2021年6月23日水曜日

地政学の思考法(ペトロ・バーニョス著)

国際社会を支配する地政学の思考法―歴史・情報・大衆を操作すれば他国を思い通りにできる
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隣国を出し抜き、大衆をコントロールする権力者たちの「16の戦略」とは? 国防・諜報の裏の裏まで知り尽くしたトップレベルの軍事戦略家が、勝ち残る国がやっていること・やらないことを、歴史上の出来事や最新の世界情勢をもとに明かす。 世界はまるで、学校の教室のようなものだ。権力を握り影響力をおよぼす「リーダータイプの子」は、その力をみんなのために使うとは限らない。自分のパワーを誇示し、弱い者や気に入らない子を徹底していじめることもある。 リーダーの周りにいる「取り巻きの子」は、強いリーダーにこびへつらって自分の立ち位置を守る。「いじめられっ子」を残酷にいびるのは、リーダーよりも取り巻きの子のほうだったりする。 リーダーのグループには入らず、べつに権力も望まない「マイペースを貫く子」も存在するが、彼らとは別に「どんな活動にも参加しない子」もいる。彼らはかたくなで、誰かに馬鹿にされたら、思ってもみないような過剰反応する。 さあ、どの国が、どの子だろう?  権力者の偽善とかけひき、カネ、情報、大衆、宗教、善意さえも武器にするしたたかな権力者たち。国際社会のパワーゲームで、これからの世界が地政学的に見えてくる。
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はじめに


支那包囲網が強まる中、今後の国際情勢を考える上で興味深い本ということで買ってみました。

ただ、表題は「地政学」とありますが、正直地政学とは内容が異なります。翻訳本にありがちですが、売れるタイトルを無理やりつけているパターンです。

ちなみに、原題は「How They Rule the World」です。帯には「隣国を出し抜き、大衆をコントロールする権力者たちの16の戦略とは?」とありますが、こちらの方が実態に沿うものです。


概要


まず、国際紛争が絶えない理由について、「権力を保持する物は、地球上どこにいても、どんな手段を用いても、自身の覇権を脅かす他者の出現を妨害する」という基本原則を示します。

その上で暴力がなくならない理由について、暴力に訴えられることへの恐怖が、どんな対外関係においても基本的要素であり、対話が成り立つのは理性的な相手に限るため、教育や礼儀や暴力への対抗手段になり得ないとします。

次に「武器としての経済」として、戦争を含む政治的出来事は、経済によって主導されているとします。グローバリゼーションが進んだことにより、領土の支配だけではなく、市場の征服や先端技術の支配が重要になっており、国家が権力や国際的地位を獲得するのには、既に経済力が軍事力に取って代わったと言います。

このグローバリゼーションについて、英米のアングロサクソンが作り推進してきたものですが、支那がグローバリゼーション及び自由貿易の世界的リーダーとなり、さらにその支配者になることを目指していると喝破します。

このような目的のために、権力者が使う戦術として実例を挙げながら、それぞれの戦略について解説していきます。

そのうち、以下3つの戦略について、特に私が興味をひいたので取り上げます。


ハシゴを蹴り倒す戦略


これは、頂に上りつめるために自分が使ったハシゴをわざと外し、他者が後から続いてこないようにすることです。

この戦略の具体例としては、自由貿易・グローバリゼーションを世界に広めた英国、世界の政治や経済に関わることをすり合わせるG7、安保理常任理事国しか核を持てない核兵器不拡散条約等が当てはまるものとして示されます。


法を歪曲する戦略


「ローフェア」という言葉で言われるもので、定義としては「法律を武器のように使うこと」です。
つまり、合法という庇護のもと、自国の行為を正当化するために、法律を捻じ曲げることになります。

具体例としては、2011年のリビアの介入について、「保護する原則」という具体例を持ち出しながら、介入の真の目的には石油利権があったと指摘します。
この「保護する原則」の定義が不明確であるため、自由に解釈ができるのです。

また、大国が国際法や国際機関に従う意思がないことの一例として、ICCの根拠となったローマ規程に対し、米国、支那、露国等が署名も批准もしていないことが挙げられています。


大衆を操る戦略


スペインの詩人の言葉として「世界はそれを通してみるレンズの色をしている」というものがあり、筆者はその色合いは、読んでいる新聞、見ているテレビ、聞いているラジオによって違い、メディアは客観的な現実とはめったに一致しない「人工的」で打算的な光景を作り出していると指摘します。

その上で、
情報を受け取ることでより賢明になるという愚を犯してはならない。真の知識というものは、疑いを持ち、自分自身で分析することからしか生まれない。情報量が増えれば増えるほど、むしろ無知になる。

警告を発します。

このようにメディアの影響は大きいのですが、その世界のメディアはさらに、それを支配する巨大なコングロマリットがあり、その多くが米国に存在するのです。

具体例として、CNN効果というものがあります。この米国企業24時間世界中の出来事の映像を流し続けることに由来します。このニュースの即時性が、ニュースが何かということを決定するテレビ局によって現実を作り出すことになり、政治活動に影響を及ぼす世論の発生器となるのです。


考察


国際紛争が絶えない理由については、本書と全く同意見です。付け加えることはありません。

権力にしても金銭にしても、物質のように「満ち足りる」という状態がない(例えば食べ物ならば、いくらおいしくてもどこかでお腹一杯になります)ためです。

さらに、持つものがより持つという事が可能であることから、人間の様々な感情を刺激するわけであり、富を求めるという欲望は絶えないのです。

一方で、この欲望を制御する試みというのは、人類史上成功した試しがなく、また欲望が進化と表裏一体である以上、全ての人間が現状維持もしくはそれ以下でよいという合意を取るという、ほぼあり得ない条件の上でしか成り立たないのではないでしょうか。


その次の「暴力への恐怖が基本要素」ということについて、日本の教育は歴史も現実も正しく教えられていないため、多くの日本人は前提として「他者は戦争や破壊を望んでいない」「他者は定められたルールや倫理、規範に従う」と考えているのではないでしょうか。

このようなリベラリズム的発想は、学問の世界では幅を利かせているかもしれませんが、本書の「法を歪曲する戦略」等を見ればわかる通り、全く現実味のないものです。

ネットでまことしやかに語られる朝鮮の諺に「自分の食えない飯なら灰でも入れてやる」というものがありますが、他者は自己の利益の次には、自己以外の利益が減ることを求めるものです。

リベラリズムが主張するような「相互依存」の要素もあるため、闇雲に破壊に走らなくはなっていると思います。また、軍事力の発展により、自己利益拡大及び他者利益の毀損を目的とした手段としては、破壊の規模が大きくなりすぎたということもあるでしょう。

そのため、世界大戦に繋がる事態にはなりにくいかもしれません。しかし、それは反撃で自己の利益が毀損することを恐れるものであって、反撃のリスクが低い場合は、当然相手の利益を減らすために行動に出るのです。

世界大戦が誘発されるリスクが低下したこととは別に、中小規模の戦争が起こる可能性や、さらに戦争以外の方法での闘争は、依然として存在するというより、むしろ高まっているのではないでしょうか。


「ハシゴを蹴り倒す戦略」は日本が全くできなかったことの一つです。高度成長期の経済発展は人口増加が大きい要因を占めていたと言われます。それでも当時に築いた経済的地位や技術的優位性は十分にあったはずです。

それが現状のようになってしまったのは、ひとえに当時の政治・企業指導者の戦略のなさに尽きるわけですが、転落の起因としては、個人的にはハシゴを他国に登られたという部分が多いにあるように感じます。

日本も大戦直後、工業はボロボロだったはずです。そこから這い上がったのは、そもそも基盤があったとか、アメリカが反共の拠点として優遇したとか、色々あるでしょうが、まずはパクリと外国からの投資であったはずです。まずは工場として。次に研究を重ねて、日本にしかできないことが増え、世界にとって不可欠な存在となることで多くの富を集めたのです。

そこでハシゴを蹴り倒しておけば、すなわち技術が盗まれないように徹底し、他国に出す工場は純粋な単純労働や摩擦回避のアリバイだけにし、自由貿易を活用して他国の産業を弱らせ、投資はジャパンファーストとしておけば、日本が這い上がったその道を台湾・朝鮮・支那・東南アジア等に歩まれることはなかったのではないかと思うわけです。

ちなみにもう一つ大きかったと思うのは、ルールチェンジへの対策です。今の世の中で言えば、欧州や支那、米国がEVを掲げています。これは、日本のハイブリッド車に、欧州のディーゼル車では敵わないという面が大きかったのではないでしょうか。もう少し遡れば、ITもそうでしょう。ルールチェンジというのは、提案する側にとっても大変なものですが、それでも他者の牙城を潰し、自己が取って代わる可能性があるとすれば、その可能性に掛けることはあるでしょう。

日本は経済規模の割に、軍事力と外交力を軽視し過ぎていました。吉田ドクトリンは復興期には意義があったかもしれませんが、何十年も持続可能なものではなく、適切な軍事力とそれから生じる外交力を持っておかなかったことが、最終的に交渉力の欠如となり、ちゃぶ台をひっくり返されてしまう事態になったのだと思います。


「法を歪曲する戦略」については、日本人が必要以上に信じている国際法というものが如何に脆いものかということを伝えたく、取り上げました。

日本人が本来はそれを一番自覚しなければならない立場のはずです。原爆投下等の戦争犯罪や極東国際軍事裁判による見せしめ的処罰を始め、連合国の行った「法の歪曲」の犠牲になっているのです。

法律というものが社会において、そして世界において、どのように扱われるものなのかということは基礎教養として理解しておくべきではないでしょうか。なお、私は法学部を出ました、一切この手のことは教えられず、条文解釈ばかりをやって記憶しかありませんが。


「大衆を操る戦略」は、最近の私の関心事項です。人間が直接認知できる能力を大きく超えて、人間社会が拡大している以上、メディアを通して間接的に認識する内容の重要性が高いことは言うまでもありません。

本書にあるように、メディアは権力者が利用する道具として、非常に有用です。さらに、メディアはそれ自身が資本主義社会の中で利益を求める存在でもあります。

この2点から導かれることは何でしょうか。共通点はどちらもより多くの大衆の目に触れることへのインセンティブが働くということです。言い換えると「大衆の見たいものを見せる」ことがメディアの利益になるのです。

逆に言えば、価値ある出来事や真実と言うのは、見せる内容を支配したい権力者にとっても、見せることで利益を得たいメディアにとっても、必ずしも利益にならないのです。

その一方で、メディアとて資本主義社会において、市場と言う枠組みにおける競争から逃れることはできず、卑俗であっても多くの人に見られるものを流すメディアが多大な利益を上げ、正しい真実を流しているものの人目に触れない・避けられがちなメディアは淘汰されるのです。

また、CNNが24時間ニュースを流し続けることで得ているCNN効果なるものも本書では触れられています。これは情報を多く得ることで、自己満足を得たい大衆のニーズを果たし、さらに世界の重大事を常に速報できることで、一種の権威が生まれます。

では、ジャーナリストやメディアの倫理に期待できるのかと言えば、それは全く違うわけです。


先ほども少し触れましたが、リベラリズム的な考え方、つまりルールや規範、倫理等について何故期待できないのかという点を述べて終わりにしたいと思います。

簡単に行ってしまえば、アナーキーな国際社会において生じている権力闘争や、資本主義構造というのは、人間の本能に根差しているからだと考えます。

権力を得ること、お金を稼ぐことは先ほども言った通り、人間の本能です。では、ルールや規範、倫理を守ることは、本能ではないと思います。人間は社会的な生き物であり、他者から承認されることに対する欲求を持っています。承認欲求の一環として、他者からよく見られたいと思えばルールを守るかもしれません。しかし、それは「間接的」なものであります。

これは、対外関係において、暴力に対する恐怖が一番先に来ることと似たようなものです。



こちらの本もおすすめです。


中国の「核」が世界を制す(伊藤貫著)陸と海 世界史的な考察(カール・シュミット著)