2020年5月17日日曜日

中国の「核」が世界を制す(伊藤貫著)

中国の「核」が世界を制す
そのとき、アメリカは「中国の軍事的脅威」から日本を守らない。日、米、中の政治指導者、知識人が日本国民に読ませたくない「禁断の書」。

はじめに


最近米中関係が取りざたされる場面が増えてきました。
今後の展開を考える上で必要と思ったので、かつて国際政治、国際関係、安全保障を学んでいたころの本を読み返していました。
少し古い本(2006年)ではありますが、この本が指摘していたことが、現実のものになっていることやこの考え方を理解しておくことは肝要ということでメモを残しておきます。


あらすじ


筆者はまず国際関係を理解するために、以下のパラダイムを理解すべきとします。
(この辺は改めて説明してみたいと予定しています)
  • リアリスト・パラダイム
  • ウィルソニアン・パラダイム
日本人に理解しやすいのは「ウィルソニアン」の方で、いわゆる「国際法・国際組織、経済の依存性などを重視し、それによって戦争しなくなる」という、いわゆるリベラル的な考え方です。

一方、リアリストは「現実主義」であり、「強制執行能力のある世界政府や世界警察がない時点で、国際法や国際組織に依存するのは現実的ではないとし、バランスオブパワー(軍事力の均衡)を重視する」という考え方です。

筆者はリアリストの考え方に沿っており、アメリカやチャイナの指導者もリアリストの考え方で動いているとし、米中関係の実態を紹介し、日本がどのような防衛をすべきかということを紹介します。


その上でチャイナの戦略を要約すると、
  • 2020年頃まではアメリカとの本格的衝突は避け、現状の有利な国際経済システムを維持する。
  • アメリカに対して、覇権争いをしないという情報戦を行い、アメリカがチャイナ封じ込めを始める時期を遅らせる。
  • 日本に自主防衛能力を持たせない。
  • ロシア・EU・南朝鮮・東南アジアを味方につける。
であると解説しています。
まさに現実のものになりました
では、その目的は何かといえば、「アメリカをアジアから駆逐する」です。
それはつまり、漢民族が19世紀初頭に支配していた中華勢力圏を回復することになります。

これについて興味深いエピソードを1つ。アメリカが入手した、チャイナ政府の内部文書には、「2020~2030年頃に米中関係はもっとも危険な状態になる」と分析されていたそうです。
このあたりで、経済力が均等に達するが、軍事力が総合的上回るのは2030年頃であり、その間にアメリカはチャイナを潰すために厳しい対抗策を実施すると予測していたそうです。

そして、この「台頭」には、歴史上の類似点があります。それは、19世紀ドイツ、ビスマルクの「平和的台頭」という帝国強大化政策です。
上記で要約したチャイナの戦略のうち、上2つはドイツ帝国のものと酷似しています。
その歴史において何が起きたかといえば、欧州のバランスオブパワーが崩壊した結果としての第一次世界大戦です


もう一つ日本人が考えておくべきだと私が思う点に、チャイナの軍人や学者が挙げる、チャイナが核開発をした理由があります。
  • 米ソは核武装した覇権主義国家であり、チャイナはこの2国を牽制するために自主的な核抑止力は不可欠である。
  • ソ連はチャイナの核開発に反対し、ソ連の核の傘にチャイナも依存しろという。しかし、アメリカがチャイナを核攻撃したとして、それに報復するためにソ連がアメリカ核を打ち込むことは(自国へのリスクを考えれば)ありえず、核の傘は機能しないものである
  • 貧しく予算の限られたチャイナが、その範囲で米ソに対抗するためには、通常兵器より核兵器の方が、はるかに高い投資効果を得られる
  • 国際社会で真の発言権があるのは核武装国だけである。核兵器を持たない国は、核武装国に恫喝されれば、屈服するほか無い(報復できない)
そして、この核の存在がチャイナのアメリカに対する交渉力を引き上げており、それは日本に対しても同じです。彼らの傲慢、高圧的、一方的な態度の背景には、核戦力があると指摘します。

筆者は、小型の核弾頭とそれを潜水艦から発射する術を持つことが必要だとしています。その核抑止が必要なことをアメリカに説明するロジックが以下です。
  • 核の傘では、近隣の核保有国であるチャイナ・露国・朝鮮からのニュークリア・ブラックメール(核を打ち込むという脅し)に対し、頼りにならない。これらに脅かされる日本が自主的な核抑止力を持つのは、独立国としての義務である。
  • 日本人の国防よりも、日本が核を持たない方がいいというアメリカの覇権利益を優先させるのは、道徳的に正しくない。
  • 日本が核を持つとNPTは壊れるというが、NPTの本来の目的を核武装国は守っていない。東アジアでNPTを守っているのは日本だけであるが、そのようなお説教をされるのは欺瞞に満ちている。
  • アメリカは集団的自衛権を行使し、米軍と歩調を合わせることを要求する一方で、日本に自主的な防衛力、核抑止力を持たせようとしない。これは利己的かつ狡猾であり、このようなやり方は反米感情を高めるだけであり、アメリカにとってマイナスである。
  • 既に抗戦能力を失っている日本に2度の核攻撃を行い、大量虐殺という戦争犯罪を行ったアメリカが、その犠牲になった日本に対し、チャイナ・露国・朝鮮が核武装しても日本だけには核抑止力を持たせないと説教するのは、グロテスクではないか?
筆者は、このようにパブリックな場で核武装を論じることや青年たちに、国際関係・外交・国防の知識を持たせるための「徴学制」を提案します。


考察


私はこの分野の本を読み、大学で講義を聞いた程度の知識しかないです。
しかし、その私でも常日頃思うのは、如何に日本人の大多数が、この分野について「無知」であるかということです。

本書は、ほぼリアリズムの視点から書かれている本です。それは、アメリカとチャイナという国に焦点を当てている面があるからであり、ウィルソニアン(リベラリズム)が間違っているということではないと思います。

しかし、大国間の外交、非民主主義の政体が違う国との外交、文化的共通性のない国との外交には、明らかにリアリズムの方が実態を捉えているように考えます。


ところで、日本人は、異常なほどの反戦・反核教育を受けており、国際社会・軍事における核というものの意味を全く考えていません。考えているごく一部の人や官僚・政治家は、極端にウィルソニアンに偏った考えをしています。
しかし、それは非常に危険なことだと思います。
何故かと言えば、それは国際社会の潮流を理解していないということであり、大東亜戦争に発展する過程で、国際社会の潮流を無視した行動を取り続けた結果、勝ち目のない戦争で破滅したことと全く同じだからです。


ただ1つだけ、私が本書に賛成しかねる部分があります。核武装をオープンに議論することです。そのようなことをしてしまえば、妨害を蒙ることは間違いないです。
オープンに議論をして国会で議決などしてしまった暁には、もれなく「核開発を辞めろ。さもなくば、東京に核を打ちこむ。」とチャイナに恫喝されて終わりです。

核開発は徹底して秘密主義で行い、最後の最後でそれが現実のものであることを証明するための実験をするというやり方でなくてはいけません
核抑止力を持ち、核を打ったら反撃されるとわかる段階までくれば、他国は干渉できません。これは、インドやパキスタンの例をみればわかるでしょう。

そのためには、機密を守る体制や使途を公開しない多額の資金を必要とします。現在の日本で、それができる体制も政治的意思を持った人間もいないので、残念ながら核開発は現時点では、非現実的と言えます。

だから、日本がすべきことは、まず国防の考え方を、選挙を通じて政治家に反映し、軍隊と情報機関をきちっと整備することです。これが核開発に入れる最低条件かと思います。

ちなみに、ニュークリア・シェアリングという概念があります。NATOにおけるもので、独伊などに米国所有の核が配置されているようです。
これと近しいことを日本ができるかというと、アメリカ側の判断が難しいですが、今後チャイナが強硬になったとき、かつ民主党政権が誕生しなかったとき、このような議論が沸く可能性はなくはないです。
ただし、現状日本の国防に対する考えはこの程度なので、まともに取り合われないのがオチでしょう。

もし、ニュークリア・シェアリングが成しえたとして、自主核抑止の代わりになるのかといえば、これはやってみないとわからないというのが、正直なところです。
核抑止というのは理論の世界ですが、実際にはニュークリア・ブラックメールをぶつけ合わないと実証実験ができないためです。
しかし、アメリカが所有する核を日本の判断で、好き勝手に発射できるものではないとなるはずだと予測されます。
その場合にはチャイナがメッセージを正しく受け取らず(ある意味ニュークリア・シェアリングの欺瞞を喝破しているとも言えるが)、抑止に失敗するという可能性も考慮すべきでしょう。

確実なのは、自国の意思のみで確実に発射できる核武装であり、かつ潜水艦等の自国の領土が壊滅しても、核報復する能力を維持できる態勢でしょう。
日本にとっては、チャイナ・ロシア・朝鮮くらいがターゲットで、欧米を対象とする理由はありませんので、地球の裏側まで届く必要はないですが、それにしたって現状の兵器体系では不可能でしょうから、自主核抑止力を持つというのは、簡単にできることではありません。

2006年当時でも間に合ったか不明ですが、今から議論ではあまりにも遅きに失しています。だからといって議論に背を向けてはならないでしょう。