2019年2月26日火曜日

20190226:西武特急の新型001系を見かけました

所用のついでに、ふらっとでかけたところ、西武球場前駅で、西武特急の新型001系を見かけました。
スマホでしかも、遠くから取っているので画質はご容赦下さい。








ぜひ乗ってみたいところでありますが、新宿線民にとって新型は中々来ないものですし、特急も止まらない東京都民なので……。秩父行けばいいんかなぁ。

ちなみに、目当てはこれでした。



2019年2月24日日曜日

封建的年功序列社会の限界

序文


児童虐待が増えているというニュースに対して、民法の懲罰権~等といった意味の分からない意見がTVで出ていたので、私なりに真因を考えてみました。

結論から述べると、封建的年功序列社会というものの歪みが大きな影響を与えているのではないかと考えます。

人は誰しも自分が育ってきた環境(過去)をよいものとして考えるものであり、封建的年功序列というのは遥か昔から日本に流れてきた習慣(悪習)であります。それを振り払うというのは、明治維新でも敗戦でも出来なかったことであり、極めて難しいことでしょう。

小手先で、民法を変えたり、児童養護施設を増やしても、根本的な解決にはつながらないでしょう。しかし、本当の社会の病巣を知り、対処していくのは社会の担い手として、義務であると考えます。


封建的年功序列社会とは


年功序列というのは、一般的に企業等における給与体系のことを指します。
ここではもう少し広げて、社会全体において年齢及び功績によって序列が決まっている様を表すと考えていただきたいです。実態は年齢がかなりのウェイトを占めますが、年齢が同じ場合や、特に功績がある場合は、功績が前に出ることもあるでしょう。
それが表向きには対等とされる関係ながらも、実態として社会秩序の中における序列に組み込まれている。それが年功序列社会です。
あえて封建的とつけるのは、それが日本人的な「お上」の考えを簡潔に示せるからです。

では、具体的に分かりやすい例を示しましょう。
体育会系のクラブ活動というもの(といって筆者は蛇蝎の如く嫌っていたので所属したことなくイメージですが…)でしょうか。わずか1つ学年が上という、全く意味の無い序列を元にして「先輩」というものから、理不尽な命令までも実行させられる。そして、翌年、自分が味わった理不尽を無反省のまま、また1つ学年が上ということだけをもって繰り返す。当然、普通の学校のクラブ活動に功の要素は殆どないので、年の部分が非常に大きなウェイトを占めますが、一番顕著な例ではないでしょうか。


封建的年功序列社会はどこから来たのか


私は歴史の専門家ではないので、何故そのようなものが出来たのかということを正しく示すことは難しいです。ただ、源流としては儒教が考えられるのではないでしょうか。儒教の原点ともいえる論語にも以下のような記述が見られます。現代訳論語(下村湖人著)から抜粋してみましょう。

「家庭において、親には孝行であり、兄には従順であるような人物が、世間に出て長上に対して不遜であつたためしはめつたにない。長上に対して不遜でない人が、好んで社会国家の秩序をみだし、乱をおこしたというためしは絶対にないことである。古来、君子は何事にも根本を大切にし、先ずそこに全精力を傾倒して来たものだが、それは、根本さえ把握すると、道はおのずからにしてひらけて行くものだからである。君子が到達した仁という至上の徳も、おそらく孝弟というような家庭道徳の忠実な実践にその根本があつたのではあるまいか。」
論語が間違っているか、合っているかという問題や時代背景の違いなどもありますが、「忠孝」 という考えは、本来無批判にお上や家長の言うことに従うことを示しているわけではなく、そうした方が正しい「可能性が高い」というレヴェル感のものだと思います。
だから、「歪み」なのです。如何に優れた古典であっても、当時の時代背景・空気感というのは文字で示せませんので、全て無批判に受け入れることはできないのですが、それが都合よく切り貼りされて、社会秩序に組み込まれているという歪みです。


封建的年功序列社会のもたらす災い


先ほどの虐待はあくまでも一例ですが、基本的には年齢なら(過去の)功績などで上に立った人間が何でもしてもよいというこの歪みは、非常に多くの問題を引き起こしています。

現在のシルバー民主主義というのも、単純に高齢者の数が多く若者が少ないという人口動態の問題だけではなく、高齢者の意識としての影響が大きく、「自分たち(の世代)が今の社会を支えてきたのだから恩恵を受けて当然」という発想があるのではないでしょうか。封建的年功序列の眼鏡を外して世の中を見れば、社会というものは誰か個人や世代のものではなく、先祖代々続いてきたものであり、そしてその先もやはり子々孫々続いていくものであるわけで、その中の一員として責任ある行動を取るべきであり、そうであれば選択として、今の若者やさらにその先のまだ生まれていない世代までのことを考えて投票するものでしょう。

あるいは、企業に目を転じてみると、日本企業の失敗は多くがこの点と関わりがあるのではないでしょうか。一番顕著な例は、雇用を守るといって、今働いている人を守ったかわりに、新卒を絞ったり、派遣を雇ったりし、自分たちの責任を、封建的年功序列社会において立場の弱い人に押し付けたことでしょう。
他にも、年齢と(多くの場合低レヴェルな)その世代の中で相対的な功績で社長になった、所謂「サラリーマン社長」は経営判断を誤り、高度成長期という人口ボーナスに恵まれた時代を過ぎてから、坂を転がるように転落するという結果になりました。
その他にも、ビジネスマナーや慣習の世界で多くの不効率を生み出し、雇用や賃金の世界では当人の能力や貢献を無視することにより人材流出を招くといった、国際競争力の低下に大きな影響を与えています。

そして子供の世界に目を転じると、親からの虐待も教師からの体罰も、封建的年功序列社会で説明がつきます。
親である、教師であるというのは、単なる年齢が上という事実以上に、自分の立場が上だと勘違いさせやすいものです。相手が知らないことを自分が知っているわけですから。
しかし、それは大きな過ちであり、知っているかどうかは、単に生きている時間軸の違いによるもので、能力の差でも努力の差でもなく、何一つ優越なものではないのです(能力が上、努力を多くしたといったことが、人と人の関係で優越であるものではありませんが)。


封建的年功序列社会を克服するために


そのような誤った封建的年功序列社会を克服するためには、まず本来どうであるべきかということを考えなければいけません。

筆者としては、天賦人権説を一度学び、考えるのがよいのではないかと思います。
勿論、正解はありませんが、天賦人権説を知ることは、少なくとも封建的年功序列社会の誤った考えを客観的に改める契機になることは間違いありません。それは元々自然権というものが、封建社会を転換していくものであったからです。
世の中の悪習を払うために、西洋の政治理論を学ぶというのは、如何にも迂遠のように感じるでしょうが、こと社会の問題については、テクノロジーが進化してもあまり変わらないようなものです。そして、また今後もテクノロジーの進歩では解決しないでしょう。
だからこそ、現代の問題から急に考えるのではなく、古代ギリシャから順序だてて、人間の(ほぼ西洋ですが)紡いだ歴史を紐解くのがよいのではないでしょうか。

そして、封建的年功序列社会を克服したならば、先述の体育会系のような悪しき再生産を断ち切り、小さなこと(自分の家族からでも)啓蒙していければよいのではないでしょうか。


最後に


筆者は論語にも一通り目を通したことはありますが、論語や儒教は決して全て間違いだということはなく、解釈が間違っている、社会に歪んで染み付いているということに警鐘を鳴らすものです。
西洋の歴史を紐解いていくのと同時に、論語などの儒教的な考えも理解しておくことは、決してマイナスではないと思います。
それは、どちらが正解というものではなく、様々な考えを理解し、そこから自分で考えていくということが必要であるためです。そして、残念ながら儒教的考えを第一とし、そこから進歩できない人も居ます。そのような人とどう向き合うかということもあります。

しかし、人間社会というものは、年代が進むにつれて学ぶべきことが多くなり、人間の能力を超えつつあるなと感じる限りです。
一方で、(わかりやすく)お金になるものに偏った教育は偏った人間を作り出してしまいます。技術の進歩で一番危惧されるものは、この点なのかもしれません。
2019年2月11日月曜日

たまたま―日常に潜む「偶然」を科学する

たまたま―日常に潜む「偶然」を科学する
なぜヒトは「偶然(たまたま)」を「必然(やっぱり)」と勘違いしてしまうのか?確率、統計をうまく用え、日常に潜む「たまたま」の働きを理解する。


前書き


以前に読んだ「真実を見抜く分析力」という本の中で、推奨されていた本であり、気になっていたので気になっていました。
確率・統計といった話を、比較的平易な例を用いて説明していく一方、それらが導かれていく歴史にも紙面が割かれており、読み応えがある本です。

なので要点だけ切り出すとわかりづらくなるのですが、そこはご了承下さい。
それでは、人が偶然に騙されるポイントを示すことで、どうやって騙されないようになっていけるかと言う点を考えていければと思います。


確率の法則


その1


二つの事象がどちらも起こる確率は、それぞれが個別に起きる確率より大きくなることはない
この原則だけを抜き出すと自明のことに見えるわけですが、本文中では実験の中で、確率の論理と人間の評価の矛盾を明らかにしており、与えられた情報と頭の中で考えるシナリオが一致することで、ありそうだと考えてしまう一方、シナリオに対し不確かな情報が入ると、なさそうだと考えてしまう傾向が強いよいです。


その2


もし、起こり得る二つの事象A、Bがたがいに独立していれば、AとBの両方が起こる確率はそれぞれの単独の確率の積に等しい
何故かけるのかという点は自明なことですが、この場合のポイントは「互いに独立していること」です。
本文中には、「警察官が仕事中に殺される確率」と「既婚者が離婚する確率」の合成「既婚の警察官が離婚し、しかも同じ年に殺される確率」について、独立していない(殺されたら離婚できない)という例を挙げています。このように独立しているようで関連しているケースというのは、得てして存在します。


その3


もし、ある事象にいくつもの個別の可能な結果A、B、C…があるなら、AかBが起きる確率はAとBの個々の確率の和に等しく、すべての可能な結果の確率の和は1である
 これは法則としてみると自明でも、実際はややこしいのですが、本文中では「座席が一つ空いている飛行機で、まだ現れていない二人の乗りたい客が居る場合に、一人の不幸な客に対応する確率」のケースが出ています。「現れていない二人の客」というのは、一見独立していそうですが、二人組の客であれば計算が変わります。


可用性バイアス


本文では、具体例として「五番目にnが来る六文字の英単語」と「ingで終わる六文字の英単語」でどちらが多いかという質問に対し、後者を選ぶ人が殆どであったとしています。
当然ながら、後者は前者に包含されるわけであるため、それは有り得ないことですが、過去を再構築する際に、最も回想しやすい記憶に、重要性を与えてしまうというとバイアスが掛かっている結果なのです。
この問題は、過去の出来事や周囲の状況に対するわれわれの認識をゆがめる点にあります。


バラツキの評価


われわれが成功とか失敗とかを目にする場合、われわれはたった一点のデータ、つまりベル曲線上の一点を観察しているにすぎない。観察している一点が、はたして平均値を表しているのか、異常値を表しているのか(中略)標本点は標本点にすぎないということ、つまりそれを単純にリアリティとして受け入れるのではなく、標準偏差という文脈の中で、あるいはそれを生み出した可能性の幅の中で、それを見るべきであること。
適当な要約が思いつかないので結論部分を抜粋しました。ベル曲線とは正規分布のことを指し、標準偏差はどのくらいその曲線が広がるかを示します。
ここでの主題はランダムな誤差によってもたらせるデータのバラツキの特性を理解することです。

偶然をコントロールする錯覚と確証バイアス


人間は何かをコントロールするという心理的欲求を持っているという研究が心理学の中であります。これがランダムの事象と関係するのは、ランダムという事象を認識する能力とこの欲求が符合しないことであり、ランダムな事象をそうではないと誤認する主な原因であるからです。
さらに、人間は何かを考え付いた時に、その考えが間違っているかを証明しようと探るのではなく、正しいことを証明しようとする、「確証バイアス」と呼ばれるものがあります。そのため、ランダムな事象に対し、自身の先入観を持つと、曖昧な証拠をそれを補強する方向へ解釈してしまいます。
人間の頭脳は、間違った結論を減らす方向より、パターンを発見して確証を得る方向に向いているのです。


富は才能の結果なのか


最後に筆者は、ビル・ゲイツを例に出し、ビル・ゲイツが稼いだ富は、彼の才能と比例するのかということを書いています。詳細は省きますが、ビル・ゲイツが成功した中には、本人の才能を超えた「偶然」があることは、疑いようが無く、才能を富に比例させることは間違いだろうと結びます。もちろん、行動と報酬の関係そのものがランダムということではなく、ランダムな作用が特質や行動と同じ位重要だということです。


考察


ランダムという事象や確率を人間が正確に把握するには、人間の本能に反する部分があり、心理的なハードルが高いことがわかりました。
一方で、ランダムの世界で成功している(それもまた正規分布の範囲内?)という人も存在することは確かです。
世の中をうまく立ち回っていくには、ランダムを理解し騙されないことが肝要なのだと感じます。そして、常に悪い人間はこれを活用して、相手を騙すものです。
やりすぎには注意しつつも、ある程度相手に説得力を与えるという意味で、活用していくこともできるとよいのではないでしょうか。
(あまりこの手の本が普及しすぎると、通じなくなるかも……しれませんが)
2019年2月2日土曜日

アダム・スミス 『道徳感情論』と『国富論』の世界(堂目卓生著)

たまたま―日常に潜む「偶然」を科学する
政府による市場の規制を撤廃し、競争を促進することによって経済成長率を高め、豊かで強い国を作るべきだ―「経済学の祖」アダム・スミスの『国富論』は、このようなメッセージをもつと理解されてきた。しかし、スミスは無条件にそう考えたのだろうか。本書はスミスのもうひとつの著作『道徳感情論』に示された人間観と社会観を通して『国富論』を読み直し、社会の秩序と繁栄に関するひとつの思想体系として再構築する。


前書き


アダム・スミスは、イギリスの哲学者・経済学者であり、国富論が有名な著書です。
国富論は難しい本と言われますが、その国富論をスミスのもう一つの著書である、道徳感情論の内容を踏まえ、一般に分かりやすく示した解説書が本著です。
国富論を道徳感情論から読み解くことにより、一般に考えられている国富論の「神の見えざる手」が自由競争が全てといった見方は、スミスの本意ではないことを解説しています。

道徳感情論


道徳感情論の重要なポイントを概説します。

秩序を導く人間本性


スミスは、人間はお互いに関心を持っており、他人の行動や感情の適切性を判断し、それを是認することで快感を得て、逆に否認することで不快感を得るとします。その為、人間は、他人を意識することで自分の行動や感情が、他人に是認されたいという願ようになり、それは人類共通の重要な感情とします。そこで、他人に是認されるためには、経験を積み重ねていくことで心の中に他人を居るような状態を作り、その判断を重視します。これを「公平な観察者」といいます。

しかし、人間は自分の利害などで公平な観察者の判断を無視することが考えられます。それに対しスミスは、「一般的諸規則」があり、これは公平な観察者が非難に値すると判断されるであろう行為は回避され、逆に賞賛に値すると判断されるであろう行為は推進されなければならないというものです。
私たちが他人との交際により、所属する社会の中で経験的にこれを学びとっていくことにより、賞賛への欲望と非難への恐怖から、自然と秩序だった社会ができると説きます。
具体的に言えば、内容や動機はさておき殺人事件を見れば、殺人は処罰に値するとまず判断するのは、一般的諸規則に基づくのです。

また、一般的諸規則を自分の行為の基準として顧慮しなければならないという感覚を、スミスは「義務の感覚」と呼びます。義務の感覚は、人間の本能を制御し、非難または喝采を与えることと説きます。スミスは、義務の感覚が制御するものの中に、利己心や自愛心を含むとします。著者は、このことが国富論を理解する上での要点と考えています。
では、義務の感覚に従うのは何故かということになりますが、一般的諸規則の侵犯は内面的な恥辱や自己非難となり、一般的諸規則に従えば満足感や心の平穏が得られるとします。

繁栄を導く人間本性


スミスは人間の野心について、人間が集団生活を営むことにより求めるものであり、富や地位の便利さや快適さよりも、それを手にすることによる他人からの賞賛や尊敬といったもののためであるとし、これを「虚栄」と呼びます。
虚栄とは、公平な観察者が自分に与える評価よりもより高い評価を世間に求めることです。このためにかぎられた富や地位をめぐっての競争が発生します。

幸福については、スミスは平静と享楽にあると定義し、その平静のためには「健康で、負債がなく、良心にやましいところがない」ことが必要とします。先ほどの一般的諸規則に従わないあるいは従えない状態というのは、平静にはなれず、つまり幸福ではないということです。また、最低限の富がないということは、それそのものの不便さ以上に、貧しい人の苦しみにに同感せず、軽蔑しあるいは無視する世間があるからです。
一方、幸福は大きく増進するものではないと説きます。
享楽については、平静がなければ享楽はなく、完全な平静ならばどんなことでも楽しめるとしています。

では、最低限以上の富を求める虚栄といった人間の「弱さ」には何の意味があるのかについて、スミスはこの欺瞞こそが経済発展をもたらすとします。人が富を求めるうちに知らず知らず社会の繁栄を推し進めるものであり、社会の発展に貢献したいという公共心に基づくものではないとします。
そうなると富を独占する人と、必要な富が無い人とにわかれていく結果になりますが、結果として富める人は集まった生産物の中で最も貴重で快いものを手に入れるだけで、貧乏な人より多くを消費できず、自らの虚栄心のために贅沢品を作って消費する。その過程で贅沢品を作るために貧乏な人を動員し、対価として必需品を渡すことで配分されていき、幸福は人びとの間で平等に分配されていきます。この仕組みを「見えざる手」として、道徳感情論の中で唯一、この言葉使っています。

野心によって、富を得る過程においては、自己を研鑽していく前に進む方法と逆に他人の足を引っ張り相対的に前に出る方法の二つが大別して存在します。
公平な観察者は、当然ながら後者を許容せず、道徳的に認められませんが、中にはこのような方法でしか、富を得ることのできない場合もあり、また企てに成功することによって、その隠蔽を実現することもあります。
しかし、「一般的諸規則の侵犯は内面的な恥辱や自己非難となる」ことにより、このようなことは容認されず、自然と競争はフェア・プレイのルールに則り行われることになり、社会の秩序は保たれ、繁栄するというのがスミスの考えです。

人間は、賢明さと弱さの両方を併せ持つこと認め、またその両方に役割を持たせていることがスミスの議論の特徴と筆者は説きます。

国際秩序の可能性


さらにスミスは、一つの社会の中の秩序だけではなく、社会と社会、つまり国家間の秩序の可能性についても言及しています。

公平な観察者は、社会の中で産まれるものであり、その社会の慣習や流行に影響されるとしますが、評価基準が多少影響を受けるとしても、一般的な性格や行為に対する評価基準は変わらないとします。その理由として、生命などを侵害することを賞賛する社会は存続できないため、存続し得る全ての社会においては、程度の差があっても共通に見られる感情であり、道徳は文化と異なると説きます。

そのため、公平な観察者に多少の差異があったとしても、多くの部分においては重なり合うため、その部分の「国際的な公平な観察者」が成り立ち、国際秩序の維持や形成は可能とします。
実際に実現しない理由として行き過ぎた祖国愛から生じる「国民的偏見」という道徳的腐敗が生まれていることにあると説明します。
また、利害関係の薄い国が「中立的観察者」になりうるが、遠いのでその目を意識しないこともあるとします。

国富論


続いて国富論についてのポイントです。

分業


スミスは、繁栄の原理として分業が進むことで、社会全体の生産性が向上するとともに、増加した生産物が社会の下層に広がることを重視します。
しかし、分業をするには他者との「交換」がなければ成り立ちません。一見すると分業があるから交換が進むように思われますが、スミスは人間には他者と物を交換するという性向があり、その性向に基づく交換の場ができることにより、人びとは安心して分業を進めることができると説きます。
また、相互の愛着が無いような他人が相手になったとしても、サービスを受けたいという一方とサービスを与えることにより対価を得たいというお互いの自愛心があることにより、交換は成立するという互恵関係です。
このように本来の市場は互恵の場ですが、「財産への道」を歩む人が参加することにより競争が生じます。彼らがフェア・プレイのルールに則り行われる限りにおいては、サービスを向上させることで報酬が上がることが見込め、分業が可能になります。この結果として、他人の生産物で自分の生活を支えることのできる社会となった社会を、「商業社会」と呼びます。

では、市場では何が起こるのかについてです。
  1. 市場は人びとの欲しいものをリーズナブルかつ豊富に提供する。
  2. 市場では、相対的に優位な状況を維持し続けられない。
  3. 上記2点の機能を支えるのは、市場参加者の自愛心なり利己心である。
  4. 市場が公共の利益を促進するには、利己心だけではなく、フェア・プレイの精神が必要。
という4つの観点があります。
1と2は自由経済が分かっていれば、自明のことでしょう。
3については、需給の何れかが偏ったときに、買い損ねたくない、売り損ねたくないといった自愛・利己の精神によって価格の調整を受け入れ、さらにより利益が得られるものに自分のサービスを提供しようとすることで、最終的に需給が調整されます。
4もまた自明ですが、3で言及するような機能を抜け道的に無効化したり、独占などの人為体障壁がある場合、1と2の前提が崩れますので、市場は本来の機能を果たせなくなります。

資本蓄積


スミスは分業の前提として、資本蓄積が進むことが必要と説きます。工場の例が出てきますが、分業を実現するために、部品や工具などの貯蓄が無ければ、分業は不可能であり、これは社会においても同様だとします。

スミスの議論では、階級社会が前提となっており、地主・資本家・労働者という三層が存在します。地主は土地を貸すことで生活している不老階級、資本家は土地を地主から借り、労働者を雇用して、生産活動を行い、労働者は資本家に雇用され、その賃金で生活を維持する階層となります。さらに、労働者には就業者と失業者にわかれ、後者は「最低限の富」がなく、犯罪や物乞いなどをするようになります。

その中で資本家は「財産への道」を歩み、地主の階級で優雅な生活をしたいと野心を持ち、それにより資本を蓄積し事業を拡大することで、労働者階級も就業者が増え、賃金もあがるようになります。このためには、同時に「徳への道」も歩み、正義や節制等の徳を資本家が身につけることが必要です。

ちなみに、スミスは再配分を重要視しなかったのですが、それには失業者層には、富だけではなく独立心を持って、世間の蔑視や無視から自由にならなければいけない(幸福を得られない)ため、「施し」ではなく「仕事」が必要であり、それは資本家が資本蓄積を通じて為すことと考え、経済成長を重視していました。

資本蓄積は、細かい仕組みは省略しますが、資本家の浪費が少なく資本に回る貯蓄が溜まることと政府支出が少なく取られる税が少ないほど早く進みます。
その中で前者は個人が持つ倹約志向があり全体的に大きな問題にならないだろうとし、後者をスミスは問題視します。
公共財を管理するとき、個人が自身の財産を管理するような慎慮と倹約志向は見られないことと、公共財産を管理する階層は、主として地主階級であり、元々倹約志向が弱く、財産管理・運用の経験や知識が乏しい。
一方、資本家はこのような経験知識に勝るが、致命的な欠陥として公共精神に乏しく、自分自身の利益のために公共の利益を犠牲にすることがあるということである。

つまりスミスは、資本家を、資本蓄積を推進させ経済成長へ導く中心的担い手としながら、公共の利益を損ねる可能性が高いと考えていました。
また、一部の資本家を守る政策は、国内市場の不効率化だけに留まらず、保護貿易という形で外国との関係を悪化させ、戦争を誘発し政府支出を増大させていったと指摘します。


今なすべきこと


最後にスミスが何を当時のイギリスで必要と考えたかについてです。
この前の章には、西ローマ帝国以来の歴史を紐解いて、自然な発展と実際の発展の差異を示しています。興味深い内容ですが、本稿ではカットさせていただきます。

スミスは、まず政府が何らかの優先・抑制を行うことを廃止し、経済システムを「自然的自由の体系」に復帰させることを主張しました。
何を優遇、あるいは抑制させることが、社会全体の利益を最大化するのか、その為の方法は何か、人間はそれを正しく判断する完全な知識を持てないということである。
だから、個人がフェア・プレイのルールに基づいて、自由に行動することで「見えざる手」に導かれて社会全体の利益がもたらされるとします。

一方で、めざす理想が如何に正しくとも、その道が苦難に満ちていると、人々は統治者の計画についていけない。急進的に改革を進めていくことは、人々がついていけず、失敗に終わるに留まらず、社会を現状よりも悪化させるだろうとしています。
理想へ向かって急進的に進めるのではなく、(それがたとえ不当な独占を続けてきたような相手でも)損害を被る人々に配慮し、自然的自由の体系への完全な復帰は、時間を書け慎重に行うべきこととしました。


考察


最後にこの本を通じて理解したスミスの思想を元に、私なりの考察を加えます。

スミス思想を生かすには


スミスは、現代日本では(私だけか?)経済学という観点で語られるように思いますが、元々の出身が哲学・道徳ということもあり、彼のバックグラウンドを理解し、道徳感情論の内容を理解することで、また違った考えが導かれます。

この思想の優れた点は、人間の本能に裏打ちされており、「全員が合理的に行動すること」といった有り得ないモデルが前提になっておらず、野心・共感性と言った全員が持っているであろうものであるため、受け入れやすい・理解しやすいものです。

では、何処に穴があるのかというと、1つは「公平な観察者」によって罰せられることではないでしょうか。スミスは、「公平な観察者」に批判されるような行動を取ると、心の平静や安寧が乱されるため、そのような行動は取りえないとします。
残念ながら実社会には、「鈍感力」を発揮して、そのような批判を退ける人もいます。
また、親や周囲の人間が性質が悪く「公平な観察者」の育成に失敗した人もいます。
このような人が、蟻の一穴のように作用し、次々と「公平な観察者」に批判されても大丈夫という思想が「赤信号皆で渡れば怖くない論」で拡大しているのではないでしょうか。

もう1つは、社会の外との関係です。スミスはヨーロッパ人であり、キリスト教的ヨーロッパ的世界観の中にいた人物です。この世界観は未だに有効のようですが(こちらも参照)、昨今は支那の台頭などで揺さぶられており、彼らの行いから鑑みて、「公平な観察者」は居ないのか、もしくは全く異質なのか、ということです。

それでもスミスの思想から学ぶべきことはたくさんあり、よりよい社会を作るベースになるものだと考えます。。
その中で私が重要だと思う考えと、その現代で必要な補足を考えます。

まず最初に「公平な観察者」について。スミスは、社会で生活していく中で、周りの人間の反応から自然に出来上がるとしています。
「公平な観察者」は、スミス思想の肝であり、そして弱点です。
ここを補うには何が必要かと言えば、私は教育だと思います。親が問題人物だったとしても、あるいは既に居なかったとしても、人間として必要な「公平な観察者」を育てるために出来ることがあるとしたら、教育に他ならないのではないでしょうか。

では、次の社会の外とはどうするか。
これは結論がはっきりしています。外は変えられません。自由主義を是として付き合う国とそうでない国を決めて、対応を二分させるしかありません。
「何を優遇、あるいは抑制させることが、社会全体の利益を最大化するのか、その為の方法は何か、人間はそれを正しく判断する完全な知識を持てない」としても、社会の中に対してはともかく外に対しても自由というのは、無理というのが現状ではないでしょうか。
もちろん、世界全体が一つの社会となるような時代がくればまた別であります。