2019年6月15日土曜日

哲学のすすめ(岩崎武雄著)



はじめに


最近、色々哲学書を読んでいるのですが、そろそろ何のために読むのかということを定義し、ある程度体系的な知識をつけることで、豆知識や暇つぶしからもう少し深読みしてみようという気になりました。
平易なものであれば、前提知識のない身でも読め、十分自分のものに出来る部分はあるのですが、背景や経緯みたいなものがないと、知らぬうちに落としている部分というのがあるのではないかと思いました。
基本、趣味でやっていることなので、乱読上等の部分はあるのですが、そして学問を志すものはやはりそういう時期を経て、自分の基盤というものを作る部分があるので、学校で教わるような体系的に学べる教育とは別だと思っています。
それでもやり方を変えてみているのは、単純に時間が取れないので、その中での効率性という面も少し考えてみたところはありますが、特に方針転換をしたという意味ではないと思います。ただ、しばらくその手の本が続くかと思います。

その中でこの「哲学のすすめ」は、哲学を何故学ぶのか、哲学は何を学ぶのかというところに示唆を与える入門書です。
それでは、以下本書の要約です。

1.だれでも哲学をもっている


哲学というと難しい学問だとされますが、生きる中で人間は多くの選択肢に迫られ、これらは大体が自由に選択できるものです。
その中で、何を選ぶのかというときには、根本的な考え方というものが、存在するとします。選ぶ基準がなければ、人間は選択できないからですが、これを人生観なり世界観と捉え、それこそが哲学だと筆者は主張します。
つまり、哲学は小難しい学問ではなく、実は日々の人生に直結しているということです。

一方で、社会の主流となる哲学、つまり常識というものがあります。
これらは歴史の中でつくられていったものですが、それは過去に時代の常識を超えた思想を示した思想家がいて、それが人々に染み込んでいくことで作られた(変化した)ものです。

2.科学の限界はなにか


現代は科学が発展し、科学が全てみたいな風潮があります。
しかし、科学が発展した経緯には、近世以前の哲学的な考えから脱却し、自然現象が事実どういうあり方で存在するかという研究になったことがあり、それはすなわち科学の限界でもあります。
つまり、科学で事実を知ることが出来ても、判断するために必要な価値の問題には、踏み込むことが出来ないということです。
その科学を信頼しすぎて、全て科学で解決すると考えることこそが、「科学的」ではない態度であると筆者は指摘します。

なお、判断については、科学的事実をもって判断できるのではないかと考えられる部分もあります。その点については、「原理的な価値判断」と「具体的な事物についての価値判断」があり、後者については、事実から導ける部分がありますが、前者はそうではありません。また、後者は前者を前提とした上での、二次的なものであります。

3.哲学と科学は対立するか


科学的知識がないと、目的が正しくても、手段が不適当で、結果として正しいことにならないということが有り得ます。
一方、どんな行為をするとしても、行為には目的があり、また目的がなければ、行為を選ぶことが出来ない。
つまり、「原理的な価値判断」を担う哲学が、目的を決定する仕事をすると指摘します。

そして、哲学と科学は対立するものではなく、相補うべきものです。しかし、それでも対立するものと捉えられるときは、本来の領域を超えようとしたときであります。
このことを忘れ、全てを科学で割り切ろうとした時に、人間みずからの作り出した科学によって支配されてしまうのではないかと説きます。

4.哲学は個人生活をどう規定するか


ここでは常識という哲学について話が変わります。
その常識という哲学が、実は非常に曖昧であることを、「幸福」の追求という例で説明されています。幸福な生活を目指すということを否定する人は、少ないと思いますが、その実「幸福」とは何か?という点になると、必ずしも衆目の一致するものではないどころか、哲学者の中でも一致しないのです。
つまり、幸福が何かを決めるのは常識ではなく哲学であり、そしてによって我々の生活まで変わってくるのです。

5.哲学は社会的意義をもつか


この章は、個人ではなく社会に対しての哲学について話が進みます。
個人個人が哲学をもってよりよい人生を送ることにより、よりよい社会ができるという方向性が考えられます。これについては、あまりも理想主義で遠回りであり、人を変えるより社会制度として悪いことをできないようにする方がよいとも考えられます。
しかし、筆者は、このような根底にも哲学が存在するとします。

たとえば、民主主義と国家主義のいずれがよいかについても、単にそれを採用している国家の国民に関する事実だけを比較して優劣は決まらず、哲学の相違が影響しています。さらに民主主義を掲げる者の中においても、資本主義、社会主義等々様々な違いがあり、これらは、現状認識の違いによる部分もあるが、主張するものの哲学の違いによる部分も大きいとします。

そのため、哲学によって社会をよくすることは、非現実的どこか、社会をよくするための唯一の道であると説きます。
特に多数決のような形式的な原理しかないものに、内容を与えるのは投票するものの哲学です。

6.哲学は現実に対して力をもつか


人間は哲学によって、自分の生活態度を決定することができたとしても、世界には人間の手ではどうすることもできない法則(歴史の必然性)があり、大きく現実を動かすことは出来ないのではないかという考えは、過去から根強くありました。

これが誤りであることは、自然科学が示しているとします。
自然法則は実験によって発見されるわけですが、そもそも実験は自然現象を人為的に一定の条件の下において可能になるものです。
つまり、自然法則が発見することそのものが、自然現象が法則によって必然的に決定されたものでないことを示しています。
そして、人間がその法則を利用して、文明を大きく発展させたこともまた、誤りであると示す材料です。

7.科学の基礎にも哲学がある、8.哲学は学問性をもちうるか


この二章は哲学の学問性、つまり哲学は個々人のもので主観的・相対的なものか、それとも客観的なものかということをメインテーマとしています。

人文系の科学者からは哲学は、マックス・ウェーバーのいう「価値からの自由」として、社会科学と哲学を切り離さなければいけないと考えてられています。
しかし、それについても筆者は疑義を呈しており、例えば研究対象を選ぶときの判断基準について、価値判断に結びついていると指摘します。

また、学問とは客観性が必要です。個人として承認するしないはあるにせよ、科学の分野では事実として客観的です。では、哲学はどうか。哲学は千差万別なものですから、万人が承認するものではありません。しかし、科学が古い仮説なり理論を、新しいものを打ち立てて移っていくように、哲学の場合も、古い理論の欠陥を新しい理論を立てて解消していくという過程を繰り返すことにより、客観性を得ると示しています。

終わりに


9章が本編にあるのですが、一旦要約はカットさせていただきました。

この本を読んで、私として感じることは、哲学の地位を失った現代こそが一番の哲学の必要性の証明なのかもしれないと思います。
そして、哲学がないということは、折角人間には知能があって、目的を考えて、手段を検討し、豊かな暮らしをおくる等の人間らしいというか、人間にしかできない能力を与えられているにも関わらず、それを放棄して、本能のまま生きる禽獣の道へ進むということではないでしょうか。
それは市井の一般人よりも、むしろ本来は知的な能力の高いはずの、経営者とか学者・技術者、政治家などの側に、顕著に現れているように思います。

どんな思想を持つことも自由でありますが、だからこそ過去の時代の審判を受けてきた流れを理解し、新しい思想を生み出すことを目指したいものです。
とはいっても全ての思想を理解することは不可能ですし、それに時間を使いすぎて新しいものを生み出す力を失っては本末転倒であります。
だから、どこまで哲学を学べばよいのかというのは難しい問題です。これに何らかの答えを出せたらよいなという意識は、心の中に少々持っています。