社会の安寧のために(続)
教育の見直し
既に参院選の期間に入っているが、何も期待できない連中は、教育の無償化というバラマキくらいしか、教育について語ることはないようだ。
しかし、日本復活へ向けて肝なのは、とにかく次世代へ繋げて行くことであり、持続可能性である。
然るに、今の日本の教育は、以下の問題があると考えている。
- 知識偏重・受験偏重の詰め込み教育
- 思考力・発想力の軽視
- 悪平等主義によるレヴェルの低下
- 「腐ったみかん」の放置による教育崩壊
詰め込み教育については、はるか昔から言われていることであるが、筆者が言いたいのは、詰め込むことそのものではなく、「知識偏重・受験偏重」のところである。
基礎的知識や学力を詰め込むことそのものは否定しないどころか、むしろ教養人としては必須だと考える。
確かに、Googleで検索すれば何でも知識を簡単に得られるかもしれない。
しかし、毎回検索しているようでは、深いレベルの思考には繋がらないのだ。
では、何が問題かというと、例えば歴史で年号を語呂合わせで暗記するような、覚えることを目的としたつめこみである。
いくら、年号を暗記しても残念ながら思考力にも教養にも全くと言っていいほど意味を成さない。
覚えるというのは、思考停止して只管唱えたり書いたりして暗記するものではなく、徹底して考えて自分の身に染み付けることを言うのだ。
しかし、学校でこのようなことを教えるだろうか?全く無いだろう。大変だし、何より一定の素養の無い人間には不可能であるからだ。
これを悪平等と指摘しているのだが、非エリート層・非教養層に対しては、今の管理教育は結構良いシステムなのではないかと思うが、既に一握りの天才が世を動かす時代であり、その傾向はこれから益々強くなるのだ。
となれば、エリートを強化することは必須と言わざるを得ない。
一方で、道は一つなくていい。教養や思考力で劣ったとしても、発想力が高い人間は、それはそれで活躍の場がある。しかし、今の教育は一つ道しか示していないのである。これは、重大な損失と言えるのではないか。
最後の「腐ったみかん」の件については、「いじめ」として矮小化されている、校内での暴力行為や窃盗、名誉毀損、人権侵害といったことである。
それでは、どういう解決策があるのか。
まずは、初等教育について。この場で行われるべきは、人格形成である。
どのような方向性にしても最低限必要な教養や思考力をつけると共に、社会人としてのルールや倫理を身につけさせるのだ。
今まで家庭に任せていた部分もあろうが、それでは悪い家庭環境と良い家庭環境で差が開くばかりだ。
その上で重視したいのは国語と倫理だ。
国語ができない人間は絶対に学力が向上しない。これは、他のどんな学問を理解するにも日本語が読めなければ始まらないのだ。
だから、徹底して国語を鍛えるのだ。その為には、読書しかないと考える。
本を読みすぎて弊害があることはない。悪書を読まなければ。
つまり、良書を自然と読ませ、その内容を頭で咀嚼するということを、個人の発達の度合に合わせてコーチングしていけばよいのではないか。
国語を読み思考力の基礎を養った後に、考えるべきは倫理だ。
人間として生きる意味、社会や他人との関わり方等、倫理をベースに考えるべきことは多い。ここでも重要なのは教師は、子供に結果を教えるのではなく、考えるための交通整理をするだけなのだ。
中等教育は、高等教育へ進むべきものとそうでないものを振り分ける場である。
国語をベースにした思考力を元に、数学・理科・社会を中心とした教養を叩き込む。
まさに詰め込みの場であり、脳に教養を染み込ませるべきだ。
ここまでが義務教育であり、筆者は18歳までと考えている。
最後の高等教育は、そこから発展し、「学問」を身につける場である。
今の大学のように、教育の終点、就活へのモラトリアムであってはいけない。
論文重視、ディスカッション重視でいくべきだ。
そして「腐ったみかん」対策については、学校の閉鎖性を改善していくしかないと考える。監視カメラや警備員の配置、必要に応じての警察・裁判所の介入など実生活さながらでよい。
もちろん、いきなり処罰が妥当なのかは、個別の事例にもよるだろう。
しかし、「更正」を学校内でなあなあで行うのは、その学校に居る芽を摘むだけだ。
死と医療について考える
社会の安寧と少しずれているかもしれないが、昨今は人が死ぬということについて、
あまりに生を神聖視し過ぎている為か、重くなりすぎているのではないかと思う。
本来、自然に生きられない状態であれば、死ぬのは世の定めである。
しかし、医療技術が中途半端に発展しているため、直すことはできないけども、
生きながらえさせることができるようになった。
それが幸せなことか有益なことかというのは、勿論個人の価値観である。
しかし、社会という枠組みで見ると、それにはあまりにもコストが掛かりすぎるのだ。
終末期に使われる医療費の数字については、諸説あり、具体的にいくらかの論争には
趣旨から外れるため与さないが、社会全体として負担すべきコストなのかといえば、
おそらく多くの人がそうではないと考えるのではないか。
結局のところ、社会の益さないという次元ではなく、
誰の幸せをも生んでいない可能性が高いお金だからだ。
今の医療費の議論というのは、医者や製薬会社が中心になっている。
これは、専門的知識の必要な場であるが故に、避けれない部分もある一方、
常に医療費の減少に対して、反作用を及ぼすことの懸念が耐えない。
要するに、医療行為を行うことや薬を売ることでお金を儲かっている人が、
お金を減らす方向へ動くインセンティブがないのである。
では、どうやって医療費を適正化していくのか。
まずはエビデンスに基づく医療費の算定だ。
日本や世界には膨大な医療の記録がある。それらを活用して、
病気と治療の費用対効果を割り出すのである。
単に治るかということだけではなく、残りの寿命なども考慮すべきだ。
そうやって治療行為に対する費用対効果が明らかになれば、
どの線までは、保険診療を認めるのか、あるいは自費での治療になるのかということを
区切ることが可能ではないだろうか。
さらには、生活習慣等の個人の不摂生・不作為による治療は、
自己負担にするといったことも可能になるのではないかと思っている。
もちろん、3割か10割かでは極端な部分があれば、5割負担等の段階を踏めばよい。
もう一つは安楽死だ。
安楽死は社会的タブーの色がすっかり濃くなってしまっているが、
昔に話を戻せば、高齢者や障害者だけではなく、生まれすぎてしまった子供まで
殺されてしまっていたのである。
もちろん、時代の変化があるので、そこまで戻せというつもりはない。
しかし、極端に死をタブーに見るのはどうかということを主張し、
改めて安楽死の議論をすべきであると考える。
自分の意思で死を選べず、医療費を垂れ流して生きながらえさせられるその姿は、
さながら生きる権利が行き過ぎて、「生きる義務」と化しているのである。
ある意味で自分の死を選べないことから、「生きる義務」を果たすため、過剰に貯蓄をし、
そのときを迎えると自分の意思や幸せに反して、残ったお金を使わせれる。
これで喜ぶのは、せいぜい医者と製薬会社くらいなものだろう。
しかし、安楽死があれば、70で死ぬと決めれば、55でリタイヤし、趣味を満喫し、
孫の顔を見たら死ぬみたいな人生だって可能なのである。
地方創生とは
今の日本では東京一極集中が問題になっている。
それについて、筆者はあくまでも東京生まれ東京育ち東京在住の目線で私見を述べたい。
まず、この言葉は定義が曖昧で、単なる地方へのバラマキに過ぎないのではないかというのが、正直な思いである。
地方が栄えるとは、何かということの定義が曖昧なため、とにかく箱物を作ることに偏重したり、チェーン店やニュータウンなどの「リトル東京」が量産されたりという残念すぎる結果になっているのではないか。
つまり、地方創生と一極集中の解消は、似て非なるものなのだ。
前者は、その地方の特色を出し、魅力を高めていくことで、人口減少を食い止め、移住者を迎えて、持続可能性の高い生きた地方を実現することである。
後者の一極集中の解消は、東京にあるものを外へ出すだけなので、別に地方色は特に要らない。空いている比較的災害や戦争のリスクが少ない土地がまとまってあれば、そこへ移転させるだけのことである。
地方創生については、地域の人の主体性が重要だと考える。
つまり、国から予算という形で紐付けを強めると、お金を消化することが目的に摩り替わってしまうのだ。
もちろん、最後は国からお金が出るとしても、お金を先に出すのではなく、地域の知恵を出してもらう他ないだろう。
その知恵に対して応援する仕組みとして、寄付や国内旅行者への優遇などを考えてみるべきであろう。
一極集中についてであるが、これは日本の国体からみてある程度の集中は止むを得ない感じがある。
商業と政治の中心を切り離そうとしても、日本ではその結びつきが強すぎるため、結局はどこかへ集中してしまうものなのだ。
それでも人為的に分散させたいというのであれば、「東京税」を作るしかないのではないか。
本来不公平な税制なので禁じ手に近いものであるが、東京に人が集中するということは、余計にインフラの整備や維持にお金が掛かっている過負荷の状態であり、税金を取ることによって企業を東京外へ移転させるしかない。
当然企業が移転すれば、そこで働く人は移転を選ばざるを得なくなるので、住民税という形ではなく、法人税としての「東京税」とするのが望ましい。