2019年4月27日土曜日

ソクラテスの弁明・クリトン(プラトン著)

ソクラテスの弁明・クリトン
自己の所信を力強く表明する法廷のソクラテスを描いた「ソクラテスの弁明」、不正な死刑の宣告を受けた後、国法を守って平静に死を迎えようとするソクラテスと、脱獄を勧める老友クリトンとの対話よりなる「クリトン」。ともにプラトン(前427‐347年)初期の作であるが、芸術的にも完璧に近い筆致をもって師ソクラテスの偉大な姿を我々に伝えている。


はじめに


ソクラテスの名を知らない人は、殆どいないかと思いますが、古代ギリシャの哲学者で、当時の伝統できな思想ながら、現代まで通じるものがある傑出した人物です。
しかし、ソクラテス自身は著述をしていないので、弟子の一人であるプラトンの著したものが有名です。
その中で今回は、岩波文庫から出ている「ソクラテスの弁明・クリトン」の中身を紹介しつつ、考察を加えていきたいと思います。
本自体は短編で手に取りやすく、裁判にかけられる様子、そしてクリトンに脱獄を進められた時の様子が美しく読みやすい文章で書かれていますので、実際に一読されることを進めます。


ソクラテスの弁明


あらすじ


中身を読み解く前に、簡単なあらすじを説明しておきたいと思います。
ソクラテスは、自分が最も賢人であるという神託を受け、それが事実なのかということを知るために、当時賢人とされていた政治家や詩人、手工者を訪問し、対話(というかわかりやすくいうと論破に近い印象を受ける)をし、彼らが知らないことを知っているように振舞うところを見て、自らの優位性を悟って活動にのめりこんでいきました。
その結果として、恨みを買うことになり、裁判にかけられることになります。


内容


とにかく俺の方があの男より賢明である。なぜといえば、私達は二人とも、善についても美についても何も知っているまいと思われるが、しかし、彼は何も知らないのに、何かを知っていると信じており、これに反して私は、何も知りもしないが、知っていないかぎりにおいて、あの男よりも智慧の上で少しばかり優っているらしく思われる。

これが有名な無知の知に該当する部分でしょうか。
賢者と言われている政治家と対談をしたときにソクラテスが感じたことです。
何も知らないことをさも知っているかの如く語るよりも、知らないことを自覚する方が、少しばかり賢いという。言ってしまえば当然のことであるのですが、人間の見栄などにより、それを自覚して行動するということは、案外できないものであります。

彼らは実際私の知らぬことを知っていた。この意味においては彼らは私よりも智者であった。とはいえ、アテナイ人諸君、私には、これらの良き手工者もまた詩人と同様の過誤に陥っているように見えた。思うに、彼らは皆、その業とせる技芸に熟練せる故をもって、他の最も重大な事柄に関しても最大の識者であると信じていた。しかも彼らのこの謬見が彼らの具えていた智慧に暗影を投げていたのである。(中略)自らあるがままにあるのと、彼らのもつところを二つながら併せ持つのと、私はいずれを選ばんとするか、と。そこで私は、私自身と神託とに対して、自らあるがままにある方が私のために好い、と答えたのであった。

続けて今度は手工者について。当然、ソクラテスは手工者ではないので、彼らの持つような技術は持っていないわけです。
その部分でだけ言えば、彼らより智者かもしれない。しかし、ある特定の部分を知っていることを持って、他のことについても同様だと考えることは誤りであり、そのような誤りを持つのであれば、あるがまま(知らない状態)の方が好いとまで言っています。

現代で考えると、世の中色々なことが細分化・専門化しているわけで、「専門家」という人種が雨後の筍の如く出現しています。そんな時代だからこそ、「他の最も重大な事柄に関しても最大の識者であると信じて」いないことをきちんと確認することが肝要なのではないのでしょうか。有害な似非専門家を排除し、無知を悟れる本当の専門家を育てていくことも大事です。

死を恐れるのは、自ら賢ならずして賢人を気取ることに外ならないからである。しかもそれは自ら知らざることを知れりと信ずることなのである。思うに、死とは人間にとって福の最大なるものではないかどうか、何人も知っているものはない。しかるに人はそれが悪の最大なるものであることを確知しているかのようにこれを怖れるのである。しかもこれこそまことにかの悪評高き無知、すなわち自ら知らざることを知れると信じることではないのか。

ソクラテスが死刑について述べた部分です。
先ほどの話からすると、人間は死に際して、そして死後のことを何一つ知ってはいませんが、本能的に動物として死を恐れます。
しかし、本当の賢人は、死は未知のことであるから、知らないことは怖れないのです。

理屈として正しくとも、実践するのは難しいわけですが、死に瀕している人と対面する時、それは本当に怖れるものなのか考えてしまう問題であります。

哀願によって赦罪を得るが如きは、私には正しくないと思われる。けだし裁判官がその席にあるは、情実に従って公正をを一種の恩恵として与えるためではなくて、事件を審理するためだからである。また彼はお気に入る者に恩恵を施す如きことなく、国法に従って裁判することを誓言しているのである。したがって私達は諸君にその誓言を破るような習慣をつけさすべきでもないし、諸君もまた自らそんな習慣をつけるべきでもない。それは我々双方にとって敬虔な行為とはいえないからである。

判決がでたあとに、死刑に反対したものたちに対し、恩赦のようなものは乞わず、不要であるときっぱり宣言した部分です。
ソクラテスが国法を尊重し、不合理とも思えるような裁判で死刑になっても、その考えを捨てずに正義を貫いた。このような部分が、時代を超えて、彼の思想が残っている要員なのでしょうか。

私は、弁明の際にも身に迫る危険の故にいやしくも賤民らしく振舞うべきではないと信じていたし、今でもそういう弁明の仕方をしたことを悔いない。むしろ私はかくの如き弁明の後に死ぬことを、そんなにまでして生きることよりも、遥かに優れりとする。何となれば、法廷においても戦場におけると同様に、どんな真似をしてでも死を脱れんと図ることは、私も、また他の何人も、なすまじきことだからである。(中略)どんな危険に際しても、もし人がどんな事でもしたり言ったりするつもりでさえいるならば、死を脱れる方法はなお他にいくらでもあるのである。否、諸君、死を脱れることは困難ではない。むしろ悪を脱れることこそ遥かに困難なのである。それは死より疾く駆けるのだから。

そして最後の言葉として、死刑を免れる方法はいくらでもあるが、悪を免れることは困難だと宣言して終わります。
戦場ならあっさり死んでしまう現代ですが、日本の法廷で考えても何をしてもよいとすれば、やはり死刑を逃れる方法はあって、実際そのような犯人は多数居ます。
冤罪で正義の人が死刑の可能性が出るというのは、現代社会においてあまりイメージのできるものではありませんが、何事も最後に人間性が出るものだなと私は思います。
死に際してというのがイメージとしては強力ですが、そうでなくてもちょっとした話や文章の終わりにも出るものです。だからこそ、死刑が決まったソクラテスがこれを述べるというのが、賢者の賢者たる所以です。

このように抜粋してしまうと、情景がイメージしずらいのですが、ソクラテスの生き方・考え方というのが、裁判を通じて見えてくるという点において、実に優れた文章であることが一端から伺えないでしょうか。


クリトン


あらすじ


死刑が決まったあと、それが執行される前のソクラテスに対し、老友のクリトンが脱獄をして、アテナイから逃れることを提案します。
それに対し、ソクラテスがきっぱりと断り、国法によって死ぬことを語る場面です。

内容


僕はむしろ多衆が最大の禍害を加え得るものであってくれればいいと思う。そうすれば彼らはまた最大の福利をも加え得るわけだからね。それなら結構な話だろうよ。ところが彼らはどちらも出来ないのだ。彼らには人を賢くする力も愚かにする力もない。彼らのすることは皆偶然の結果なのだよ。

クリトンからもう少し大衆の意見も顧慮しておけばよかった、大衆は場合によってはとても大きな禍を起こすものだとソクラテスに対し言った場面でのソクラテスの回答です。

私は大衆の反逆を読んで大衆の本質について考えましたが、既に古代ギリシャの時代に、その本質を述べられていたとは驚きました。
大衆レベルの人間の動きというのは、統計的に見れば大きな動きにはならず、いわゆる「ランダムウォーク」といったものに過ぎないのではないかという考えは、頭のどこかにはあったのですが、まさにそれを喝破しているのです。

われわれ(注:国法のこと)やわれわれの国家に満足していた。これほど断乎としてお前はわれわれを択び、またわれわれに従って市民生活をすることに同意して来たのだ。(中略)あの裁判の途中には、まだ追放の刑を提議することも出来たし、また今お前が国家の意思に逆らってしようとしていることも、あの時ならばその同意を得て実行することができたのだ。しかるにあの時お前は、死ななければならぬことになってももがきはしないと高言を吐き、むしろ追放よりも死を選ぶといったのだった。ところが今はこれに反して、前言にも恥じず、われわれ国法を無視してこれを滅ぼそうとしている。自ら市民として遵守するとわれわれに誓った契約や合意に背いて逃亡しようとしているお前は、最も無恥な奴隷でもしそうな振る舞いをするのだった。
クリトンからの脱走の進めに対し、ソクラテスが国法と対話したとして、脱走しないことを決意するまでの過程の一部です。
抜粋するのが難しいので正直全文読んでいただきたいのですが、国法との対話という形で、一度それを怖れずに死刑判決となったにも関わらず、脱走しようとすることの恥を示しています。