2019年5月1日水曜日

メノン(プラトン著)

メノン
徳は教えられうるか」というメノンの問いは、ソクラテスによって、その前に把握されるべき「徳とはそもそも何であるか」という問いに置きかえられ、「徳」の定義への試みがはじまる。「哲人政治家の教育」という、主著『国家』の中心テーゼであり、プラトンが生涯をかけて追求した実践的課題につながる重要な短篇。



はじめに


ソクラテスの弁明に続き、プラトンが書いたソクラテスとメノンという青年の対談の本です。メノンが「徳を教えることはできるか?」という問いに対し、ソクラテスが対談をしていくものです。
最初は、その問いに対し、「徳とは何か?」という問いをメノンに切り返し、メノンの答えを論破していきます。
その後、「徳とは何か?」という問いに対する答えがでないことに業を煮やしたメノンが元の「徳を教えることはできるか?」問いに答えるよう要求し、ソクラテスは仮定を用いて回答の一端を見せようとします。
結果としてどちらの答えにも、ソクラテスなりの答えはでないのですが、その対談の中で役に立つ部分がありますので、紹介できればと思います。


内容


序盤はまず「徳とは何か?」と切り替えされたメノンの徳に関する考えです。
男の徳、女の徳とは何かなどを答えまとめとしては、

それぞれの働きと年齢に応じて、それぞれが為しとげるべき仕事のために、われわれのひとりひとりには、それぞれ相応した徳があるわけですから。

メノンの内容をまとめると徳というより、個人が社会対して為すべきことといった感じでしょうか。それに対しては、普遍的なものもあり時代がかっているものもあります。
それに対し、ソクラテスは、

 いろいろな種類のものがあるとしても、それらの徳はすべて、ある一つ相(本質的特性)をもっているはずであって、それがあるからこそ、いずれも徳であるということになるのだ。この相に注目することによって、「まさに徳であるところのもの」を質問者に対して明らかにするがの、答え手としての正しいやりかたというべきだろう。

このように苦言を呈するのですが、 これに対しメノンは「まさに徳であるところのもの」を明らかにすることはできませんでした。
その後、色や形の例を出してこう続きます。

いやしくも君がそういったたくさんのものを、ある一つの名前で呼んでいる以上、そして、そのどれひとつとして、「形」でないものはない。それも、互いに反対のものでさえあるというのに、と主張する以上、そのように円形も直線形をも同じように包含しているところのものとは、いったい何であるのか。そのものこそは、まさに君が「形」と名づけている当の対象であり、円形は直線形とまったく同じ程度に形であると主張するとき、君が念頭においているところのものであるはずだが。

形の主題においても中々難しいことで、それに対してYesとは言えるのですが、では実際に「形」と名づけている当の対象が何かというのは、深く意識することなくそういうものだと認知しているわけですが、それを定義として取り出すのはやってみると困難ではないでしょうか。ましてや「徳」のような抽象的なものであれば、余計に。

そこからメノンは、「徳」と名づける対象について、搾り出していきます。

徳とは、美しいものを欲求してこれを獲得する能力があることだと

このような結論が出てきました。そして、そうでない人は悪しきものを善いものと誤解して追求していくので、そこを見極め獲得していく能力が徳ということだとメノンは考えました。そして、善きものとは金銀の獲得や官職に就くことだと回答します。しかし、不正な手段で獲得するのは正しいものではないということで、ソクラテスは以下のようにまとめます。

どうやら君のいう「獲得」ということには、正義とか節制とか敬虔とか、あるいはその他何らかの徳の部分がつけ加えらなければならないようだ。もしそうでなければ、たとえ善きものを獲得しても、それは徳ではないということになるだろう。

それに対し、ソクラテスは改めて徳とは何かについて問いかけます。

ぼくは思うのだが、君はもういちど振り出しにもどって、徳とは何であるかという同じ問をうける必要があるのだよ。もし徳の部分をともなうすべての行為は徳であるということになるならばね。なぜならこれこそ、すべて正義をともなう行為は徳であるという主張の意味するところなのだから。

実にソクラテスっぽい卓袱台返しといいたいところですが、正直メノンの言うことを見ていると徳というものが非常にぼやけていて、これは当然の指摘ではないかと思います。
このあとメノンはしびれを切らして、議論を別の方向に持っていきます。

そのやり取りの詳細は省きますが、結果として知らないことを探求できるのかといった感じの問いになり、ソクラテスは、魂は輪廻するものであり、知識は内在的に存在するものなので引き出すものだといった答えをいいます。そして、その実証として無知な召使に図形の面積に関する知識を質問から引き出すといったことをします。

結論として合意したことは

ひとが何かを知らない場合に、それを探求しなければならないと思うほうが、知らないものは発見することもできなければ、探求すべきでないと思うよりも、われわれはよりすぐれた者になり、より勇気づけられて、なまけごころが少なくなるだろうということ

ということで、知らないことは発見し、探求していく方がよいということでした。
そこで元の問いに戻るわけですが、メノンは徳が何かをさておいて、徳が教えられるかという自身の問いについての回答を求めます。
そこで何か分からないものについて、それがどのような性質かということを探求するため、仮説を立てて対談を進めて行きます。

徳というものが、魂にかかわるいろいろなもののなかでも、とくにどのような性格をもったものであるならば、それは教えられうるものだということになり、もしくは教えられないものだということになるか

ということを考察していきます。そこで徳が教えられるかということについて、メノンは教えられるとします。そして、次に徳は知識なのか、それとも別の性格のものかということを考察します。ここも過程は省きますが、徳は知識の一種ということでソクラテスとメノンはまとまります。しかし、その後ですぐれた人のことを話したあとで、こういって卓袱台を返します。

少しでもそれに確かなところがあるべきだとするなら、たったいまそう思われたというだけでなく、いまこの現在においても、将来においても、やはり正しい所論と思われるのでなければならないだろう。

確かにその通りではあります。そして、その理由として、

徳にかぎらず、どんな事柄にせよ、もしそれが教えらうるものだとしたら、かならずその事柄を教える教師たちと、それを学ぶ弟子たちがいなければならないはずではないかね?

といい、徳の教師は見つけ出せていないから、本当に知識なのかわからないといいます。
この流れはやや強引なのですが、確かに有益な徳であれば、教える教師と弟子がいるのが当然のように思われます。ここからアニュトス(ソクラテスの弁明で訴える側に回る人)も交え、優れた人の話をします。そして、アニュトスは、立派な人物は先人から学んだのだと主張します。 それに対しソクラテスは、

徳が教えられるものであるかどうかということを、われわれはずっと前から考察しているのだ。そしてこの考察は、つぎの点の考察をずっとわれわれに要求しているわけだ。すなわち、いまの人であるとむかしの人であるとを問わず、いったいすぐれた人物たちは、自分が卓越していた点であるところのその当の徳性を、他人にも授けるすべを知っていたのだろうか。それとも、もともとこの徳というものは、人間が他に授けることも授けられることもできないものだろうか。

そこで優れた人の息子の話をして、実際には優れた人物から大したこと無い息子が多数出ているとソクラテスはつづけます。これはアニュトスの怒りを買い、今後の結末に影響しているのかもしれません。結局、優れた人物はいるが、徳は教えられるものでないということになります。
続けてソクラテスは、徳を持つ人=社会に対し有益な人=普通の人の行為を正しく導くことまではよいが、その正しく導くに際して、知識が必要ということは正しくなかったとします。

行為の正しさということに観点をおくなら、正しい思わく(思いなし)は、導き手として「知」に何ら劣るものではないということになる。そして、この点こそわれわれがさっき、徳とはいかなるものかを考察するにあたって、見のがしていたことなのだ。

思わくというのは約が適当では無い気がするのですが、その後の知識が思わくより評価される理由についてみると、何となくですが「偶然」という感じに近いように私は感じました。思わくが想起され、知識として永続化することで、評価(価値)が高まるというのです。

もし知識によるのではないとすると、残るところは、思わくのよさによるということしかないことになる。政治家たちはこれを用いることによって、国を正しく導いているわけであって、結局彼らは、知という点にかけては、例の神託を伝えたり、神の意をとりついだりする人たちと、なんら異なるところはないのだ。
徳とは、生まれつきのものでもなければ、教えられることのできるものでもなく、むしろ、徳のそなわるような人々がいるとすれば、それは知性とは無関係に、神の恵みによってそなわるものだということになるだろう。 

という結論に至るわけです。


あとがき


プラトンの対話編は読みやすく、また面白いので、もう少し追加で買って読んでみようと思います。

個人的には古典から学ぶべきことは、結論よりも過程なり思考のやり方であって、内容は時代によって変わるものなので、そのあたりの時代の審判に耐えたものを受け取っていくことがこの先AIが席巻する時代になっても、人間にしかできない英知になるのだと考えます。
古代ギリシャの時代のものなので、神や魂など色々出てきますが、これ自体は重要なことではないと思います。徳に対するメノンの答えもかなり時代がかっているというか、現代でこのような見方をする人はおよそ居ないでしょう。

最後に徳についての私の考えは、「社会において、生活を歩んでいく上での暗黙的な規範ないしは考え方」とではないかと思い、これはどちらかというと知識じゃないかと思いますし、教えられるかといえばある程度は教えられるだと思っています。
ある程度社会に対して、有益かつ評価される、考え・行動といったものは定型的な部分がありますので、その部分については、知識であり教えることが可能です。
一方で、時代にあわせて正解が変わる部分は当然あって、そこは前段の知識を前提に考えていかなければなりません。その部分については教えられてどうこうというものではないありません。
また、知識として知っていることと、実践できることもまた別です。
その点で100%の回答ができる問いではないのではと思っています。