2019年5月26日日曜日

生の短さについて(セネカ著)

生の短さについて
生は浪費すれば短いが、活用すれば十分に長いと説く『生の短さについて』。心の平静を得るためにはどうすればよいかを説く『心の平静について』。快楽ではなく、徳こそが善であり、幸福のための最も重要な条件だと説く『幸福な生について』。実践を重んじるセネカ(前4頃‐後65)の倫理学の特徴が…


はじめに


セネカは古代ローマの政治家、哲学者です。
皇帝ネロの治世で活躍していたことなどで有名です。
岩波文庫版ですと、同じ本に表題の「生の短さについて」の他、「心の平静について」と「幸福な生について」の計3篇がまとまっています。
内容としては、道徳論といった趣があります。


生の短さについて


われわれにはわずかな時間しかないのではなく、多くの時間を浪費するのである。人間の生は、全体を立派に活用すれば、十分に長く、偉大なことを完遂できるように潤沢に与えられている。

この本は、パウリーヌスというセネカの親戚に宛てた文章で、時間が無い、忙しいと人は嘆くが、実際は浪費しているのであり、十分な時間は与えられているのだということ指摘する内容です。

自分の生となると、他人の侵入を許し、それどころか、自分の生の所有者となるかもしれない者をみずから招き入れさえする。自分の金を他人に分けてやりたいと望む人間など、どこを探してもいない。ところが、自分の生となると、誰も彼もが、何となくの人に分け与えてやることであろう。

自分の土地や財物に対しての態度と自分の時間に対しての態度の違いを指摘し、時間の浪費が見えない・関心を払わないことへの疑義を示しています。

「五十歳になったあとは閑居し、六十歳になったら公の務めに別れを告げるつもりだ」と。だが、いったい、その年齢より長生きすることを請合ってくれるいかなる保証を得たというのであろう。

よくあるのが将来リタイヤして○○みたいなパターンですが。古代ローマからあったとは。人間は変わらないものです。しかし、それへの指摘は今も変わらずで、統計的に見れば古代ローマと今では、どこまで生きるかの違いはありますが、こと個人にとってみれば、それはわからないもので、突然病気や事故にになって、死ぬとかそこまでいかなくとも不能になることはあり得るわけで、このような将来を担保に今を軽視するという考えはよくないわけです。

何かに忙殺される人間には何事も立派に遂行できないという事実は、誰しも認めるところなのである。(中略)諸々の事柄に関心を奪われて散漫になった精神は、何事も心の深くには受け入れられず、いわばむりやり口に押し込まれた食べ物のように吐き戻してしまうからである。

忙しく動いているときは満足感があったりすることもありますが、一方でその時は心の深くに受け入れられていないということを指摘しています。

年金や施物なら、人はさも大切に受け取るし、それを貰うためには、みずからの労役や奉仕や勤勉を提供する。しかし、時間の価値を知る者は一人もいない。まるでただのものであるかのように、湯水のごとく時間を使う。だが、その同じ彼らが死の床に伏し、死の危機が間近に迫れば医者の膝にすがりつく姿を、あるいは、死罪の恐れがあれば全財産を使ってでも延命しようとする姿を見るがよい。彼らの心にある情緒の首尾一貫性の無さは、それほどに大きいのである。

またしても人間の矛盾した態度を皮肉るもので、元気な時に時間を浪費してきた人が、いざ死の淵で悔いるというのは、なんとも皮肉なものです。そうなる前に、時間を大切に使っておけば、やるべきことは果たせるであろうというのが、著者の主張です。


先延ばしこそ生の最大の浪費なのである。先延ばしは、先々のことを約束することで、次の日が来ることに、その一日を奪い去り、今という時を奪い去る。生きることにとっての最大の障害は、明日という時に依存し、今日という時間を無にする期待である。

先の続く文章をみると、不確実な未来より、いま直ちにいきることを重視しろということのようです。
まずは未来に対して、今ここで約束することでそのことに縛られてしまうという意味で、未来の一日を奪うということと、今出来ることをやらないことで得られる見返りもまた、約束したその日まで手に入らないので、その分も無駄にしているということなのでしょうか。

すべての人間の中で唯一、英知(哲学)のために時間を使う人だけが閑暇の人であり、(真に)生きている人なのである。事実、そのような人が立派に見守るのは自分の生涯だけではない。彼はまた、あらゆる時代を自分の生涯に付け加えもする。彼が生を享ける以前に過ぎ去った過去の年は、すべて彼の生の付加物となる。

現代人である我々にとって、この結論は容易に納得とはならないものでありますが、哲学というものは、過去から連綿と続く人類の英知を凝縮したものであり、それを自分のものとすることが重要であるということを説いているのではないでしょうか。
逆に、それを知らない人は、本来手に入れられる武器を持たずに生きるわけであり、不利というか愚かというか、問題があるかと思います。


高貴この上ない天才たちの家々がある、養子にしてもらいたい家を選ぶがよい。養子となって受け継ぐのは名前だけではない。ほかならぬ財産をも受け継ぐのだが。それは、意地汚く、性悪に守る必要のない財産である。その財産は、多くの人に分かち与えれば与えるほど、大きくなる。彼ら思想の天才たちは、君に永遠の道を切り拓いてくれ、君を何人も投げ落とされることない高みへと昇らせてくれるであろう。これこそ、死すべき人間の生を引き延ばす唯一の方法、いや、死すべき人間の生を永遠不滅の生へと転じる唯一の方法なのである。

命や時間は有限でも、思想は永遠ではないかということを説きます。
実際、古代ローマ時代のこの本が現代の今でも本として残り、人に読まれていることがその証左でありましょう。

事実、偶然にやって来たものはすべて不安定なものであり、高く登れば登るほど、それだけ転落の危険は大きくなる。さらに、転落し、崩壊する定めにあるものを喜ぶものは一人もいない。したがって、所有するにはなおさら大いなる労苦が必要なものを大いなる労苦をもって手に入れようとする者たちの生が、きわめて短いだけではなく、きわめて惨めなものであるのは必然なのである。

ポイントは「偶然にやって来たものはすべて不安定」というところかもしれません。宝くじが当たって高等遊民が目標の私が言えることではありませんが、そのように偶然で能力や道理に合わないものを得ようとすることに危険性を説いているのだと思います。


終わりに


究極的に言ってしまうとこの本は、「時間は十分あるけど、殆どの人間が浪費している」ということが結論です。しかし、それだけのこととはいえ、ユニークな語り口で厳しく無駄を指摘していく内容は読んでいて痛快ですらあります。

また、セネカ自体は古代ローマ時代の人であります、しかし著作の中身は現代とかなり通じる部分があり、いくら科学が進歩し、時代が流れても、人間という生き物はそれほど変わらない(変われない)ものだと感じます。

この本を読んでメモをまとめる過程で、私事でありますが家庭の事情もあって多忙となり、休日にまとめて読んでまとめて書くという私のスタイルでは、中々進まないこととなっています。そのとき、今読んでいたということもありますが、セネカの本の内容が思い出されます。そのようにして、少しでも財産に対する態度のように、時間についてもシビアになれるようになり、そして人類の英知に触れる時間を増やすようにしていければと、改めて思いました。
2019年5月1日水曜日

メノン(プラトン著)

メノン
徳は教えられうるか」というメノンの問いは、ソクラテスによって、その前に把握されるべき「徳とはそもそも何であるか」という問いに置きかえられ、「徳」の定義への試みがはじまる。「哲人政治家の教育」という、主著『国家』の中心テーゼであり、プラトンが生涯をかけて追求した実践的課題につながる重要な短篇。



はじめに


ソクラテスの弁明に続き、プラトンが書いたソクラテスとメノンという青年の対談の本です。メノンが「徳を教えることはできるか?」という問いに対し、ソクラテスが対談をしていくものです。
最初は、その問いに対し、「徳とは何か?」という問いをメノンに切り返し、メノンの答えを論破していきます。
その後、「徳とは何か?」という問いに対する答えがでないことに業を煮やしたメノンが元の「徳を教えることはできるか?」問いに答えるよう要求し、ソクラテスは仮定を用いて回答の一端を見せようとします。
結果としてどちらの答えにも、ソクラテスなりの答えはでないのですが、その対談の中で役に立つ部分がありますので、紹介できればと思います。


内容


序盤はまず「徳とは何か?」と切り替えされたメノンの徳に関する考えです。
男の徳、女の徳とは何かなどを答えまとめとしては、

それぞれの働きと年齢に応じて、それぞれが為しとげるべき仕事のために、われわれのひとりひとりには、それぞれ相応した徳があるわけですから。

メノンの内容をまとめると徳というより、個人が社会対して為すべきことといった感じでしょうか。それに対しては、普遍的なものもあり時代がかっているものもあります。
それに対し、ソクラテスは、

 いろいろな種類のものがあるとしても、それらの徳はすべて、ある一つ相(本質的特性)をもっているはずであって、それがあるからこそ、いずれも徳であるということになるのだ。この相に注目することによって、「まさに徳であるところのもの」を質問者に対して明らかにするがの、答え手としての正しいやりかたというべきだろう。

このように苦言を呈するのですが、 これに対しメノンは「まさに徳であるところのもの」を明らかにすることはできませんでした。
その後、色や形の例を出してこう続きます。

いやしくも君がそういったたくさんのものを、ある一つの名前で呼んでいる以上、そして、そのどれひとつとして、「形」でないものはない。それも、互いに反対のものでさえあるというのに、と主張する以上、そのように円形も直線形をも同じように包含しているところのものとは、いったい何であるのか。そのものこそは、まさに君が「形」と名づけている当の対象であり、円形は直線形とまったく同じ程度に形であると主張するとき、君が念頭においているところのものであるはずだが。

形の主題においても中々難しいことで、それに対してYesとは言えるのですが、では実際に「形」と名づけている当の対象が何かというのは、深く意識することなくそういうものだと認知しているわけですが、それを定義として取り出すのはやってみると困難ではないでしょうか。ましてや「徳」のような抽象的なものであれば、余計に。

そこからメノンは、「徳」と名づける対象について、搾り出していきます。

徳とは、美しいものを欲求してこれを獲得する能力があることだと

このような結論が出てきました。そして、そうでない人は悪しきものを善いものと誤解して追求していくので、そこを見極め獲得していく能力が徳ということだとメノンは考えました。そして、善きものとは金銀の獲得や官職に就くことだと回答します。しかし、不正な手段で獲得するのは正しいものではないということで、ソクラテスは以下のようにまとめます。

どうやら君のいう「獲得」ということには、正義とか節制とか敬虔とか、あるいはその他何らかの徳の部分がつけ加えらなければならないようだ。もしそうでなければ、たとえ善きものを獲得しても、それは徳ではないということになるだろう。

それに対し、ソクラテスは改めて徳とは何かについて問いかけます。

ぼくは思うのだが、君はもういちど振り出しにもどって、徳とは何であるかという同じ問をうける必要があるのだよ。もし徳の部分をともなうすべての行為は徳であるということになるならばね。なぜならこれこそ、すべて正義をともなう行為は徳であるという主張の意味するところなのだから。

実にソクラテスっぽい卓袱台返しといいたいところですが、正直メノンの言うことを見ていると徳というものが非常にぼやけていて、これは当然の指摘ではないかと思います。
このあとメノンはしびれを切らして、議論を別の方向に持っていきます。

そのやり取りの詳細は省きますが、結果として知らないことを探求できるのかといった感じの問いになり、ソクラテスは、魂は輪廻するものであり、知識は内在的に存在するものなので引き出すものだといった答えをいいます。そして、その実証として無知な召使に図形の面積に関する知識を質問から引き出すといったことをします。

結論として合意したことは

ひとが何かを知らない場合に、それを探求しなければならないと思うほうが、知らないものは発見することもできなければ、探求すべきでないと思うよりも、われわれはよりすぐれた者になり、より勇気づけられて、なまけごころが少なくなるだろうということ

ということで、知らないことは発見し、探求していく方がよいということでした。
そこで元の問いに戻るわけですが、メノンは徳が何かをさておいて、徳が教えられるかという自身の問いについての回答を求めます。
そこで何か分からないものについて、それがどのような性質かということを探求するため、仮説を立てて対談を進めて行きます。

徳というものが、魂にかかわるいろいろなもののなかでも、とくにどのような性格をもったものであるならば、それは教えられうるものだということになり、もしくは教えられないものだということになるか

ということを考察していきます。そこで徳が教えられるかということについて、メノンは教えられるとします。そして、次に徳は知識なのか、それとも別の性格のものかということを考察します。ここも過程は省きますが、徳は知識の一種ということでソクラテスとメノンはまとまります。しかし、その後ですぐれた人のことを話したあとで、こういって卓袱台を返します。

少しでもそれに確かなところがあるべきだとするなら、たったいまそう思われたというだけでなく、いまこの現在においても、将来においても、やはり正しい所論と思われるのでなければならないだろう。

確かにその通りではあります。そして、その理由として、

徳にかぎらず、どんな事柄にせよ、もしそれが教えらうるものだとしたら、かならずその事柄を教える教師たちと、それを学ぶ弟子たちがいなければならないはずではないかね?

といい、徳の教師は見つけ出せていないから、本当に知識なのかわからないといいます。
この流れはやや強引なのですが、確かに有益な徳であれば、教える教師と弟子がいるのが当然のように思われます。ここからアニュトス(ソクラテスの弁明で訴える側に回る人)も交え、優れた人の話をします。そして、アニュトスは、立派な人物は先人から学んだのだと主張します。 それに対しソクラテスは、

徳が教えられるものであるかどうかということを、われわれはずっと前から考察しているのだ。そしてこの考察は、つぎの点の考察をずっとわれわれに要求しているわけだ。すなわち、いまの人であるとむかしの人であるとを問わず、いったいすぐれた人物たちは、自分が卓越していた点であるところのその当の徳性を、他人にも授けるすべを知っていたのだろうか。それとも、もともとこの徳というものは、人間が他に授けることも授けられることもできないものだろうか。

そこで優れた人の息子の話をして、実際には優れた人物から大したこと無い息子が多数出ているとソクラテスはつづけます。これはアニュトスの怒りを買い、今後の結末に影響しているのかもしれません。結局、優れた人物はいるが、徳は教えられるものでないということになります。
続けてソクラテスは、徳を持つ人=社会に対し有益な人=普通の人の行為を正しく導くことまではよいが、その正しく導くに際して、知識が必要ということは正しくなかったとします。

行為の正しさということに観点をおくなら、正しい思わく(思いなし)は、導き手として「知」に何ら劣るものではないということになる。そして、この点こそわれわれがさっき、徳とはいかなるものかを考察するにあたって、見のがしていたことなのだ。

思わくというのは約が適当では無い気がするのですが、その後の知識が思わくより評価される理由についてみると、何となくですが「偶然」という感じに近いように私は感じました。思わくが想起され、知識として永続化することで、評価(価値)が高まるというのです。

もし知識によるのではないとすると、残るところは、思わくのよさによるということしかないことになる。政治家たちはこれを用いることによって、国を正しく導いているわけであって、結局彼らは、知という点にかけては、例の神託を伝えたり、神の意をとりついだりする人たちと、なんら異なるところはないのだ。
徳とは、生まれつきのものでもなければ、教えられることのできるものでもなく、むしろ、徳のそなわるような人々がいるとすれば、それは知性とは無関係に、神の恵みによってそなわるものだということになるだろう。 

という結論に至るわけです。


あとがき


プラトンの対話編は読みやすく、また面白いので、もう少し追加で買って読んでみようと思います。

個人的には古典から学ぶべきことは、結論よりも過程なり思考のやり方であって、内容は時代によって変わるものなので、そのあたりの時代の審判に耐えたものを受け取っていくことがこの先AIが席巻する時代になっても、人間にしかできない英知になるのだと考えます。
古代ギリシャの時代のものなので、神や魂など色々出てきますが、これ自体は重要なことではないと思います。徳に対するメノンの答えもかなり時代がかっているというか、現代でこのような見方をする人はおよそ居ないでしょう。

最後に徳についての私の考えは、「社会において、生活を歩んでいく上での暗黙的な規範ないしは考え方」とではないかと思い、これはどちらかというと知識じゃないかと思いますし、教えられるかといえばある程度は教えられるだと思っています。
ある程度社会に対して、有益かつ評価される、考え・行動といったものは定型的な部分がありますので、その部分については、知識であり教えることが可能です。
一方で、時代にあわせて正解が変わる部分は当然あって、そこは前段の知識を前提に考えていかなければなりません。その部分については教えられてどうこうというものではないありません。
また、知識として知っていることと、実践できることもまた別です。
その点で100%の回答ができる問いではないのではと思っています。