2018年12月29日土曜日

道をひらく(松下幸之助著)

道をひらく
戦後ベストセラー第2位!510万部突破の超ロングセラー!!運命を切りひらくために、日々を新鮮な心で迎えるために―。人生への深い洞察をもとに綴った短編随筆集。普遍的な言葉の数々が心に響く。昭和から平成へ、時を越えて読み継がれる国民的愛読書。


前書き

日本人なら知らない人はいないである、松下幸之助氏の著書です。
自身の体験を元に書かれた短編の随想集で、読みやすく明快で味わい深い、全日本人必読といっても過言ではない本です。

その中から特に有益と思う部分を、私の考察を交えて記載します。

運命を切りひらくために


人生は真剣勝負である。だからどんな小さな事にでも、生命をかけて真剣にやらなければならない。もちろん窮屈になる必要はすこしもない。しかし、長い人生ときには失敗することもあるなどと呑気にかまえていられない。これは失敗したときの慰めのことばで、はじめからこんな気がまえでいいわけがない。真剣になるかならないか、その度合によってその人生はきまる。
真剣にあまり生きていない私がこの言葉を挙げるのは、如何なものかということですが、それでもあえて挙げるのは、真剣になるべき人がなっていない世の中ではないかという問題意識があってのことです。失敗は当然あるものですが、真剣になった結果の失敗と漫然な失敗では大きな違いがあります。しかし、今の日本の失敗はいずれだろうかと考えると真剣に国や社会のことを思ってのものではないのではないかと思うわけです。

死を恐れるのは人間の本能である。だが、死を恐れるよりも、死の準備のないことを恐れた方がいい。(中略)与えられている生命を最大に生かさなければならないのである。それを考えるのがすなわち死の準備である。そしてそれが生の準備となるのである。
与えられている生命を最大に生かす(=真剣である)ことは、死の準備であり生の準備であるということでしょうか。生の準備という言葉が気になりました。

日々を新鮮な心で迎えるために


自分の周囲にある物、いる人、これすべて、わが心の反映である。わが心の鏡である。
逆の目線から考えるとわかりやすい気がします。人の態度や印象で、自分の反応も大きく変わると思います(もちろん機嫌の良し悪しはありますが)。
だからこそ、周りが自分をどう見ているかを謙虚に受け止めることも大事なのです。
それと同じ位、人から見えないところも同様に、いやそれ以上に心の鏡なのではないでしょうか。
日本人の美徳であった謙虚が失われた世の中だけに心がけたいものです。

変わることにおそれを持ち、変えることに不安を持つ。これも人間の一面であろうが、しかしそれはすでに何かにとらわれた姿ではないあるまいか。
刻々と動くのが宇宙の大原理なのに、人間が変化を恐れて、現在にとらわれる姿を自然で
はないと見抜いています。現代の経営者からはとても感じられない泰然自若な姿勢です。

おたがいそれぞれに完全無欠でなくとも、それぞれの適性のなかで、精いっぱいその本質を生かすことを心がければ、大きな調和のもとに自他ともの幸福が生み出されてくる。(中略)男は男、女は女。牛はモーで馬はヒヒン。繁栄の原理はきわめて素直である。
この内容は二つの見方があり、上層から見れば個々の本質を生かすマネジメントをするべきということであり、下層から見れば自分のできることを精一杯やろうということだと思います。何気ない文章かもしれませんが、最後の記述が現代社会への痛烈な示唆だと感じます。

同じことを同じままにいくら繰り返しても、そこに何の進歩もない。先例におとなしく従うのもいいが、先例を破る新しい方法をくふうすることの方が大切である。(中略)失敗することを恐れるよりも、生活にくふうのないことを恐れた方がいい。
今の日本は「生活にくふうのないこと」を全く恐れていないことが、社会の問題の根底にあるのではないでしょうか。工夫がない、変化がない、どちらも楽ではあります。しかし、楽に流れることが、すなわち衰退ということかもしれません。

ともによりよく生きるために 


多く受けたいと思えば多く与えればよいのであって、充分に与えもしないで、多く受けたいと思うのが、虫のいい考えというもので、こんな人ばかりだと、世の中は繁栄しない。
この文章に解説はいらないくらい、ずばりそのままのシンプルな内容です。
従業員や株主に還元する(与える)をしないで、多く受けたい(内部留保)という今の日本企業を痛烈に批判しているようです。
一方、我々庶民にとっても、いいものを適切な値段で買う(与える)ことをせずに、とにかく安く買いたい(受ける)というばかりでは、日本経済は冷え冷えになり、さらに支那や東南アジアなどに富が流出していく(工場移転)わけであります。

約束はお互いの信用の上に花ひらく。だからこれらの約束を守るか守らないか、人間の精神の高まりを示す一つのバロメーターであって、道義とか道徳というものも、こうしたところにその成果の如何をあらわしてくる。自分に都合が悪くなったからといって、平気で約束を破るというのは、これはまさに動物の世界。人間だけが、おたがいにかわした約束は、これをキチンと守る天与の高い精神の働きを持っているのである。
残念ながら、今の世の中は動物が跳梁跋扈しており、「悪貨は良貨を駆逐する」の状態に見えます。功利を越えて、約束を守れることが道徳なわけですが、それがまさに失われた結果の社会ということでしょう。

みずから決断を下すときに


進むもよし、とどまるもよし。要はまず断を下すことである。みずから断を下すことである。それが最善の道であるかどうかは、神ならぬ身、はかり知れないものがあるにしても、断を下さないことが、自他共に好ましくないことだけは明らかである。
断を下すということを避けることが非難されない世の中になっている、むしろそれが特定の人の利益につながっていて、停滞が続いているように感じます。
決断を下すことは容易ではなく、失敗すれば責任を取るからこその、政治家・経営者といった職の重さ(報酬含め)であることを自覚願いたいものです。

いかに適確な判断をしても、それをなしとげる勇気と実行力とがなかったなら、その判断は何の意味ももたない。
 本当にその通りで、下すだけでもダメということを人は忘れてはいけません。断を下すことに熱中するとよくあることではありますが。

困難にぶつかったときに


世間にはめくらの面もたくさんある。だから、いいかげんな仕事をやっても、いいかげんにすごすことも、時には見のがされてすぎてしまうこともある。つまりひろい世間には、それだけの包容力があるというわけだが、しかしこれになれて世間をあまく見、馬鹿にしたならば、やがては目明きの面にゆき当たって、身のしまるようなきびしい思いをしなければならなくなる。
仕事ぶりは天下に露見しないことも多く、悪い仕事をしていればいつか露見してしっぺ返しを受けるし、評価されずに悲観していてもよい仕事をしていれば見つけてもらえるということです。実際、しっぺ返しを食らう人が現代は多いので、意識を高く持って生きたいものです。

自信を失ったときに


ものには見方がいろいろあって、一つの見方がいつも必ずしもいちばん正しいとは限らない。時と場合に応じて自在に変えねばならぬ。心が窮屈ではこの自由自在を失う。だからいつまでも一つに執して、われとわが身をしばってしまう。身動きならない。そんなところに発展が生まれようはずがない。
私見だが、一つの見方に疑問を挟まないのが強い、軍隊式・ピラミッド式の組織・社会というのは、戦場という異質な特定の場に対応したもので、社会の発展とはまた別のものだと思います。しかし、日本は停滞はこの点にあると思うので、重ねて取り上げています。

仕事をより向上させるために 


働くことは尊いが、その働きにくふうがほしいのである。創意がほしいのである。額に汗することを称えるのもいいが、額に汗のない涼しい姿も称えるべきであろう。怠けろというのではない。楽をするくふうをしろというのである。
今の日本は、楽をするくふうというのを軽視しています。しかし、そのような小さなくふうを進めていくことも、またイノベーションなのであるし、改めて見直したいものです。

事業をよりよく伸ばすために


ただ成果をあげさえすればいいんだというわけで、他の迷惑もかえりみず、しゃにむに進むということであれば、その事業は社会的に何らの存在意義ももたないことになる。
非常に厳しい一言だと思うのですが、人間の存在意義というものを改めて考えます。「他の迷惑もかえりみず、しゃにむに進む」という場合、その辺の意識がそもそも自己にしかないわけで、知性の無い野獣と罵るのは簡単ですが、そのような人間ばかりの世の中をどうするのか。そういう社会的に意義のある事業ができればいいのですが、非才の身には、しがないブログでぼやくが如く書くしか思いつかないのが現状であります。

金は天下のまわりもの。自分の金といっても、たまたまその時、自分が持っているというだけで、所詮は天下国家の金である。その金を値打ちもなしに使うということは、いわば天下国家の財宝を意義なく失ったに等しい。
一般的には「(お金は回るものだから)貧富は固定しない」といった意味を言う言葉ですが、ここでは「(お金は回るものだから)自分だけのものではなく、社会のものだ」ということになります。
だから、お金を使うことは自分のでも会社のでも、天下のものとして慎重になれと説くのです。この境地に達している人は、果たしてどの程度いるのかと思いますが、貧乏ながら心に刻んでおこうと思います。

自主独立の信念をもつために


教えずしては、何ものも生まれてはこないのである。教えることは、後輩に対する先輩の、人間としての大事なつとめなのである。その大事なつとめを、おたがいに毅然とした態度で、人間としての深い愛情と熱意をもって果たしているかどうか。
多くの人が忘れがちなことですが、我々自身の祖先を含めた多くの先賢があり、その中で知識のリレーを繋いできた結果としての現代社会です。我々が一代で作ったものではなく、またそれは不可能であるということ考えれば、教えるということの重大さが理解できます。残念ながら、自分の知識は自分のものと言う視野狭窄に陥る人はとても多いです。

生きがいある人生のために


教えの手引きは、この体験の上に生かされて、はじめてその光を放つ。単に教えをきくだけで、何事もなしうるような錯覚をつつしみたいと思う。
先ほど教えの重要さを説かれていましたが、それに関わることで、教わる側の謙虚さも説いています。それが最も明確なのがここではないでしょうか。
教えをきくだけで理解した気になるのではなく、教えを自分のものとするため努力せよとしています。

国の道をひらくために 


時代は変わった。人の考えも変わった。しかし、信念に生きることの尊さには、すこしも変わりは無い。いや今日ほど、事をなす上において信念を持つことの尊さが痛感されるときはない。為政者に信念がなければ国はつぶれる。経営者に信念がなければ事業はつぶれる。(中略)誇りを失い、フラフラしているときではない。
為政者に信念が無く潰れそうな国に住み、経営者に信念がなく潰れた事業が溢れる今日の日本を見ると、これほど痛く沁みることはないのではないでしょうか。
武士道の国だった日本は、すっかり骨抜きの薄っぺらい国になり、そのような世代が舵取りをするようになった結果が、失われた30年です。そういう意味では、40年、50年となることは、もはや避けがたいのかもしれない。そのことを一人でも多くが自覚し、日本再生の信念を掲げて生きる他はないだろうと思います。

日々の暮らしの上でも、あまりにも他を頼み、他に求めすぎてはいないか。求めずして己を正す態度というものを今すこし養ってみたい。個人としても、団体としても、また国家としても。そこに人間としての、また国家としての真の自主独立の姿があると思うのだが
日本人は組織に頼りすぎていて、日本国は世界に頼りすぎている。それはある意味民族的傾向なのではないかという分析もありますが、果たしてそうだろうか。自主独立というと大きなことに思われるが、氏の指摘の通り小さなことで変わるように思います。


終わりに

人間として考えるべきことが、とても読みやすい文体・内容で書かれており、その中で氏の深い教養が伺え、また説得力もあります。

内容としてはビジネスマンに向けたものだと思うのですが、私は小学校高学年くらいの子供からでも充分に読めると思い、また現代の過酷な競争生活へ身を投じる前に、自身の存在意義というものを知ってもらう機会を与えるこの本は有用に思います。
もちろん、何歳から読んでも遅いというものではありませんので、是非一度手に取っていただきたい一冊です。