2019年7月24日水曜日

参院選の総括

まずは、参院選がひとまず無事に終わった。
終わったというか正直なところ、始まっていないというのが本音かもしれない。
それくらい盛り上がらなかったというのは個人の感想であるが、それは実際の投票率にも現れている。
投票を放棄した人間を擁護することはできないが、あまりにも選択肢に乏しかったという点では間違いない。


低投票率の弊害


今回の選挙で目立ったのは、やはり低投票率だった。
投票率が低いことで退出すべき存在であった社民党が、生き残ってしまった。
その他、民主系・共産系などの政権担当能力の無いただの批判勢力も減らなかった。

結局、自民党が負けない理由はそこにあって、自民党より右・保守の選択肢がなく(今回は泡沫すら幸福実現党だけだった)、
自民党としては右・保守からの票は、ほぼ確実に得られる状況にあり、
その中でより議席を確保していくためには、野党の票を奪うしかなく、そうするとどんどん左傾化していく。
しかし、今の日本でこれ以上左傾化するのは危険きわまり無い。
その中で危機感を持っても投票先がないという私みたいな人間は、白票か行かないかくらいの選択肢になってしまう。


れいわ新撰組と左派ポピュリズムの台頭


今回は某タレントがアジテーターをしている「れいわ新撰組」なる集団が、政党要件と2つの議席を確保した。
実質的には、左翼野党同士の票の食い合い、内ゲバとも言うべき事象であろう。
それ自体は特に目新しいことはないのでよいが、今回重大な問題であることは、重度障害者が当選したことだ。
しかも、殆どは政党名及びそのタレントの名前で投票されているのにも関わらず、だ。

もちろん、障害を持つからといって政治家になってはいけないという法も理由も無い。
しかし、障害を持つ人が、全うできる職業なのかという点については、重大な懸念がある。
それは国会をバリアフリーにして車椅子が通れるようにするとか、そういう次元の問題ではない。
(もちろん、それに掛かる費用はあるので、よいかどうかは問題であるが)

一つ目の問題は、自発的に意思を発することが困難であることだ。
報道によると、件の候補は発声ができず、視線で入力するような装置を利用しているということらしい。
採決は、記名投票は勿論のこと、押しボタンすら困難である。
または、介助者に代読なり代行させるということ言われている。

国会とは議論の場である。議論する時に、他の候補と対等に議論ができるのだろうか。
これは、議員の意思を正確に伝えられるのか。介助者の意思にすりかえられないのか。

障害者政策を決めるときに当事者の意思を聞くべきであるかとうかと、障害者を国会議員にするかというのは全く次元の異なる話である。

有権者が各々の良識により考えて、候補を選ぶべきところを、比例+特定枠という抜け道を使って、すっ飛ばしてしまった。
これは将来の禍根になるだろう。このような制度を作った自民党は大いに反省すべきだ。


この選挙結果を踏まえて


私見であるが、やはり政党という枠組みが、陳腐化してきているように感じる。
党の看板で通った議員は、個人という単位での審判を受けていないため、
実際のところ党で決まったとおり採決ボタンを押して、後は選挙に落ちないようにすればいいという政治家らしからぬ存在に成り下がっているのだ。
日本人は組織を作ると腐るというのが、会社でも軍隊でも政治でも特徴なのだろうか。
もう少し個人が選ばれる形にして、議会では議案ごとに是々非々で行動するようになっていかなければならないのではないか。

そして衆院も参院も政党で選ばれ、政党の数の枠組みがほぼ一緒だとすると、参院はただの2軍と化しているようにしか思えない。
それはなれば廃止してしまってもよいのではないだろうか。
一院制について教科書的なデメリットはあるが、参院が2軍なら1軍が決まったことは2軍でひっくり返ることはまずない。
いわゆる「ねじれ」が起こったとしても、党利党略が横行するだけだろう。
となれば、参院は独自の価値を出すしかないが、選挙制度も選ばれた人間の意識もそうなっていない。
だから、廃止してしまえばいいのだ。その代わり、ちょっと衆議院の定数を増やしておけばよいだろう。
コストも減って一石二鳥だ。

また、一院+直接民主制というもどうだろうか。
ネット投票というものが中々実用化されないわけであるが、ネット投票を前提に考えれば、
直接民主制は実現不可能なことはないだろう。
とはいえ、そこまで大衆に判断能力は無いので、全て直接民主制は無理だろう。
却って、官僚の力が強まることになりかねない。
故の一院+必要に応じて直接民主制という併用である。
このようなことも検討に値する時期に来ているのかもしれない。
2019年7月17日水曜日

日本復活へ一市民の妄言2019 その3

その2から続く

社会の安寧のために(続)


教育の見直し


既に参院選の期間に入っているが、何も期待できない連中は、教育の無償化というバラマキくらいしか、教育について語ることはないようだ。
しかし、日本復活へ向けて肝なのは、とにかく次世代へ繋げて行くことであり、持続可能性である。

然るに、今の日本の教育は、以下の問題があると考えている。
  • 知識偏重・受験偏重の詰め込み教育
  • 思考力・発想力の軽視
  • 悪平等主義によるレヴェルの低下
  • 「腐ったみかん」の放置による教育崩壊
詰め込み教育については、はるか昔から言われていることであるが、筆者が言いたいのは、詰め込むことそのものではなく、「知識偏重・受験偏重」のところである。
基礎的知識や学力を詰め込むことそのものは否定しないどころか、むしろ教養人としては必須だと考える。

確かに、Googleで検索すれば何でも知識を簡単に得られるかもしれない。
しかし、毎回検索しているようでは、深いレベルの思考には繋がらないのだ。
では、何が問題かというと、例えば歴史で年号を語呂合わせで暗記するような、覚えることを目的としたつめこみである。
いくら、年号を暗記しても残念ながら思考力にも教養にも全くと言っていいほど意味を成さない。

覚えるというのは、思考停止して只管唱えたり書いたりして暗記するものではなく、徹底して考えて自分の身に染み付けることを言うのだ。
しかし、学校でこのようなことを教えるだろうか?全く無いだろう。大変だし、何より一定の素養の無い人間には不可能であるからだ。

これを悪平等と指摘しているのだが、非エリート層・非教養層に対しては、今の管理教育は結構良いシステムなのではないかと思うが、既に一握りの天才が世を動かす時代であり、その傾向はこれから益々強くなるのだ。
となれば、エリートを強化することは必須と言わざるを得ない。

一方で、道は一つなくていい。教養や思考力で劣ったとしても、発想力が高い人間は、それはそれで活躍の場がある。しかし、今の教育は一つ道しか示していないのである。これは、重大な損失と言えるのではないか。

最後の「腐ったみかん」の件については、「いじめ」として矮小化されている、校内での暴力行為や窃盗、名誉毀損、人権侵害といったことである。


それでは、どういう解決策があるのか。
まずは、初等教育について。この場で行われるべきは、人格形成である。
どのような方向性にしても最低限必要な教養や思考力をつけると共に、社会人としてのルールや倫理を身につけさせるのだ。
今まで家庭に任せていた部分もあろうが、それでは悪い家庭環境と良い家庭環境で差が開くばかりだ。

その上で重視したいのは国語と倫理だ。
国語ができない人間は絶対に学力が向上しない。これは、他のどんな学問を理解するにも日本語が読めなければ始まらないのだ。
だから、徹底して国語を鍛えるのだ。その為には、読書しかないと考える。
本を読みすぎて弊害があることはない。悪書を読まなければ。
つまり、良書を自然と読ませ、その内容を頭で咀嚼するということを、個人の発達の度合に合わせてコーチングしていけばよいのではないか。

国語を読み思考力の基礎を養った後に、考えるべきは倫理だ。
人間として生きる意味、社会や他人との関わり方等、倫理をベースに考えるべきことは多い。ここでも重要なのは教師は、子供に結果を教えるのではなく、考えるための交通整理をするだけなのだ。

中等教育は、高等教育へ進むべきものとそうでないものを振り分ける場である。
国語をベースにした思考力を元に、数学・理科・社会を中心とした教養を叩き込む。
まさに詰め込みの場であり、脳に教養を染み込ませるべきだ。
ここまでが義務教育であり、筆者は18歳までと考えている。

最後の高等教育は、そこから発展し、「学問」を身につける場である。
今の大学のように、教育の終点、就活へのモラトリアムであってはいけない。
論文重視、ディスカッション重視でいくべきだ。

そして「腐ったみかん」対策については、学校の閉鎖性を改善していくしかないと考える。監視カメラや警備員の配置、必要に応じての警察・裁判所の介入など実生活さながらでよい。
もちろん、いきなり処罰が妥当なのかは、個別の事例にもよるだろう。
しかし、「更正」を学校内でなあなあで行うのは、その学校に居る芽を摘むだけだ。



死と医療について考える


社会の安寧と少しずれているかもしれないが、昨今は人が死ぬということについて、
あまりに生を神聖視し過ぎている為か、重くなりすぎているのではないかと思う。
本来、自然に生きられない状態であれば、死ぬのは世の定めである。
しかし、医療技術が中途半端に発展しているため、直すことはできないけども、
生きながらえさせることができるようになった。
それが幸せなことか有益なことかというのは、勿論個人の価値観である。

しかし、社会という枠組みで見ると、それにはあまりにもコストが掛かりすぎるのだ。
終末期に使われる医療費の数字については、諸説あり、具体的にいくらかの論争には
趣旨から外れるため与さないが、社会全体として負担すべきコストなのかといえば、
おそらく多くの人がそうではないと考えるのではないか。
結局のところ、社会の益さないという次元ではなく、
誰の幸せをも生んでいない可能性が高いお金だからだ。

今の医療費の議論というのは、医者や製薬会社が中心になっている。
これは、専門的知識の必要な場であるが故に、避けれない部分もある一方、
常に医療費の減少に対して、反作用を及ぼすことの懸念が耐えない。
要するに、医療行為を行うことや薬を売ることでお金を儲かっている人が、
お金を減らす方向へ動くインセンティブがないのである。

では、どうやって医療費を適正化していくのか。
まずはエビデンスに基づく医療費の算定だ。
日本や世界には膨大な医療の記録がある。それらを活用して、
病気と治療の費用対効果を割り出すのである。
単に治るかということだけではなく、残りの寿命なども考慮すべきだ。
そうやって治療行為に対する費用対効果が明らかになれば、
どの線までは、保険診療を認めるのか、あるいは自費での治療になるのかということを
区切ることが可能ではないだろうか。

さらには、生活習慣等の個人の不摂生・不作為による治療は、
自己負担にするといったことも可能になるのではないかと思っている。
もちろん、3割か10割かでは極端な部分があれば、5割負担等の段階を踏めばよい。

もう一つは安楽死だ。
安楽死は社会的タブーの色がすっかり濃くなってしまっているが、
昔に話を戻せば、高齢者や障害者だけではなく、生まれすぎてしまった子供まで
殺されてしまっていたのである。
もちろん、時代の変化があるので、そこまで戻せというつもりはない。
しかし、極端に死をタブーに見るのはどうかということを主張し、
改めて安楽死の議論をすべきであると考える。
自分の意思で死を選べず、医療費を垂れ流して生きながらえさせられるその姿は、
さながら生きる権利が行き過ぎて、「生きる義務」と化しているのである。

ある意味で自分の死を選べないことから、「生きる義務」を果たすため、過剰に貯蓄をし、
そのときを迎えると自分の意思や幸せに反して、残ったお金を使わせれる。
これで喜ぶのは、せいぜい医者と製薬会社くらいなものだろう。
しかし、安楽死があれば、70で死ぬと決めれば、55でリタイヤし、趣味を満喫し、
孫の顔を見たら死ぬみたいな人生だって可能なのである。


地方創生とは


今の日本では東京一極集中が問題になっている。
それについて、筆者はあくまでも東京生まれ東京育ち東京在住の目線で私見を述べたい。

まず、この言葉は定義が曖昧で、単なる地方へのバラマキに過ぎないのではないかというのが、正直な思いである。
地方が栄えるとは、何かということの定義が曖昧なため、とにかく箱物を作ることに偏重したり、チェーン店やニュータウンなどの「リトル東京」が量産されたりという残念すぎる結果になっているのではないか。

つまり、地方創生と一極集中の解消は、似て非なるものなのだ。
前者は、その地方の特色を出し、魅力を高めていくことで、人口減少を食い止め、移住者を迎えて、持続可能性の高い生きた地方を実現することである。
後者の一極集中の解消は、東京にあるものを外へ出すだけなので、別に地方色は特に要らない。空いている比較的災害や戦争のリスクが少ない土地がまとまってあれば、そこへ移転させるだけのことである。

地方創生については、地域の人の主体性が重要だと考える。
つまり、国から予算という形で紐付けを強めると、お金を消化することが目的に摩り替わってしまうのだ。
もちろん、最後は国からお金が出るとしても、お金を先に出すのではなく、地域の知恵を出してもらう他ないだろう。
その知恵に対して応援する仕組みとして、寄付や国内旅行者への優遇などを考えてみるべきであろう。

一極集中についてであるが、これは日本の国体からみてある程度の集中は止むを得ない感じがある。
商業と政治の中心を切り離そうとしても、日本ではその結びつきが強すぎるため、結局はどこかへ集中してしまうものなのだ。
それでも人為的に分散させたいというのであれば、「東京税」を作るしかないのではないか。
本来不公平な税制なので禁じ手に近いものであるが、東京に人が集中するということは、余計にインフラの整備や維持にお金が掛かっている過負荷の状態であり、税金を取ることによって企業を東京外へ移転させるしかない。
当然企業が移転すれば、そこで働く人は移転を選ばざるを得なくなるので、住民税という形ではなく、法人税としての「東京税」とするのが望ましい。
2019年7月7日日曜日

日本復活へ一市民の妄言2019 その2

その1からの続き


社会の安寧のために


安全と安寧で似たような意味に思われる方もいらっしゃるかもしれないが、こちらでは社会秩序について論じる。

最近話題となっている年金問題をはじめ、経済の長い停滞、人口減少や地方の疲弊等、社会の持続可能性が低下しており、既存の社会秩序の制度疲労というものが目立つと感じる。

ベーシックインカムの検討


私は財政の専門家ではないので、財政的な可否について数字面での根拠を持っていないことは先にお断りしておきたい。まずは、狙いとメリットを示し、議論の場へ上げたいのである。

なぜベーシックインカムなのかという点について説明していく。
まず、ベーシックインカムは、現状制度として腐敗の温床となっている年金制度と生活保護制度を解体することが狙いとなる。

年金制度は、老後に2000万が必要かどうかということではなく、賦課方式が現役世代と年金世代の数のバランスという点で、既に無理がある制度であることは、誰の目にも明らかであろう。
そこを無理に、70歳まで働かせようとしたりして、継ぎ接ぎで持たせようとするのは、現役世代と年金世代の世代間格差を広げる効果しかないだろう。その上、数年ともたない延命策である。

生活保護制度は、既に問題になっているとおり、本来受給すべき人が受給できずに餓死しているケースがある一方、不正受給の問題が後を絶たない。
制度の根幹として、「審査」というものがある以上、マイナンバーの活用など一定の解決策はあるにせよ、このようなケースが完全になくなることはない。

ベーシックインカムは、この二つの制度に潜む不平等を完全に解消できる。
前提として全国民にマイナンバーが存在することとする。
そして、ベーシックインカムは1人○円を払うだけであるから、そこに審査は必要なく、世代の差もない。また、所得についても考慮する必要はなく、高所得者はあくまでも稼ぎに対して税金として収めて貰えば良い。
つまり、機械的にマイナンバーと紐づく本人の口座に振り込み続けるだけでよいのだ。

これは別の副次的なメリットを産む。
公務員が要らないのである。年金や生活保護に関わる全ての公務員は、全て不要であり、たった一つ振り込みをするシステムさえあればよいのだ。
最も、それが故にこの制度は実現が遠いのかもしれない。
これは単に政府のコストを減らすだけでなく、人手不足である企業にも朗報だ。もちろん、再教育などのコストは必要ではあるが、かなりのインパクトであろう。

その他、児童手当をはじめとする手当類もベーシックインカムに統合することも可能であろう。年齢などの客観的で偽装の難しいデータと紐付けるのであれば、同じように機械的にできるのである。

別のメリットとして、少子化の解消に効果がある可能性もある。1人あたりに払う金額との兼ね合いではあるが、子供が増えれば世帯に入るベーシックインカムの額が増えるため、子供を産むということへの抵抗感が薄れる可能性はある。


では、デメリットは何か。
巷で言われるのは財源の不足による持続可能性と労働意欲の減退かもしれない。
まず、前者については財政の検証を待ちたいか、他の社会保障も含めてのスリム化や高所得者・企業からの増税などメリットとの比較考量の上で議論されたい。

労働意欲の減退は一般的に言われているが、私はそうではないと考える。
まずベーシックインカムは最低限度である。生活が成り立つから労働を一切しないという選択をする人が実際どの程度いるか。それなりにいるかもしれないが、一切の贅沢もできない、趣味も楽しめないという環境下で耐えられる人はそう多くはないだろう。

ということは、結局ベーシックインカムがあっても過半の人は働くし、それで人手不足になるのであれば、さらに賃金が上がり、物価が上がり…と市場の力で労働を選ぶ人が増えるのではないか。
むしろ、生活のために嫌な職にしがみつくとか、挑戦を諦めて安定した職につくという人が、新たなステージを目指しやすくなることから、却って労働意欲や生産性は向上することが期待できる。
特に起業や研究など、成功する人より失敗する人の方が多い分野に挑戦しないことによる社会の停滞を打破する可能性があるのは魅力である。


人口減少への対応


今の日本は、少子高齢化と叫びながら、対策を取るどこか、却って促進するような政策が続いている。
若年層から徴税し、高齢者にそれを分配している以上、それで少子高齢化が問題と言われても話にならないと言わざるを得ない。
既婚者が子供を作れない、作りにくい部分は、経済的な対応で済むだろう。

あとは、文化的な問題であり、1人で十二分に生活が成立する世の中になってきている以上、そもそも結婚する人が居なくなる。
それを政策でどうにかするというのは、根本的には無理だと考える。

しかし、政策で将来への希望を与えることや経済的に支援することにより、間接的にムードを変えていくことは可能であろう。
先ほどのベーシックインカムについてであれば、若者・子育て世代の20~40歳くらいの年齢や子供を育てている人数で少し金額を増やすのが考えられる。その金額自体は微々たるものかもしれないが、社会として子育てを応援するという強いメッセージを出すことが重要ではないか。

それで多少出生率を上げたとしても、当面はやはり人口減、特に生産年齢の減少は、どうしようもない。
そのためには、社会の労働力をもっと大切にし、省力化・生産性向上の投資にもっと力を入れるしかない。
しかし、今の日本は企業はその方向へ投資しているとは言いがたい。結局のところ、安い労働力に安住しているのだ。
昨今、最低賃金について様々なことを言われているが、筆者は早期に1000円への引き上げるべきだと考える。
労働力が上がらないと、安い労働力を浪費する企業が淘汰されない。

もちろん、短期的に失業者が出るという問題はある。しかし、ベーシックインカムさえあれば、失業したからといって生活が出来ないわけでない。ベーシックインカムがないとしても、既に失業手当などの様々なセーフネットが存在し、その短期的な問題を緩和する具えはあるのだ。


自由貿易の発展的な見直し


自由貿易というのは、国が発展するための手段であり、民主主義などと同様で過去の歴史から、ベターな手段として一般的に認識されているものである。
しかし、同様にこれらは不完全なものである。

一部の国や企業は、自由貿易を悪用して、利益を貪っている。
正等なルールに基づいた規制まで、全て自由にしてしまったのではないだろうか。
これの揺り戻しが米国では既に始まっている。
今後、米国との交渉は楽ではないと思うが、これがある意味本来の姿ではないだろうか。
そして、日本も正統なルール作りと、それを悪用する国への厳しい対応をしていく必要がある。

今までは冷戦構造や日米安保に乗っかっているだけで、軍事と同じように外交も機能しなくともやっていくことができてしまっていた。
どうしても経済的な成長というものが下がってきている以上、国のプレゼンスを維持するだけでも大変な中、国益を確保し、他国からも信頼されるようにするというのは、楽ではない。

だからこそ、G7などの国際会議やTPPなどのルール作りなどで主導的に力を発揮していきたい。
しかし、政治の側は、それが直接民衆に受けないために、益々関心が薄れて、官僚任せにしているのではないか。
政治家は、外交の重要性を有権者に伝える努力をすべきであり、有権者に対し、聞こえのいいことだけを言うのを辞めるべきである。
一方、有権者は目先の利益だけではなく、社会全体の持続性ということを考えて政治家を選ぶべきだ。そうであれば、外交音痴の政治家など全く不適当であることは、間違いがないだろう。


その3へ続く