2019年1月31日木曜日

20180130:赤31、赤01

寒いと出かけなくなるのが人情ではありますが、久々に乗りバスっぽいことをしました。
健康診断で採血という苦行を乗り越え、帰るには早い時間、大通りを爆走する(かもしれない)バスに乗ってきました。
今回も写真無しです。

関東バス 赤31系統 高円寺駅北口~赤羽駅東口


まずは関東バス最長距離で有名な赤31系統。
杉並、中野、練馬、板橋、北と5区の環七通りを走ります。
このバスは、環七が交通量の割りには、立体交差が整備されているためか流れるために、自然とバスも飛ばします。もちろんここは関東バスを指名で乗るわけです。(別に国際興業便に乗ると飛ばさないわけではないと思う)
なお、始発・終着近辺を除く環七エリアは、都営バス王78と区間は同じです。並走するとスピードバトルするとかしないとか。

手狭な高円寺駅のロータリーから定刻よりやや遅れて入線し、すぐに発車します。
すぐに環七通りに出て北上を開始、早速早稲田通りとの大和陸橋を本線へ。この関係で大場通りは、高60と違い通過します。

その先は西武新宿線の野方駅。ここも立体交差です。宿05などは駅近くまで行きますが、赤31は、野方駅入口も北口もどちらのバス停も遠いので注意です。
新青梅街道との丸山陸橋も本線へ、越えるとまもなく練馬区へ。
引き続き、立体交差は本線へ入って快適な運転が続きます。

それにしても幹線道路沿いとはいっても、郊外ならば殆どロードサイド店とかが占めるわけですが、都心の中だと住宅・マンションや小規模なビルが多いので、(個人的には暮らしたく無い環境ですが)都会は大変だと思うわけです。

西武池袋線を越えると、新桜台駅の下にある、羽沢というバス停があります。
理由はよくわかりませんが、ここから結構な人数が乗ってきました。
この駅から電車に乗ると、西武とメトロの初乗りが乗って割高になることがあったり、何かのはずみで直通運転が止まると、この駅だけ電車が来なかったりと不遇というか不便というかなので、バスもよいのかもしれません。
赤31で始発終点を除くと、一番駅アクセスがまともなのも、羽沢=新桜台駅な気がします。

武蔵野病院で板橋区へ入ります。なお、ここから少し歩くと小竹向原駅につきます。
その次の小茂根のバス停までが関東バス管轄、次のかみのね橋から国際興業管轄になります。

管轄が変わったから…ではありませんが、この辺りからスピードダウンしてきます。
理由としては、一部のバス停の位置が側道に存在することから、本線を飛ばせなくなるからでしょうか。今回に限っては、少し道路混雑が酷くなってきたのもあります。

南常盤台と中板橋駅入口は、東武東上線の駅の真ん中くらいを通る都合上、どちらも遠いのでアクセスとは言いがたいです。(アナウンスされますが)

側道に入る姥ヶ橋付近で北区へ。京浜東北線を越えるとまもなく左折して赤羽駅です。
残念ながらかなり駅から遠い降車場で放り出されてしまうので、ちょっと不便です。
しかし、大量の国際興業バスと少しの都営バスの中という緑過多?の世界に、ド派手な関東バスが割り込んでくるのですから目立ちますね。


国際興業バス 赤01系統 赤羽駅西口~練馬駅


その遠い東口降車場から、西口の外れの坂上にあるバス停へ、5分以上かけて移動します。
赤01系統は、環八通りを爆走はあまりしてくれませんが、走って練馬駅まで行く比較的長距離の路線です。

発車すると坂を上り、左折して「赤羽台坂下」というバス停が。
つまり、また登ります。登った先の交差点を右折し、東京北医療センターという大き目の施設を過ぎると環八通りへ左折します。
ここから練馬春日町までは真っ直ぐ進みます。

環八へ入ってまもなく板橋区に入ります。
ただ、環八は環七ほど立体交差が進んでいないのと、あっても殆ど側道へ行くため、結局1車線の道を進んでいるのと同じになってしまい速度が出ません。

利用者はというと、前に赤02の成増駅行が途中まで居たため、正直多いのかどうかはっきりせず。単独区間になると、そこそこ乗ってきます。

板橋区に入ってすぐに小豆沢という場所があり、ここにはマンションの他に郊外型の店舗があり、乗ってくる客が(前のバスに)多いようでしたが、こちらを選んでくる客は居ないまま発車します。

志村三丁目駅は駅から少し距離があるために、存在は見えませんが、(前のバスに)乗ってくる客は居ました。その次の志村四中で赤02系統と別れます。

その先で首都高速5号線の下を通りますが、直後に狭い側道へ入り、バス停二つを過ぎます。
東上線はトンネルで下に潜って抜けます。ここは一瞬快走しますが、直後の国道254号との交差点は、側道へ。ここはかなり時間をロスしますが、ここには国際興業バスの練馬北町車庫があります。
交差点を越えると、右手が自衛隊の駐屯地となり、直後の平和台二丁目で、運転士が交代しました。関東バスでよく見るやつですが、車庫と一つ離れたバス停でやるのは、交通事情によるのでしょうか(交差点が近い)。

自衛隊の駐屯地を過ぎると、まもなく有楽町線の平和台駅へ。
この系統のバス停は少し出口から遠いようです。
その先も側道を通って春日町のバス停を越え、春日町交番西の交差点で左折し、西武バスの練47系統と合流して、練馬駅を目指します。
乗客の大半は練馬春日町で降りたようで、ここからは車内も閑散とします。

ここの道はやや手狭です。しばらく進んで右へ急カーブするとまもなく右手にはとしまえんがあるのですが、既に日が落ちた時刻でもあり、見えるのかどうかはわかりません。
千川通りへ出ると、公道上で客を降ろして営業終了し、北口ロータリーには入りませんでした。

またもや放り出される運命(いや、何かあったわけでなく、これが正常運行ですが)。
ロータリーまで歩いて、荻07を拾って帰りました。
2019年1月22日火曜日

安倍総理の露国訪問について

序文


まず結論から申し上げると、一方的な妄信(といっても過言ではない)に近い期待を持って露国訪問をしたことはきわめて残念であり、安倍総理の政治的不見識を自ら公言するに等しい行為だと考えている。

露国は絶対に譲歩しない


所謂北方領土と言われる千島列島南部については、日本側の主張と露国の主張が異なる。
どちらの主張に正当性があるかという問題は専門家に任せるとしても、日本人が実態として理解しておくことは、千島列島全域が露国に占拠されているという事実である。
そして、彼らからすれば、そこは国家の主権が及ぶ領域である。
一般に国家の三要素として、
  • 領域
  • 国民
  • 主権
の三つが挙げられる。国家・政府というのは、(日本以外においては)これを守ることが存在の根源的な意味であることは疑いようが無い。
プーチン大統領が自らの存在を危うくしてまで、譲歩するということは有り得ないのである。

露国にお金を提供してはならない


ということで、本気で報道のあるような二島返還を期待して露国を訪問しているということは、(流石に)ないと考えられる。
すると次に考えられるのが、千島列島の海産資源やその他極東地域の資源や投資などの権益で何らかの利益を得ると共に人的交流を促し、やがて本丸に攻め込むといった(極めて理想主義的な)考えではないだろうか。

これが如何に浅はかかつ危険であるかは、過去のサハリン2含めた数々の歴史が証明している。何処までいっても露国は敵性国家ないしは敵国なのであり、一切の利得を提供してはいけない。食い破られて使い捨てられることは明々白々である。

結論 近隣国との友好という幻想を捨てよ


つまり、露国と交渉して得られるものはないということは、誰にでもわかる。
もちろん、無闇に挑発することが正しいわけではないが、もっと冷徹な関係に徹するべきであるが、平和条約をレガシーとでもしたいのか、足元を見られるように、この問題に深入りする安倍政権には、重大な懸念があり、万が一千島列島南部に対する何らかの譲歩を行った場合、民主党以下の売国奴として歴史に名を刻むと警告したい。

残念ながら日本には、「近隣国との友好」という幻想が外交方針に刻み込まれている。
しかし、実際の日本の近隣国を見てみると、支那・南北朝鮮・露国という世界でも稀に見る危険な国家が密集しており、友好などという甘い言葉では済まない超危険地帯なのである。その中で生きながらえているのは、ひとえに在日米軍の存在と考えられるが、それを認識せず甘い外交に終始する日本国家は非常に危険であると言わざるを得ない。

南朝鮮のレーダー問題で、日本の大衆でさえこのような方針に不信を持ってきた。
むしろ元来、日本人は支那も朝鮮も露国も信用できないと肌感覚は持っているだろう。
今こそ外交の「戦後レジーム」というべき誤った幻想を捨てるべきだ。
2019年1月5日土曜日

陸と海 世界史的な考察(カール・シュミット著)

陸と海―世界史的な考察
海と陸の戦いとしての世界史を描いたシュミット地政学の傑作。ヴェネチア共和国、オランダ、イギリス、米国―海の国の系譜につらなる“海洋国家”日本の針路を考えるための必読書。激動の世界情勢を読み解く地政学的アプローチ。


前書き

著者のカール・シュミットは、ドイツの法学者・哲学者で、ナチス・ドイツのいわゆる御用学者に近い存在であったこともあり評判の悪いところもあるのですが、新聞か雑誌かでこの本が出た時に書評があり、気になったので読もうと思っていました。
内容を概要をまとめしつつ、考察を加えていければと思います。

概要

古代ギリシアか第二次世界大戦まで歴史を通じて、2つのポイントで陸と海を考察していきます。

一つ目のポイントが、陸(ビヒモス)と海(リヴァイアサン)のエレメント(元素)という観点です。

二つ目のポイントしては「空間革命」という概念があります。これは、人間の生が拡張する歴史的なタイミングでは、人間が認識している空間(ラウム)が概念が変化することが伴っており、それを「空間革命」と称しています。
古代ギリシアやヴェネチアの時代は、海洋進出を成し遂げておらず沿岸までのことで、「海戦」も結局は相手の船に上陸して戦うことから、「海の子」にはなっていないとしています。その象徴がヴェネチアのブチントーロと指摘します。

では、本当の海洋生活が始まったのはどこかというと、帆走技術によってガレー船から帆船になり、戦闘が上陸戦から大砲で船を沈めるようになったことと、その船で鯨を世界中で追うようになったことにより、海のエレメントの中で生活する「海の子」になったとします。
そこで、ポルトガル、スペイン、オランダ、フランスと続々海洋進出を果たすわけですが、イギリスはスペインを打ち破ったことや、仏蘭が陸に力を取られている間に、「ヨーロッパ諸民族が築いた遺産」を手に入れ、真の意味で自らを海のエレメントとしたと指摘します。その勝利を「全地球規模の空間革命」と考えます。

この時期に「全地球規模の空間革命」が起こるにあたり、単に遠くまで海洋進出しただけではなく、地球が球体であることや地球が太陽系を回っていること、さらにはその太陽系が広い宇宙の一部でしかないことを、単なる思想ではなく科学的な裏づけのあることとして発見し、空間概念が変革されたことが一つ条件としてあったと指摘します。

イギリスが海洋覇権を握ったことにより、陸と海の分離が為されました。陸上には多数の国家が存在する一方で、海洋は自由であり誰のものでもない、あるいは皆のものであり、国家から離れた存在になります。そこでキリスト教的・ヨーロッパ的な(イギリスの理念)国際法が発展し、この時代の「ノモス」(基本原則)となっていました。
また、陸戦においては国家が作った軍隊同士の戦闘であり、そこで住民が関係することはなかった(攻撃の対象とならなかった)が、海戦になることにより、野戦に該当する海戦よりも、海岸封鎖により経済的ダメージを与えることに遷り変わり、その結果非戦闘員も含めた攻撃となるようになりました。

ここに成立したリヴァイアサンの帝国が変質するのが、産業革命の時代であり、帆船から蒸気船に変わり、「海の子」は機械の操作者になります。海のエレメントと人間の間に機械が挟まることにより、イギリスの本質と海洋支配の核心が暴かれたとしています。

その後第一次大戦期から、飛行機が登場し、空のエレメント(巨鳥)が登場し、陸のエレメントと海のエレメントの関係が変わり、地球のノモスがなくなり、新しいノモスが生まれると結びます。

一方、地政学で有名なマハンについては、新たに生まれた空間概念に背を向け、島国をイギリスからアメリカに読み替えて、古い秩序を留めようとしていると指摘しました。

考察

書籍の内容は、そのぶつかり合いを伝説の生き物(ビヒモス・リヴァイアサン)に例え、歴史上の事柄を織り交ぜながら解説していくストーリーのような体裁であり、難しい学術的な定義をするものではありません。
なので歴史に興味がある人でも読みやすく、却って「シュミット地政学」なんてカバーをつけて、取っ付き辛くしているような感があります。
もちろん、既に西洋史の知識を一定程度持った上で読むことが望ましいです。

この本を読んで感じることは、地政学が陳腐化しているのではないかというところで、シュミットのいうラウムは既に、空や宇宙を越え、サイバー世界まで広がっている現代において、ランドパワー・シーパワーというのは、如何にも古い話なのではないでしょうかということになります。
一方で実態として、ランドパワー(EU・露国・支那)とシーパワー(米・英・日)という構図は、英国が最終的にどちらへ転ぶのかまだわからない中と言えどもあるわけで、一概にもう時代遅れと言い切るのは早計ですが。

本書に戻って考えると、地政学と空間認識は切り離せない関係にあり、現代の国際秩序に対する地政学となると、空や宇宙、サイバーなどの空間をどう認識するかという点が、陸・海以上に重要になってくるのではないでしょうか。
そう考えると、米国の支那に対する処々の制裁を、ディールを求めているなどと訳知り顔で解説するコメンテーターというのは、私は教養を持ち合わせていませんと自己紹介しているようなものであって、宇宙・サイバー空間の新たなリヴァイアサン(支那だけに黒竜とでもしましょうか)が誕生するかという光景をライブで見ているという実情を全く理解できていないということになります。

アメリカは、未だなおその地位を守り続けていますが、次の宇宙・サイバーの世界まで持つのかというのは、やはり気になるところでありますが、少なくとも米国人は、「エレメントの支配者」になることの重要性を理解しているわけで、その点に向けて研究を進めているものでしょう。

翻って、日本のことを考えると暗澹たる気分にならざるを得ないわけです。
敗戦によって戦前と断絶し、地政学は滅びたに近い状況でありますが、その結果(それだけではないですが)として、一切の戦略が失われた国家に成り下がっています。最も、戦前に戦略があったのか、それを生かしたのかと言われれば、前者はともかく後者は絶対にノーとなりますが。
つまり、日本人はまず歴史を振り返り、戦略というものを自らの中で定義しなければ、次のエレメントにどのような方針で臨むかということに答えは出ないのです。
今の若者が未来を悲観しているのは、このような日本の後進性を、知性とは別のもっとプリミティブな意味で察した結果なのではと感じます。

最後に全くの私見を述べるなら、リヴァイアサンは既に海の生き物ではない何かに変容していますが、一方でその根源的な存在定義である、キリスト教的ヨーロッパ的世界観というものはまだ健在なように思います。宗教的なことや欧州連合のことではなく、イギリスがリヴァイアサンとなる過程で成立した、その世界観とそれに基づく体系的な国際関係・法律・哲学というのは、未だに世界を支配しています。その世界の中には、アメリカもイギリスともドイツもロシアも居ます。単一の覇権国としてのそれではなくとも、リヴァイアサンは世界観としてやはり健在なのです。

その中で日本は、非キリスト教国・非西洋であり、西洋の支配を退けながら、一方で西洋を受容し、日本的なものを残しつつ、自発的に西洋化をした稀有な存在であります。
我々は、そのような先人の心意気を無駄にはしたくないものです。
2019年1月2日水曜日

読書について 他二篇(ショーペンハウアー著)

読書について
「読書とは他人にものを考えてもらうことである。1日を多読に費やす勤勉な人間はしだいに自分でものを考える力を失ってゆく。」―一流の文章家であり箴言警句の大家であったショウペンハウエル(1788‐1860)が放つ読書をめぐる鋭利な寸言、痛烈なアフォリズムの数々は、出版物の洪水にあえぐ現代の我われにとって驚くほど新鮮である。

前書き

1800年代ドイツの哲学者、アルトゥル・ショーペンハウアーの「Parerga und Paralipomena」の三篇にあたる本です。
哲学者の本というと読みづらい、わかりづらいというのが一般的な印象ですが、本書は比較的平易な文章で、また本自体も分厚くないのでどなたでも手に取れます。
内容は、文学(小説から評論、哲学まで幅広く文章全般を含む)に対する批評です。
情報や出版物の洪水に埋もれる現代にも通じる内容であり、勉強をしていく人にとって指針となるものです。
その中から私が気になる箇所を抜粋し、考察を加えます。

思索


もともとただ自分のいだく基本的思想にのみ真理と生命が宿る。我々が真の意味で充分に理解するのも自分の思索だけだからである。書物から読みとった他人の思想は、他人の食べ残し、他人の脱ぎ捨てた古着にすぎない。
表現は過激ですが、ショーペンハウアーの一貫した主張は、書物から得た他人の思想を自分のものだと考えるなという戒めです。なので、書物を読んで満足してはいけないということになります。また、現代は思想のコピペが氾濫している印象があり(私がそうではないとは言わないが)、それがオリジナルなのかコピーなのかを見分けることも必要ではないでしょうか。

美しい思想でも、書きとどめておかなければ完全に忘れられて再現不能となるおそれがあり、最愛の恋人も結婚によってつなぎとめなければ、我々を避けてゆくえも知れず遠ざかる危険がある。
思想と恋人が並ぶのがちょっと痛快なのですが、人間は忘れるものなので、文章を書くこと自体は重要なことです。

著作と文体 


まず著作者には二つのタイプがある。(中略)第一のタイプに入る人々は思想を所有し、経験もつんでいて、それを伝達する価値のあるものと考えている。第二のタイプに入る人々は、金銭を必要とし、要するに金銭のために書く。(中略)したがってその文章には明確さ、非の打ちようのない明瞭さが欠けている。
これは現代も変わらずで、異論はないと思うのですが、本当に自分の思想を伝えるためのものと本を売るための本と二種類があります。
本を読むならば、後者に該当する本を如何に読まないかが重要になります。

現在文学が悲惨をきわめているが、その禍根は著作による金銭獲得にある。金銭の必要なものはだれでも机に向かって本を書く。民衆は愚かにもそれを買う。このような現象に伴ってまた言語が堕落する。
良い物を見分けるというのは、言うは易しくとも、実現するのは知者でも難しく、そもそも世の中は大衆が占めているので、悪書が出回り、それによって金銭を得る人がいることで、ループすることを指摘しています。
新書が増え(筆者と違い新書=悪書とまでは言わないが)、さらにネットなどの情報も氾濫する現代は、さらにこの事象が悪化しているように思います。さりとて、執筆に対価を与えないわけにもいかず。読み手は、このような雑文が多数を占めていることを理解することしか手は無いのでしょうか。

そこで我々はできるだけ重大な問題についての創始者、設定者、創案者のものを、あるいは少なくとも定評のある専門の大家のものを読むべきであり、またむしろ古書を求むべきで、古書の内容を手あたりしだい、抜き書きして作成した概説書はひかえるべきである。
先ほどの問題に対する筆者の答えが、これだと思います。
もちろん一つの考えであり、専門の書は手垢がついていないかもしれませんが、一方で噛み砕かれても居ないので、読むことそのものが難しい、或いは読めても内容を正確に理解できないということもあるでしょう。概説書・入門書を読むとしても、定評があり多くの人の目による審判を受けた書を選ぶべきでしょう。(その審判でさえ疑わしい現代ですが……)

新人評論家でもない限り、ある本の激賞や、はなはだしい誹謗に気がつけば、だれでもほとんど機械的にただちに出版会社に思いをはせるに違いない。評論批評が読者のためではなく、出版業者のために行なわれていることは普通なのである。
世の中に転がっている書評の類が信用できないことを喝破しています。
ステマなどの広告が溢れる現代人からすると普通かもしれませんが、これが19世紀に既に指摘され、現代に通じることに感激を受けます。

匿名主義の評論雑誌は、無恥が学識を裁き、愚昧が聡明を裁いても、また悪書を奨めて大衆から金銭と時間を搾取しても処罰されずにすむまったくの無法地帯である。いったいこのようなことが許されてよいのか。匿名こそ文筆的悪事、特にジャーナリズムの悪事一切の堅固なとりでではないか。
先ほどと同じパターンです。匿名がネットに溢れる現代ではなく、既に19世紀にあったということが感激です。現代では、ハンドルネームだろうが、或いは実名だったとしても偽名で書けてしまう時代なので、ますます難しい世の中になっています。

一度考えぬいた明瞭な思想には、ぴたりとした表現辞句も容易に見つかる。人間の力で考えられることは、いついかなる時でも、明瞭平明な言葉、曖昧さをおよそ断ち切った言葉で表現される。
つまり、これが書けないということは、思索が足りないということであり、それは思想だけではなく、我々が書く文章全てに当てはまることです。少なくとも人並みの読書をして文章表現を識っているのであれば、書くべきことへの理解が、すなわち文章能力なわけです。このような長い生活で感覚として理解してきたことも、700円ばかしの本で明快にわかるわけですから、やはり古典というのは優れているのです。

少量の思想を伝達するために多量の言葉を使用するのは、一般に、凡庸の印と見て間違いない。これに対して、頭脳の卓越さを示す印は、多量の思想を少量の言葉に収めることである。
悪書を捨てるための基礎であり、我々が文書を書くときに考えることを示しています。
この短い言葉で、多くの場面で使える深い示唆を与えられるのは、やはり著者の頭脳が卓越しているのでしょう。

主観的であるとは、執筆者が、文章の意味を自分だけで理解して満足していることである。読者は読者なりの理解のしかたで読んでも結構という態度である。(中略)つとめて客観的にすべきである。それには読者をあらぬ方向に走らせぬ文章、著者が考えたことをそのまま読者にも考えさせる迫力ある文章を作らなければならない。
主観的なのが現代(筆者の時代)のドイツ語の欠点とし、主観と客観の違いを指摘しています。執筆とは本来は、読者に何かを考えさせるためのものである点に、筆者は一貫して立っています。この読書メモは、「文章の意味を自分だけで理解して満足している」代物ですが、苦笑。

読書について


 読書は、他人にものを考えてもらうことである。(中略)読書にいそしむかぎり、実は我々の頭は他人の思想の運動場にすぎない。
本書の最も象徴的なワードであり、数々のガイドでも出てくる内容です。
(本書の順番どおりに記載しているため、既に他と重なっていますが、あえて記載します)

読書に際しての心がけとしては、読まずにすます技術が非常に重要である。その技術とは、多数の読者がそのつどむさぼり読むものに、我遅れじとばかり、手を出さないことである。
筆者は、新著を蔑視する傾向が強いので、その点は多少割り引いて考えるところですが、実際のところ「ベストセラー」というものが本当に読む価値があるのか。その「ベストセラー」半世紀、1世紀と時を経ても、まだ真理を残すのか。そう考えて立ち止まることも必要なのだと思います。もちろん、常に最新の情報をアップデートし続けなければならない分野はまた別で、玉石混交の海を泳ぐしかないと思います。そのような場合でも、本書は玉を捜すにあたり、役に立つ示唆を多数与えてくれます。

つねに読書のために一定の短い時間をとって、その間は、比類なく卓越した精神の持ち主、すなわちあらゆる時代、あらゆる民族の生んだ天才の作品だけを熟読すべきである。彼らの作品の特徴を、とやかく論ずる必要はない。良書とだけ言えば、だれにでも通ずる作品である。このような作品だけが、真に我々を育て、我々を啓発する。
筆者の主張は些か過激な部分を含みますが、それにしても現代人は、時代の審判を超えてきた、良書中の良書を読んでいない(その割に浅い自己啓発書やセミナーには金を投じる)ことにより、新しい成長がなかったり、むしろ愚劣になっているのはないかと、私も思うことはあります。

だからこそ、若い時分、それを読む機会が少なかったことを悔やむ部分があります。
もっと学校教育の中で、良書を読むことを指導しなければいけません。多読はいけないので1日1時間とかでも。しかし、それは「教育ビジネス」としては「旨み」がないのか、教育を決めるべき政治側に教養がないからなのか、一向に進むことは気配はありませんし、今後も進まないでしょう。
良書を通じて真の教養を子孫に伝えることもまた人間の務めです。例えば、浅薄な道徳の副読本を配り評価をつけるより、「論語」を読ませてアウトプットさせる、そんな世の中になるべきではないかと思うばかりです。

「反復は研究の母なり。」重要な書物はいかなるものでも、続けて二度読むべきである。それというのも、二度目になると、その事柄のつながりがよく理解されるし、すでに結論を知っているので、重要な発端の部分も正しく理解されるからである。
これも結構できていなくて反省なのですが、本は数よりいかに身につけるかという点では、 全くそのとおりだと思います。
読みたい本は多いけれど、読書習慣の薄さから長時間読み続けるのも疲れるので、(それだけ浅い本しか読んでこなかったし、浅い読み方しかしてなかったということです)次々読んで、このようにアウトプットして終わりにしてしまっているのですが、記憶を深める意味でも反復は大事ですので、よい書は再読を心がけるようにしたいです。(その際思うことがあればまた記事は更新します…たぶん)

終わりに

読書術に関する本というのは、世の中に無数に転がっていますが、読書の本質を喝破しているこの本は、そのような本を何冊並べても得られないような深い示唆を我々に与えます。
古典は現代人にすると読みづらいこともありますが、得られるものは多いので、引き続き読んでいこうと思います。
2019年1月1日火曜日

年頭のご挨拶(皇紀2679年、平成31年、西暦2019年)



皆様、新年明けましておめでとうございます。

昨年度は拙文にお付き合いいただきありがとうございました。
記事を書くことの難しさを日々感じていますが、今年度も少しずつ書いていこうと思いますので、どうぞよろしくお願い申し上げます。

昨年は、自然災害が多く厳しい一年でした。被害に遭われた方には、改めてお見舞い申し上げます。
政治や経済でも転機となるようなことが多く、我が国の行く末に不安が多い時代であります。
新年は息災な年であると共に、今上天皇の譲位、皇太子殿下の即位が無事に行われることを祈っております。

また、参院の選挙の年でもあり、穏健な愛国者が票を投じられるような、実行力があり、穏当な政治へと誘導できる勢力ができることを期待しています。
私が期待する穏健保守の政治とは、

  • 自主防衛への基盤を作ること。(但し。日米安保は維持)
  • 社会不安を減らすために社会保障を見直し、世代間・世代内の不公平を解消すると共に外国人や在外邦人を対象外とすること。
  • 外国人流入(観光・就労問わず)に歯止めをかけると共に、自国の利益にならない外国人を帰国させること。
  • 肥大化した行政・規制を整理し、政府の支出を削減し、新しいビジネスの出現を妨げないようにすること。
  • 先祖子孫に恥じない日本を作るために、学術・文化への投資を行うこと。
  • 敵性国家への経済的な制裁を行い、潜在的な敵国を肥大化させないこと。
ぐらいかなと考えています。
政治だけでなく、経営者・経済界にも愛国心と教養、哲学がないとダメですが、今の世の中には感じられません。

ガセットの「大衆の反逆」から一言。
国家というものは、人間に対して贈り物のように与えられる一つの社会形態ではなく、人間が額に汗して造り上げてゆかなければならないものなのだということである。
正直、あまりにも政治レベルが低く投票したくないと思うわけではありますが、しかしそれで放棄をするのは、自分の首を絞めることで、無い選択肢からも「マシ」なものを選び、このような拙ブログでも発信していくしかないと信じるしかないのです。


末筆ではございますが、皆様のご健勝とご発展をお祈り申し上げます。


皇紀2679年、平成31年
西暦2019年

管理人 らうにー


いらすとや様から画像をお借りしております。