はじめに
アランの幸福論は、プロポ(哲学断章)と呼ばれるものの中から、幸福に関する93のプロポを収めたものです。
幸福「論」というタイトルではありますが、プロポはどちらかというとコラム的なものであり、1編完結型なので、論じているわけではありません。
むしろ、アランのスタイルは体系的に論じることを避けて、ものに即して考えるというものです。
読み手もとしても哲学書を読むというより、エッセイを味わうように読み、その中で学び取っていくと考えるべきではないでしょうか。
そんなプロポから私がよいと思うものを絞って考えてみたい。
幸福論
人間が怖がると、怒りは遠からず起こる。興奮すると、すぐにいらだつ。自由に過ごしている時から、休息している時から、突然よびもどされるのは好ましい状況ではない。そういう時はよく気分がかわる。変わりすぎる。寝ていて不意に起こされた時のように、目が覚めすぎてしまうのだ。でも、人間というのは意地悪なものだ、とい言ってはだめだ。彼がこれこれの性格を持つ、と言ってはだめだ。ピンをさがしたまえ。(名馬ブケファラス)
アレクサンドロス大王は、誰も手懐けられなかったブケファロスが自分の影に怯えていることに気づいて大人しくさせたということから、恐怖や怒り、不機嫌について、「ピンをさがす」ことの重要性を語ります。
感情といえども、その源があるわけで、それがブケファロスであれば自分の影に怯えていたわけですが、自分でも他人でもやはり「ピン」があるわけです。それを理解し、探すことで怒りを避けることができるのではないでしょうか。
絶えず恐れの状態にあったらどんなことが起きるか想像するがいい。慎重さに対して慎重になるために、最後はこういう考えになるほうがいい。恐怖から生まれる心の動揺はおのずと病気を悪化させることになる。(中略)だから、病気をではなく、健康を自己の身のうえに考えて想起するがよかろう。(恐れは病気だ)
アランが第一次世界大戦に従軍していた時に知り合った、「手相を読むことが出来る」砲兵のことから、想像力と戯れたことで得た警告の話です。
病気を意識することにより、不安と恐怖が湧いてきます。医師は病気と戦う術を授けてくれるが、恐怖を癒す療法なり薬はあるかといえば無いのです。
アランの時代よりさらに医療は発展し、高度になってきました。その結果として早期発見・予防等々、病気を意識する機会というのがある意味で増えています。医療費が増大しすぎている世界で、アランの指摘は古くなるどころかむしろよりリアルなものになっているように感じます。
われわれが情念から解放されるのは思考のはたらきによってではない。むしろからだの運動がわれわれを解放するのだ。人は欲するようには考えないものだ。しかし、からだの動きが慣れてきて、筋肉が体操によって鍛えられ、柔らかくなると、欲する通りに動くようになる。不安になやまされている時は、理屈でもって考えようとするのはやめたまえ。なぜなら、自分の理屈で自分自身の方が責め立てられることになるから。(体操)
舞台に立つのを怖がっていても、演奏すると立ち直るピアニストの話から、指の運びで恐怖を追い払っていると言います。アランのこの思索よりも運動という考え方は、幸福論の中にしばしば出てきます。
「自分の理屈で自分自身の方が責め立てられる」というのは面白い表現ですが、思索を巡ると人はどちらかというとネガティブな方向に向くのが普通で、それが危機回避という意味ではよいのでしょうが、幸福という観点でみたとき思索に沈むことはマイナスになるというのは、私も理解できます。哲学書を読んで思索に沈むことは、疲れるし、よくないことにも目が行くのです。
処世術とはなににもましてまず、自分とけんかをしないことである。自分が下した決心や今自分のやっている仕事において。自分とけんかするのではなく、自分の決心や職業をりっぱにやってのけることだ。われわれは出来上がったこれらの選択、われわれ自身が選んだのではない選択の中に、宿命をみたがるものだが、これらの選択はわれわれを拘束するものではない。なぜなら、悪い運命などないから。どんな運命もそれをよいものにしようと欲するならば、よい運命となるのだ。(宿命)
この文章は非常に重要なことを示唆していて、自分と喧嘩して思索の力で無理やり違うことを選ぶということは恐れや怒りに繋がるということであり、それはすなわち幸福でないということになるのです。
そして運命はよいものにしようとする限り、よい運命になると考えることは、思索ではなく行動につながるものです。
人間は自分からやりたいのだ、外からの力でされるのは欲しない。自分からすすんであんなに刻苦する人たちも、強いられた仕事はおそらく好まない。だれだって強いられた仕事は好きではない。だれだって身に降りかかる不幸はいやだ。止むを得ないと感じてよろこぶものはいない。しかし、自分の意志で労苦をつくり出すやいなや、ぼくは満足する。(行動すること)
ディオゲネスの「もっともすばらしいもの、それは労苦だ」に対し、労苦の中に快楽を見出しているが、それは幸福と違うとし、幸福なのは自分が好きでやってることだと言います。
確かに社畜は過ぎると快楽のようになるようです。残業が60時間とかを越えると満足度があがるそうです。でも、それは強いられたものであり、幸福ではないので、ふとしたときに虚無感が襲うのでしょう。
一方、自分が決めたことであれば、それが達成感であり幸福なのだと思います。
実際、アランも別のプロポでこういっています。
仕事というものはすべて、自分が支配者であるかぎりはおもしろいが、支配されるようになると、おもしろくない。電車の運転士はバスの運転手ほど楽しくない。(ディオゲネス)現在の社会・会社で支配者になるというのは難しいですが、何か知恵を出したいものです。
幸福はいつもわれわれの手から逃げていくといわれている。人からもらう幸福については、それは正しい。人からもらう幸福などは、まったく存在しないからだ。しかし、自分で作る幸福というのはけっしてだまさない。(アリストテレス)
幸福にして欲しいということを他人に願う人は存外多いものですが、それはきっぱりとアランは否定します。
アランはどんな楽しみも、学ばないことには得られないと言います。たとえゲームでもゲームのやり方を知らなければ、楽しめないのであって、それは何事も同じなのです。
だから、幸福も自分で作り上げるということを学ばなければならないのです。
(ストア派の思想の中で役に立ったのは)過去と未来をめぐる論である。「われわれが耐えねばならないのは現在だけである。過去も未来もわれわれを押しつぶすことはできない。なぜなら、過去はもう実在しないし、未来はまだ存在しないのだから。」それはともかく、ほんとうである。過去と未来が存在するのは、ただわれわれがそれらを考える時だけである。過去も未来も人間の臆見であって、事実ではない。われわれは自分で自分をさんざん苦しめておいて、悔恨や不安をこしらえているのだ。(短剣の舞)
幸福という観点から見たとき、変えられない過去のこともわからない未来のことも思索することに意味はないということではないでしょうか。そして、今まで取り上げている通り、思索するということはネガティブな方向にいくものなのです。それが、「悔恨や不安をこしらえる」行為になっていくのではないでしょうか。
現実問題としてまったく考えないというのは難しいですが。
人間には自分自身以外に敵はほとんどいないものである。最大の敵はつねに自分自身である。判断を誤ったり、むだな心配をしたり、絶望したり、意気沮喪するようなことばを自分に聞かせたりすることによって、最大の敵となるのだ。(汝自らを知れ)
生命の流体なるあやしい広告から始まる異色?のプロポですが、アランはこれについて、この学者先生は本人の思うより上手いのではと言います。それは、人にちょっと自信を与えことがそれで大したことだと言います。
結局、ネガティブなことを考えれば考えるほど、自分が自分を意識せぬうちに傷つけていく、それが故に最大の敵は自分なのだと思います。よく、自分が一番の敵と言う言葉自体は良く聞きますが、それに一番しっくり来る説明を与えているように思います。
人間自身がつくり出した秩序においては、信頼というものが事実の一部分をなすので、もしぼくが自分に対する信頼を考慮しないとすれば、大変な計算まちがいをすることになる。自分が倒れると思うと、ぼくはほんとうに倒れる。(中略)そのことによく注意しなければならない。良い天気をつくり出すのも、嵐をつくり出すのもぼく自身なのだ。まず自分の中に、また自分のまわりに、そして人間の世界のなかに。なぜなら、絶望は、希望とともに、雲の形が変わるよりも早く、人から人へと伝染して行くものだから。(楽観主義)
アランの思想の大きな部分を占めている楽観主義の一例です。
この前段にアランに対する批判があり、それに対して「ぼくはそれを、ただ笑っていただけだった」と書いています。
個人的には自分自身に対する楽観主義は良いと思うのですが、他人や社会、自然に対する楽観主義の良し悪しについては、見解を決めかねています。
自身の思い、捉え方、接し方に対して、他人や社会、自然に通じるのかといえば、一部はイエスです。確か他人は自分の鏡である部分があり、機嫌の良い人には気持ちよく接するし、逆なら不快感が出てきます。その面においては、アランの言うことは正しいのです。
しかし、個別具体例で見ると、これに反することというのは山ほどあって、社会に転がっている凶悪な事件なり悪質なヘイトなりを見ていると、やはり違うのだと思うわけです。
自由は人を意地悪にする。子供がそれを示している。規則のない遊びをやっていると、子供の遊びは必ず乱暴なものになってしまう。この点については、もし悪しき本能がいつも弓のように張られていて、掟がそれを抑えていると考えるとしたら、それは大間違いである。しかし、法則というのは気に入られている。反対に、法則が無いのやいやなもので、決断拒否に陥り、いらだってしまう。それによって常軌を逸した行動に走るのである。(儀式)
自由は現代社会において絶対の価値観と言われているが、このアランの文章は一見それに抵抗しているように読めます。
しかし、私は違うと思います。人間は、社会性のある生き物なので、全て自由になってしまうと決断ができない部分や誤ったことをすることがあって、そこで寄りかかる規範が必要なのではないでしょうか。
それは、決して私達が支配されるということとは同義ではないのです。社会の中で、「管理された自由」を皆が謳歌することであり、これは人間が不快になる無秩序な自由を廃し、他人の自由を尊重するためのものなのです。
なお、このプロポの後半部分には、こう書かれています。
人は流行(モード)のことを笑って真剣に考えたがらない。(中略)世間の考えが一致しているというのである。この一致こそあかしなのだ。そこから落ち着きが生まれる。安心はほんとうに人を美しくみせる。流行の服を着て満足することがつまり、「自分で選んだ」と考えながらも世間と同じという「法則」と一致しており、人間にとって心地よいといいます。
これは、私の考える「管理された自由」と同じではないでしょうか。
礼儀作法とは、身についた物腰であり、ゆとりである。無作法な人間とは、まるで皿や置物をひっかけでもするみたいに、自分のしたいと思っていることとは別のことをしてしまう人のことである。(処世術)
アランは廷臣の慇懃さを醜いと言い、本当の礼儀作法が何かということについて、「己が意に反して、他の人たちの心を乱し、心配をさせる」ことこそが無作法だと言います。
結局は、他の人との関わりの中で、社会的には上下関係なるものがあり、それを尊重することが肝要とされますが、私としては一個の独立した個人という存在に上下なり貴賎なりは、本来在り得ないものであると考えています。そのような社会において、礼儀作法とは、アランの言う通り、自分の伝えたいことなりしたいことを適切に行うために、社会的規則なのではないでしょうか。
醜い廷臣の例に及ばず、礼儀作法とは小手先のテクニックばかりが目立ち、誤解されていると思います。
礼儀作法をわきまえるというのは、すべての身ぶりを通して、すべての言葉をつくして、「いらいらしないように。われわれに与えられた人生のこの瞬間を台無しにしないように」と示すこと、言うことである。(中略)むしろよろこびが伝わって行って、すべての摩擦がやわらぐところにあるのだ。(楽しませること)
別のプロポでは、アランは礼儀作法について、よろこびを伝えて摩擦をやわらげるということを言っています。
そうすると、自称「上位者」に敬ってあげているという慇懃無礼な態度も、彼らのような輩からすると「よろこび」なわけですが、多分それは自分がよろこびではないので、違うということなのだと私は解釈しています。
学問は遠くから眺めていてもおもしろくない。学問の世界にはいり込むことが必要だ。始めは無理にやらねばならないこともある。乗り越えねばならないものはいつもある。仕事を規則正しくすること、そして困難を、さらなる困難をも乗り越えること、これがおそらく幸福に至る正道である。(克服)
これは学問だけでなく、読書でもトランプでさえも同じように論じていますが、幸福は自分で作る方法を見つけるしかなく、その為には無理にでも初めて困難を乗り越えるしかないのです。
まとめ
アランの幸福論は、一貫して個人が努力して幸福を見つけ出すことを重要としています。
時には努力するように言われることもあり、気の持ちようだと言われることもあり、考えるな動けと言われることもあります。
しかし、一番重要な教えは、「幸福は(他者から)もらうものではなく、(自分で)つくり出すものだ」ということかもしれません。
幸福を自分で作り出すということを、目標に定めて努力している人が、どれだけいるのか。
あんまり、今の時代はいないような気がします。しかし、それが今の社会の行きづまりの一つかもしれません。
味わい深い文章と共に、考えさせられる本でした。