2018年11月4日日曜日

ゲーテとの対話 上(エッカーマン著)



前書き

ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテというドイツの文豪(ファウストなどで有名)の晩年期が描かれている本です。
著者はエッカーマンであり、彼はゲーテの側で批評等の仕事をこなす一方、ゲーテに傾倒していきます。
ゲーテの著作以上にゲーテがわかる本として有名であり、至言名言の数々に溢れているため、教養の涵養という意味においては、とても素晴らしい本です。
(基本的に古典は、時代を超える教養・真理・哲学の面で、新書より時代という審判を受けている分、優れていることは明白なのですが、その中でも特にこの本はおすすめです)

この本はエッカーマンの日記みたいなところがありますので、時系列で記載されているいます。そのため、内容がバラバラになっていますが、ご了承くださいませ。

今までは、一冊読んだら書くというスタイルでしたが、上中下とあるのでその単位でと思い、読んでみると、さらに記事が長くなりそうなので、1823-1825年の範囲(上巻の半分ほど)で書きます。

2018/11/10 追記
1826・1827年(上巻の残り)を記載

1823年

後から生れてくる人は、それだけ要求されることも多いのだから、またしても迷ったり探したりすべきではない。老人の忠告を役立てて、まっしぐらによい道を進んでいくべきだ。いつかは目標に通じる歩みを一歩一歩と運んでいくのでは足りない。その一歩一歩が目標なのだし、一歩そのものが価値あるものでなければならない。
最近は古典を学ぶことが減ってきたと思うのですが、社会は古典の上に新しいものが積みあがってきて進歩しているわけで、全ての過去を勉強することはできないにせよ、過去があるものを「迷ったり探したり」しては、進歩が止まるということです。
今の日本の停滞には、「迷ったり探したり」というよりは、過去に答えがあるものをあえて逆張りをしているようなところがあるように、個人的には思いますが。

(大きな作品は)全体の結びつきに必要な、そして計画の中に編みこまれているすべてのものが、しかも適切な真実さをもって描かれなければならない。しかし、若いうちは、物事の知識は何といってもまだ一面的だし、大作は多面性を要求する。そこで失敗するわけだ。
この話は、詩のことを指しているが、全てのことに通じると思います。
大作(=大きな仕事)を為すには、多面性が必要ということです。 果たして、大作を為そうとしている人は、そのような高所に立てているのでしょうか。

(劇は)外へ出るにも出られないで、どんなまずいやつでも否応なしに見せつけられるのも、ね。そういうときは、まずいやつが憎らしくてたまらなくなるだろう。それだけまた、よいものに対する目が肥えてくるというわけだ。
時間のない現代人は、どうしても良い物を厳選しようとします。
私も古典の書で教養を涵養できればと思っているのは、その発想の延長線上であります。しかし、効率という観点でよいものばかりを学ぶと、何が悪いのかがわからないという。見落としがちながら、重要な観点です。

彼がはたして自分の趣味をますます純化していく順応性があるかどうか、形式上最上の定評のある手本をしっかり見習うだけの柔軟性があるかどうかね。オリジナルな努力をしている点はたしかによりのだが、独創はまたとにかく迷いにおちこみやすいものだからな。
ゲーテが若手の作家を評した言葉です。
日本人はナンバーワンよりオンリーワンのやうな誤った教育を受けているため、オリジナルや独創というものに、過剰な意識を持っているような気がします。
しかし、本当にオリジナルや独創に価値はあるのだろうか。それを作り出せる人間というのは一握りの天才であり、かつその天才でさえ、 「形式上最上の定評のある手本」つまり基本があってのことです。

1824年

人間には、自分がその中で生れ、そのために生れた状態だけが、ふさわしいのだからね。偉大な目的のために、異郷へかりたてられる者以外は、家に留まっているほうがはるかに幸福なのだ。
平野育ちのエッカーマンが、山塊の暗い気高さに不安になるということに対する答えです。
自分のことで考えても、偉大かはさておき目的を持って旅に出るとき以外、家で過ごす方がよい時間を過ごしているような気もします。
しかし、今の日本では 、「生れた状態(=日本人のための日本)」というのが急速に破壊されています。今の日本人がいろいろ不安に思うのは、そこにあるのではないでしょうか。米国や欧州で起こっていることも同じなのだろうと思い、個人的には理解できます。

自分の作品がざっぱくな世の人の手に渡ることを顧慮しなければならない。だから、あまりあからさまに表現して、大勢の善良な人たちの怒りを買わないように注意するのは、もっともな話だ。
また、詩人の話です。
私は気ままに、そして自己の満足のため書いているので、「ざっぱくな世の人」のことを顧慮せずに書いていますが、それが仕事として作品を出すのであれば、必要なことであると説いています。ゲーテでさえ顧慮せざるを得ないなら、私たちにとっては尚のことでしょう。
ガセットの本を思い出すと、「ざっぱくな世の人=大衆」であり、彼らの無教養な怒りに何を配慮すべきなのだろうと、個人的には思いますが。

世の中というものは、謙虚になれるような代物ではない。お偉方は、権力の濫用をしないではおれないし、大衆は漸進的改良を期待しつつ、ほどほどの状態に満足することが出来ない。(中略)世の中の状況というのは、永遠に、あちらへ揺れ、こちらへ揺れ動き、一方が幸せに暮らしているのに、他方は苦しむだろうし、利己主義と嫉みとは、悪霊のようにいつまでも人びとをもてあそぶだろうし、党派の争いも、はてしなくつづくだろう。
ゲーテが世の中を見る世界観が伝わってくる内容です。
人間はこの通り不完全な社会性しか持っていないし、ある意味それによってこれだけの発展を得られたのかもしれません。
利己主義も嫉みも争いも、ゲーテの指摘する負の側面の裏には、世の中を発展する原動力となる一面があるのだと個人的に感じます。

趣味というものは、中級品ではなく、最も優秀なものに接することによってのみつくられる。
急に緩い感じですが、趣味が欲しいとお悩みの方にはぜひ。

優秀な人物のなかには、何事も即席ではできず、何事もおざなりに済ますことが出来ず、いつも一つ一つの対象をじっくりと深く追求せずにはいられない性質の持主がいるものだ。このような才能というものは、しばしばわれわれにじれったい気を起こさせる。(中略)こういう方法でおこそ、最高のものがやりとげられるのだよ。
私は凡俗よりの人間なので、質よりスピードと考えます。実際、多くの職場(企業)では、それが正解としてまことしやかに言われます。しかし、真に優秀な人はそうではないということをゲーテは鋭く指摘しています。
そのことの弊害というのが社会では多数噴出しているように思います。成果が出るのに時間がかかる、もしくは出にくい基礎研究にお金がつかず、実用化の比較的容易な応用研究だけしかつかないとか。あるいは、四半期ごとに決算や業績を開示し、近視眼的な投資家や経営者が蔓延っているとか。
当然、ただ遅いだけなのは愚鈍というのですが。

マンネリズムは、いつでも仕上げることばかり考えて、仕事そのものに喜びがすこしもないものだ。しかし、純粋の、真に偉大な才能ならば、制作することに至上の幸福を見出すはずだ。(中略)比較的才能のとぼしい連中というのは、芸術そのものに満足しないものだ。彼らは、制作中も、作品の完成によって手に入れたいと望む利益のことばかり(中略)だが、そんな世俗的な目的や志向をもつようでは、偉大な作品など生れるはずがないさ。
私も仕事中は、世俗的な目的や志向しか考えていないものです。
しかし、私に限らず世の中の多くが「手に入れたいと望む利益のことばかり」ではないでしょうか。これはある意味人間の根源的な欲望であり、それを超越することが、真に偉大な才能の基本条件とすれば、なるほどと思うわけです。
超越するための方法は何なのかは、もう少し模索したいところです。

おおよそ、作家の文体というものは、その内面を忠実に表す。明晰な文章を書こうと思うなら、その前に、彼の魂の中が明晰でなければだめだし、スケールの大きい文章を書こうとするなら、スケールの大きい性格を持たなければならない。
この記事を書いている私には何れもなさそうです。
文章技術で表面は繕えても、内面は必ず出るというのは、判る気がします。
ただ、読んでいるものが訳文だと難しいところですが。

(社交のなかに自分の行為や反感、愛し愛されたいという欲求を持ち、自分の性分に合わない人と関係を持ちたくないというエッカーマンに対し)君の癖は、社交的なものではない。けれども、もし自分の生れつきの傾向を克服しようと努めないのなら、教養などというものは、そもそも何のためにあるというのかね。他人を自分に同調させようなどと望むのは、そもそも馬鹿げた話だよ。(中略)性に合わない人たちとつきあってこそ、うまくやって行くために自制しなければならないし、それを通じて、われわれの心の中にあるいろいろ違った側面が刺戟されて、発展し完成するのであって、やがて、誰とぶつかってもびくともしないようになるわけだ。
このくだりはもう少し長く、是非通しで読んでいただきたい限りなのですが、エッカーマンが自分の気持ちいい人付き合いだけを望むことをゲーテが咎めています。
まずい作品を読むことでよいものが見分けられるという指摘と共通しています。

私は他人に興味が無さ過ぎたり、遠ざけたりすることを望みするので、ゲーテがいれば、同じように咎められることでしょう。
ただ、教養は生まれつきの傾向を克服する以外にも使えるので、無駄ではないと思いますけども。

自分の進路からはずれてもいれば、君の本性の方向にもまるで反しているようなことをやろうとするのだ?
エッカーマンが、ドイツの散文の成果を報告する仕事を請けようと、ゲーテに相談したときのゲーテの返しです。
ゲーテは、エッカーマンが全ての散文を読んで評価するということを軽々しく考えていて、実際には向いていない仕事だと指摘をしています。
この指摘には、ゲーテが、エッカーマンが自分から離れて仕事を請けることに、よく思っていないような気も感じられ、やや微笑ましくもあります。
人生で何かやる時、一度思い出しておきたい言葉ですね。

1825年

(女性の才能について)結婚と同時に止まってしまうのを、私もつねづね見てきた。私は、絵を上手に書く少女たちを知っていたが、それが妻になり母親になると、もうだめになった。子供に気を取られて、絵筆をとらなくなってしまっただね。
時代背景はあるかもれいませんが 、ゲーテの女性の才能に対する見方には、真理が見えます。母親はやはり子供が一番という生き物です(そうであって欲しいという願望もありますが)。母親になったとき、女性が男性と同じ土俵で戦えるのかといえば、たかだか200年の間に女性が変わったとは考えられず、やはり無理なのです。
女性には女性なりの役割があり、それを全うすることで社会に貢献するというのが、真の男女共同参画だと思うのですがね。

世の中は、いつも同じものさ。いろんな状態がいつもくり返されている。どの民族だって、他の民族と同じように、生きて、愛して、感じている。
(ヨーロッパでは)とつきそうな気はしますが。
案外そういうものなのかもしれません。でも、ゲーテの時代には、未開の土人と遭遇することはなかったでしょう。

伝統的なものや、愛国的なものと決別したことが、彼のようなすぐれた人物を破滅に導いたばかりでなく、革命的な精神やそれと結びついた心情のたえまない同様もまた、その才能にふさわしい発展を阻んだのだ。(中略)詩人の鬱憤が読者にもつたわるだけではなく、手あたり次第に反抗していればどうしても否定的にならざるをえなくなり、否定的であることは、無に通じる。私が悪いものを悪いといったところで、いったい何が得られるだろう?だが良いものを悪いといったら、ことは大きくなる。本当に他人の心を動かそうと思うなら、決して非難したりしてはいけない。まちがったことなど気にかけず、どこまでも良いことだけを行うようにすればいい。大事なのは、破壊することでなくて、人間が純粋な喜びを覚えるようなものを建設することだからだ。 
ゲーテがバイロン卿を評した言葉の一つですが、いかにもゲーテらしいなと感じます。
伝統や愛国と決別し、「革命的」になった結果、現状を否定するばかりとなり、それでは他人は動かないという。
実際、私も現状を否定するばかりで、何らよりよき日本を作ろうとの提示ができない者たちの滑稽さを見ると、まさに真実だと思うわけです。
否定はよりよいことを提示することで、自動的に為されるもの。
改めて、日本の権力層には諳んじられるくらいに覚えていただきたいと思います。

全体の中に入っていく厳しさもなければ、全体のために何か役に立とうという心構えもない。ただただどうすえば、自分を著名に出来るか、どうすれば世間をあっといわせることに大成功するか、ということだけをねらっている、こういうまちがった努力が、いたるところに見られる。
芸術の面でゲーテが指摘していることですが、実に現在の日本にもあたることです。
 「全体のために何か役に立とうという心構え」は、戦前の日本人には有り余るくらいあったもので、それ一つで世界と渡り歩いたといっても過言ではないと思うのですが、戦後の教育破壊もあってか、すっかり現代では悪個人主義が蔓延って消えてしまったように思います。
個人主義というのは、社会の一員として、義務を果たし、貢献をする上において、認められる自由と自律なわけです。本来の目的を失って、ただ無秩序に過ごすのは、「悪」個人主義です。
それにしても、この文章を読むと某○谷の変態仮装行列を連想するのは、間違いではないように思いますが。

人間のもっているさまざまの力を同時に育てることは、望ましいことであり、世にもすばらしいことだ。しかし人間は、生まれつきそうはできていないのであって、実は一人ひとりが自分を特殊な存在につくりあげなければならないのだ。しかし、一方また、みんなが一緒になれば何ができるかという概念をももち得るように努力しなければならない。
散々批判したナンバーワンよりオンリーワンという発想も、ゲーテは認めているようです。そこには他者の尊重や協調もあってのものだということでしょうか。

最も偉大な技術とは、自分を限定し、他から隔離するものをいうのだ。
自分が最も注力すべきものを見極めることも、そして見極めたあとにそれに注力し続けることも重要ですが、実行に移すのは難しいです。
ゲーテは、多くの時間を浪費したことを嘆いています。多くの人は浪費して初めて、この真理に到着するわけです。それを書物で理解し、予め注力するものを見極めれたら……。

どんなにあらゆる点で才たけていても、それだけでは世のためにもならないし、それだけでは少しも建設的なところもないからだ。それどころか、人びとを惑わし、人びとから必要な支柱を奪ってしまうのだから、有害きわまりないといってもよかろう。
これは、ガセットのいう「技術家大衆」 に近い気がします。
才と意思はセットで働くものであり、その両輪がうまく噛み合わなければ、社会に対して、事を成すことはできないのでしょう。

われわれの行動には、すべて結果がともなうが、利口な正しい行動が、必ずしも好ましい結果をもたらすとはかぎらないし、その逆の行動が必ずしも悪い結果を生むわけでもなく、むしろ、しばしばまるっきり正反対の結果になることさえあるね。
これが人生の深みというか、難しさなのでしょうか。
ゲーテは、別にまるっきり正反対の結果になることを期待して、「利口な正しい行動でない」ことをしろというわけではないと思います。実際、その後に
だから、こういうことをよく心得ている世間人は、じつに大胆に、横着に仕事をしているのが目に付くよ。
とコメントしています。では、「世間人」ではなく、「知識人」はどうするのがよいのでしょうか。それはこの直後からは何もなく、流れていますが、後から何か気付きがあるかもしれません。

1826年

後退と解体の過程にある時代というのはすべていつも主観的なものだ。が、逆に、前進しつつある時代はつねに客観的な方向を目指している。(中略)すべて偉大な時期ならどの時期にも見られるように、内面から出発して世界へ向かう。そういう時代は、現実に努力と前進をつづけて、すべて客観的な性格を備えていたのだよ。
主観「自分だけが納得できる意見」、客観「誰もが納得できる事実」というのが一般的な解釈ですが、この文章における主観客観の解釈は分かれるところかとは思います。
私の解釈としては、そこより後退の時代には内向きに、前進の自体は外向きに、ということかなと思います。では、何が内向きで、何が外向きかというのも、また難しいわけです。しかし、考えればやはり現代は内向きなのだと思います。これは、誰もが外(社会)よりも内(個人)を重視している世の中であり、これは現代の論から見受けられるという点では疑いもない事実であります。
社会をどうするか、国家をどうするか、地球をどうするか、そのような外向きの論はすっかりなくなってきたわけで、早く前進の時代になることを願いつつ、個々が努力していくしかありません。

なにもかも独学で覚えたというのは、ほめるべきこととはいえず、むしろ非難すべきことなのだ。才能のある人が生れるとすれば、それはしたい放題にさせておいてよい筈は無く、立派な大家について腕をみがいて相当なものになる必要があるからだよ。
独学というのは一般的にはやはりハンディであり、逆境から上がるものを礼賛したくなるのが大衆というものです。しかし、ゲーテは、才能は放っておいて育つものではなく、適切な教育があってのものであり、独学ということは方法が間違っているという厳しい指摘です。

1827年

(すぐれた演説について)偉大なものには何にでも反対する癖が、彼らにはあってね。それは野党精神なんてものではなくて、ただの反対のための反対さ。連中は、何かしら、憎むことのできる偉大な相手がないと気がすまないのだよ。(中略)偉大なものが彼らには不愉快なんで、そもそも偉大なものを尊ぶという血がないし、それに耐えることができないのさ。
いわゆる大衆に対する、ゲーテの指摘だと思います。
偉大なものを認められない、反対のための反対しかできない人間というのは実に多いです。

どんな才能だって、学識によって養われなければならないし、学識によってはじめて自分の力量を自在に発揮できるようになるのだというのに。まあ、しかし、馬鹿は馬鹿のするにまかせておこう。馬鹿につける薬はないのさ。
ドイツの詩人に対する辛辣な批判です。
才能は才能だけでは意味がないというのは、ゲーテの一貫した意見であり、また私も強く共感するものであります。学識がない人間というのは、人間の知性もない獣であり、それにおける才能などというのは何ら意味のない状態です。

世界が全体として、いくら進歩したところで、若者は、やはりいつの時代にも、最初の地点から出発し、個人として世界文化の進化の過程を順を追って経験していく以外にないのだ。
 一番最初の至言と同じだが、世界が進歩しても人間としての原初の状態は変わらないので(産まれたときに日本語をしゃべれる人はいないですよね?数式を解ける人はいないですよね?)、勉強していくしかないのです。

自由とは不思議なものだ。足るを知り、分に安んじることを知ってさえいれば、誰だってたやすく十分な自由を手に入れられるのだ。いくら自由がありあまるほどあったところで、使えなければ何の役に立つだろう!
自由というものの本質をよく物語っていると思います。
自由自由とよく言われますが、(個人に)必要な自由とは何なのかは考えた方がいいです。ただ、それとは別に国家が保証すべき自由は、また別の概念だと思います。

 われわれは、自分たちが充たされなければならない一定の制約条件のもとでだけ自由だということだ。市民もまた、彼が生まれあわせた身分によって神から定められた分を守っているかぎり、貴族と同じように自由だ。(中略)われわれは自分の上にあるものをすべて認めようとしないことで、自由になれるのではなく、自分の上にあるものに尊敬することで、自分をそこまで高め、上にあるものの価値をみとめることで、自分自身がいっそう高いものを身につけ、それと同じものになる価値があることをはっきりとあらわすからなのだ。
先ほどの流れの続きですが、再び自由というもの本質をあらわしています。
もちろん、時代背景が違うので、身分制に基づくものはともかく、自由は周りを否定することで得られるものという勘違いをしている人は、現代にも多数いるわけです。
しかし、自由はそういうものではなく、自分の上にあるもの(=同じ社会を構成する他者)を認めていくことで、お互いがお互いの自由を尊重していくということではないでしょうか。

彼らにとって大切なのは、自分たちの意見を証明することだけさ。だから、彼らは真理を明るみに出したり、彼らの学説が根拠のないものであることを証明するような実験は、みんな伏せておくわけだよ。
すぐれた学説が見つかった後も、旧来の学説を講義し続ける教授連の話です。
これも「技術家大衆」というべきものでしょうか。
日本の学者というのもこれに近い部分はないでしょうか。
人間の問題というのは、ゲーテの時代も現代もあまり変わりがないようです。

黙々と正しい道を歩みつづけ、他人は他人で勝手に歩かせておこう。それが一番いいことさ。
そうですね。他人に関わりすぎることは害だと思います。有益な人とだけ関わりましょう。

自然の世界には、われわれが近づきうるものと近づきえないものがあるということだ。これを区別し、十分考慮し、それを尊重することだ。
ゲーテは、この後、近づきえないものに関わることで、真理にたどり着けないからと結びますが。
現代においてこの言葉を考えるならば、むしろ近づきえないものに、近づける時代になってしまったがために、自然を破壊し、天に唾を吐くがごとく返ってくることが問題な気がします。