化されていますが、サミュエル・スマイルズの「自助論」から来ているのではないでしょうか。
これには全くの同意で、日本の政府や企業、エリート層のレヴェルが低いのは、その根底にある民衆のレヴェルが低いのであって、レヴェルの低い指導層が教育を仕切ることで、低レヴェルの再生産といった現象になっているのではないでしょうか。
もちろん、日本にも特定分野で優れた人は、多数生まれています。しかし、それがより良き社会を実現する方向へ進まないことの根底には、民衆の優れたものへの無理解という事実があり、それを愚民と言わずして、何と言うのでしょう。
第三編
貧富・強弱の有様は天然の約束にあらず、人の勉と不勉とによりて移り変わるべきものにて、今日の愚人も明日は智者となるべく、昔年の富強も今世の貧弱となるべし。古今その例少なからず。わが日本国人も今より学問に志し気力を慥かにして、まず一身の独立を謀り、したがって一国の富強を致すことあらば、なんぞ西洋人の力を恐るるに足らん。道理あるものはこれに交わり、道理なきものはこれを打ち払わんのみ。一身独立して一国独立するとはこのことなり。
筆者は、まず一人一人が学問を身につけて独立し、それがまとまって一国が強くなり、道理に合わないものを打ち払っていくことが、一国の独立であると説きます。
つまり、今の日本が米国に依存し、支那や朝鮮、露国といった不道理の言いなりになる様は、すなわち日本人一人一人が独立していないことの証左とは考えられないでしょうか。
国内のことなればともかくもなれども、いったん外国と戦争などのことあらばその不都合なること思い見るべし。無智無力の小民ら、戈を倒にすることもなかるべけれども、われわれは客分のことなるゆえ一命を棄つるは過分なりとて逃げ走る者多かるべし。さすればこの国の人口、名は百万人なれども、国を守るの一段に至りてはその人数はなはだ少なく、とても一国の独立は叶い難きなり。国民が独立しておらず、お上の言いなりになっていると、いざ外国と戦争といった時に、国民が逃げ出してしまい、これではとても戦えずに独立は叶わないということですが、これもまた現代日本と酷似しています。
現実的に、支那・朝鮮との戦争というのは否定しかねる状態になっています。特に今の時点で加熱しているのは南朝鮮との問題ですが、その中で「日本人の独立心のなさ」が見事に露呈している有様です。名は1億人以上いる日本ですが、果たしてその時に戦える人間(別に軍隊のことを指していない)はどの程度いるのでしょう。
そして、それを南朝鮮程度の相手に露呈しているということは、確実に支那や露国といったより危険な敵に伝わり、また今時点で同盟となっている米国や、友好的な他の諸国にも伝わります。単なる外交関係の悪化というよりも、もっと本質的な問題が出ているのではないでしょうか。
第三条 独立の気力なき者は人に依頼して悪事をなすことあり。(中略)禍は思わぬところに起こるものなり。国民に独立の気力いよいよ少なければ、国を売るの禍もまたしたがってますます大なるべし。すなわちこの条のはじめに言える、人に依頼して悪事をなすとはこのことなり。省略した部分には、幕府時代の名目金のことが批判されています。この「依頼」とは、「人の褌で相撲を取る」という感じの解釈がよいようで、現代日本語は意味合いが異なるようです。
普通、「人の褌で相撲を取る」ということは、恥辱なわけですが、独立の精神がなければ、手前の利益のために何でもするということです。そして、そのような人は簡単に国を売ると説きます。
恐ろしいことに、筆者の予言(?)は現代社会にも見事に当てはまっており、支那・朝鮮等に技術を売り渡し(というか売ってすら居ないであげている)、日本の強みを無くし、多くの国民から仕事を奪った自称「経営者」とか、あるいは米国に主権を売り渡し、国内に米軍が闊歩し、それにより国民の命が損なわれていたりと、売国に溢れているわけであります。
第四編
あたかも一身両頭あるがごとし。私にありては智なり、官にありては愚なり。これを散ずれば明なり、これを集むれば暗なり。政府は衆智者の集まるところにして一愚人の事を行なうものと言うべし。個人として優れた人が、役人としては愚かになったり、あるいは優秀な人を集めて組織にすると愚かな行動を取ったりということを指摘しています。
これもまさに、現代の官僚組織なり企業組織が抱える問題そのものであります。
この問題について、この先で筆者は色々と検討していくわけですが、現代ではどうでしょうか。
わが輩まず私立の地位を占め、あるいは学術を講じ、あるいは商売に従事し、あるいは法律を議し、あるいは書を著わし、あるいは新聞紙を出版するなど、およそ国民たるの分限に越えざることは忌諱を憚らずしてこれを行ない、固く法を守りて正しく事を処し、あるいは政令信ならずして曲を被ることあらば、わが地位を屈せずしてこれを論じ、あたかも政府の頂門に一針を加え、旧弊を除きて民権を恢復せんこと方今至急の要務なるべし。今までの問題に対する筆者の解決策といえる部分がここでしょうか。
政府が上から指導するのでもなく、愚民が自らよくなるのを待つのでもなく、自らの同志が率先垂範していき、国民としての権利を超えない範囲で、政府の意向を受けずに、議論をしていくことや、政府から不利益を被ったならばお灸をすえるなどをしていくことだそうです。
しかし、現代から見るとこれは、残念ながら失敗したと言わざるを得ません。
愚民を力で抑え込めば、権力に媚び諂う結果。より愚劣になっていくということは、指摘として正しく、そして愚民は自ら賢くならないから愚民なわけで自ら知識をつけていく可能性というのは極めて低いものです。その愚民を社会に貢献し、有益な存在にするというのは、永遠のテーマなのではないかと思います。
二にいわく、「政府、人に乏し、有力の人物、政府を離れなば官務に差しつかえあるべし」と。答えていわく、けっして然らず、今の政府は官員の多きを患うるなり。事を簡にして官員を減ずれば、その事務はよく整理してその人員は世間の用をなすべし、一挙して両得なり。ことさらに政府の事務を多端にし、有用の人を取りて無用の事をなさしむるは策の拙なるものと言うべし。かつこの人物政府を離るるも去りて外国に行くにあらず、日本に居て日本の事をなすのみ、なんぞ患うるに足らん。第四編は官僚学者の多い明六社というところで行われた講演を元にしたもので、そこで出た質問の一つとそれに対する回答です。
今の官僚機構に対し、言うべきことと全く同じなので、引用します。
省庁が自己防衛や自己権益のために、仕事を増やし、無駄な規制・規則が溢れかえるということは、単にその規制・規則によって新しい芽が摘まれるということだけではなく、そもそも優秀で、民の世界で社会に対し貢献できる人が、さほど重要でないようなことを行い、さらに自己の能力を悪用して自己の防衛や権益拡大に励むという、負のスパイラルに陥るのです。
第六編
「かの文部省にて定めたる私塾教師の規則もいわゆる御大法なれば、ただ文学・科学の文字を消して語学の二字に改むれば、願いも済み、生徒のためには大幸ならん」と再三商議したれども、結局のところ、このたびの教師を得ずして社中生徒の学業あるいは退歩することあるも、官を欺くは士君子の恥ずべきところなれば、謹んで法を守り国民たるの分を誤らざるの方、上策なるべしとて、ついにこの始末に及びしことなり。もとより一私塾の処置にてこのこと些末に似たれども、議論の趣意は世教にも関わるべきことと思い、ついでながらこれを巻末に記すのみ。この章は、政府は国民の名代であり、国法を犯すことは自らが決めた法を犯すことと同義であるという内容です。その部分については、目新しさがないので省略しますが、福澤の慶応義塾で政府の不合理な規則があり、「雇い入れようとした外国人は、本国で教師の免状が無いと認めない。但し語学目的は除く」となっていました。名目を「語学」とすれば、その外国人を雇うことは出来たものの、信に従い断念した次第です。
筆者は些事として「ついでに」記していますが、言うは易くても現実に行動することは難しいだけに思うところがあり、抜粋します。
第七編
いま世間にて政府に関わることを公務と言い公用と言うも、その字のよって来たるところを尋ぬれば、政府の事は役人の私事にあらず、国民の名代となりて一国を支配する公の事務という義なり。右の次第をもって、政府たるものは人民の委任を引き受け、その約束に従いて一国の人をして貴賤上下の別なくいずれもその権義を逞しゅうせしめざるべからず、法を正しゅうし罰を厳にして一点の私曲あるべからず。この章は国民の義務や責任について論じた章です。その中で、主人公としての国民の責任について、公務・公用とは何かを触れたものです。
前段には、商社(現代で言う会社)の例もありますが、名代としての責務が書かれています。
政治家や官僚が、公務・公用に関わっていますが、彼らにこのような意識はあるかといえば、間違いなく無いでしょう。国民の名代という地位を、自らの特権と勘違いしているからです。そしてその地位の維持のため、その地位に着かせてくれる特定の人・団体に従うわけです。これを果たして「国民の」名代と言えるのでしょうか。
正理を守りて身を棄つるとは、天の道理を信じて疑わず、いかなる暴政の下に居ていかなる苛酷の法に窘しめらるるも、その苦痛を忍びてわが志を挫くことなく、一寸の兵器を携えず片手の力を用いず、ただ正理を唱えて政府に迫ることなり。以上三策のうち、この第三策をもって上策の上とすべし。理をもって政府に迫れば、その時その国にある善政良法はこれがため少しも害を被ることなし。その正論あるいは用いられざることあるも、理のあるところはこの論によりてすでに明らかなれば、天然の人心これに服せざることなし。(中略)静かに正理を唱うる者に対しては、たとい暴政府といえどもその役人もまた同国の人類なれば、正者の理を守りて身を棄つるを見て必ず同情相憐れむの心を生ずべし。すでに他を憐れむの心を生ずれば、おのずから過ちを悔い、おのずから胆を落として、必ず改心するに至るべし。
では、そのような暴政にどう対応するのか、少し長い引用ですが、「正しいことを政府に提言する」ということになります(ちなみに上策とされない2案は、面従腹背と暴力革命です) 。
筆者のいうポイントとしては、どんな悪政にもよい部分はあり(無ければ存続できないはず)、そのよい部分を残しつつ、悪い点を改めさせることができるということと、省略した部分は暴力で対抗するとより苛烈な統治が始まるからということです。
理論としては、正しいのですが、現実性としてはいかがなのでしょうか。
私には「静かに正理を唱うる者に対しては、たとい暴政府といえどもその役人もまた同国の人類なれば、正者の理を守りて身を棄つるを見て必ず同情相憐れむの心を生ずべし。」とは思えないのですが。
実際、筆者の思想は正しさを持っていましたが、日本の国民性を変えるに至らなかったわけです。皮肉にも、それ故に現代人にも多くの示唆を与えるものになっています。
チャーチルの発言「民主主義は最悪の政治形態らしい。ただし、これまでに試されたすべての形態を別にすればの話であるが。」に通じるような気がしています。面従腹背や暴力革命といった、これまで試されてきた方法よりは、正しいことを議論していくことや自ら範を示すといった筆者の実現方法はよいかもしれないけども、結局実現できないという意味では「最悪の方法」には違いがないのでしょう。
第八編
この孝行の説も、親子の名を糺し上下の分を明らかにせんとして、無理に子を責むるものならん。されども子を生みて子を養うは人類のみにあらず、禽獣みな然り。ただ人の父母の禽獣に異なるところは、子に衣食を与うるのほかに、これを教育して人間交際の道を知らしむるの一事にあるのみ。しかるに世間の父母たる者、よく子を生めども子を教うるの道を知らず、身は放蕩無頼を事として子弟に悪例を示し、家を汚し産を破りて貧困に陥り、気力ようやく衰えて家産すでに尽くるに至れば放蕩変じて頑愚となり、すなわちその子に向かいて孝行を責むるとは、はたしてなんの心ぞや。
この章は人間の自由について書かれた内容で、「人間は他人に干渉しない限り自由」というのに反する悪習として、前段では男尊女卑や一夫多妻への批判でしたが、抜粋の箇所は孝行に関するものです。より現代的なテーマとしてここを抜粋してみました。
親が子供を養うのは当然のことであり、人間ならそれに加えて「人間交際の道」を教育することであると。しかし、子供に孝行を教養し、自分は放蕩放題とあっては、おかしいではないかということです。抜粋した部分以外には、古代支那の「二十四孝」を批判していたりします。
個人的には孝行というものが、何か道徳として正しいようになり、道理を曲げてしまうようなことになってはいけないと思います。筆者が批判する二十四考などは間違いなくそうでしょう。
心がけとかそういう処世術レヴェルの考えとして、孝行のように年長者を敬っておけば、世渡りに得である程度の認識であれば、いいのだと思います。
しかし、社会全体がそうなるというのは難しいもので、年齢や学年が1つ上であるとか、1年長く仕事をしているといった些事でさえ、上下をつけたがる人間の醜いところが、世の中には溢れています。
(続く)