2021年5月22日土曜日

”悪の論理”で世界は動く!(奥山真司著)

はじめに


日本では数少ない地政学がわかりやすく書かれている本です。

2010年と少し前の本であり、オバマ政権下、支那が戦狼外交に転じる前の本ということもあり、日本の情勢についてはやや陳腐化しているという印象を受けます。

地政学やリアリズムに関する内容に絞り、あらすじと考察を記載したいと思います。


あらすじ


第1章 世界は"悪の論理"で動いている


日本人は、基本的にグローバル社会と言えば、国境のない開かれた社会を連想し、今後は世界平和に向かっているという考える人が多い。
しかし、マッキンダーの「クローズド・ポリティカル・システム」を挙げ、それは違うと指摘する。
マッキンダーの考えは、「大航海時代が終わり未知の領域がなくなってしまったため、世界のパイが決まり、後はそのパイを取り合う争奪戦になる」というもので、これは予想通り、第一次・第二次の世界大戦等で実現されていく。

この状況を踏まえ、日本の周辺国である支那・露国・朝鮮等があらゆる手段で権益拡大のためにあれこれ仕掛けてくる。このことについて、国際法や外交倫理とは別の「悪の論理」で周辺国が動くことを指摘し、それを見抜く方法の1つとして、地政学があるとする。

第2章 日本の国益は技術だけで守れるのか


表題の問いに対し、戦略の7階層を筆者は指摘する。

世界観
政策
大戦略
軍事戦略
作戦
戦術
技術

という階層構造であり、上の階層にあるビジョンを実現するために、下の階層のアクションが出てきます。
しかし、日本の場合、一番大事な「世界観」が決定的に弱く、この答えを政府も国民も殆ど持ち合わせていないと指摘する。
原因は、アメリカに戦争で敗北し、支配下に置かれたところでGHQによる思想改造の影響があると筆者は指摘します。

この状態で進んだテクノロジーを持ったとしても、その技術を使って世界で何をしていくのかという、視点や思想が決定的にかけており、その状態では高い技術もガラクタ同然ということである。
そのため、戦略に長けた国である、アメリカや支那の「下請け」になってしまうのです。

第3章 世界の常識「地政学」とは何か


この章は地政学の歴史を通じて、地政学が何かということがわかります。

古くは、古代インドのカウティリアの「実利論」や孫子の「兵法」にもその考えが現れるようです。
地政学が学問的理論にしたのは、イギリスのマッキンダーで普仏戦争の鮮やかな勝利を契機とするものでした。

その前に地政学が生まれる伏線として、重要な役割を果たしたのが、アメリカのマハンです。
マハンは人類の歴史をベースとし、ユーラシア大陸の「ランドパワー」とそれを取り囲む島国の「シーパワー」がぶつかり合うという構造を提唱します。
アメリカはシーパワーの島国(大陸はこの場合ユーラシア大陸のみを指す)であり、ランドパワーに対して外洋からコントロールし、勢力が海に向かってこないようにするのです。
これは、イギリスが歴史的に行ってきた戦略であり、それを研究する中でマハンが発見したのです。

マッキンダーは、「人類の歴史はランドパワーとシーパワーによる闘争」とし、ヨーロッパの歴史はユーラシア大陸南部の「ハートランド」から攻めてくる勢力とそれに対抗する海側の勢力によって形作られた歴史と考えます。

そして、アメリカのスパイクマンは、「リムランド」という概念を提唱します。
マッキンダーはユーラシア大陸こそが中心地としますが、実際のその中心は砂漠や山岳地帯であり、都市が栄えている部分というのは、すべて海岸線から200キロ以内の沿岸部であるということから、大陸の淵である「リムランド」こそ重要と説きます。
リムランドを制すれば、ユーラシア大陸を制し、ユーラシア大陸を制すれば、世界の運命を制するのです。

このような地域概念と関係性を元西、自国の戦略を構築していくかが、地政学の真骨頂です。
近代の地政学で重視されるのは、リスクとリターンの兼ね合いから、他国を打ち負かすよりも「コントロールすること」であり、その場合のポイントとなる概念として、「チョーク・ポイント」と「バランス・オブ・パワー」があります。

「チョーク・ポイント」は、広い大陸を支配するのは困難であり、海上交通の要地(パナマ運河等)をコントロール下に置くことで、世界の政治に影響力を及ぼすというものであり、これを行ってきたのがまさにイギリスであり、アメリカです。

「バランス・オブ・パワー」は、ランドパワーが外海に出ようと力を持ちすぎないことや、結託してシーパワーに挑戦しないようにするため、各国の勢力均衡を図るというものです。


考察


地政学というのは、まさに今日本が直面している現実というものを、実にわかりやすく示しています。
たとえば、支那であれば、元々はソビエトとぶつけるために、アメリカが懐柔しました。
ソビエト崩壊後も貧乏国であり、あまり問題視せず、経済発展すれば自由・資本主義側に転ぶだろうとしていましたが、いよいよ力を蓄えて外海に出ようというところで、アメリカも重い腰を上げ、支那に対する対抗策を次々を打つようになりました。
歴史や実態から生まれている学問だからこその説得力です。

一方、日本人が信じ込んでいる、所謂リベラリズムとか国際協調主義というのは、現実と言うよりも理想(戦争がなくなればいい)から始まっているために、現実的な効力がないばかりか、時にはまさに”悪の論理”に使われてしまうことになります。

理想はあって然るべきなのですが、その前にまずは現実として国際社会で行われていることを理解し、現実に対応して生存し、権益を拡大し、地位を得てから理想を実現していくものでしょう。
もっとも、日本の場合は理想というよりは、単に現実が見えておらず、意思を持たないだけと言う厳しい有様であります。


こちらの本もおすすめです。


中国の「核」が世界を制す(伊藤貫著)
2021年5月5日水曜日

情報なき国家の悲劇 大本営参謀の情報戦記(堀栄三著)

情報なき国家の悲劇
"
情報を扱う全ての人へ。先人の貴重な教訓に溢れた名著。 「太平洋各地での玉砕と敗戦の悲劇は、日本軍が事前の情報収集・解析を軽視したところに起因している」 ―太平洋戦中は大本営情報参謀として米軍の作戦を次々と予測的中させて名を馳せ、 戦後は自衛隊統幕情報室長を務めたプロが、その稀有な体験を回顧し、情報に疎い日本の組織の“構造的欠陥""を剔抉する。 戦史ファン、歴史ファンはもちろん、現代のビジネスパーソンに最適。 「企業の方々が読まれる場合には、戦略は企業の経営方針、戦術は職場や営業の活動、戦場は市場(マーケット)、 戦場の考察は市場調査(マーケティング・リサーチ)とでも置き換えて読んでくだされば幸甚である」
"



はじめに

本書は、大東亜戦争において、大本営で情報参謀として米軍の侵攻パターンを的確に予測したことで「マッカーサー参謀」と呼ばれた堀栄三氏の体験記です。

大東亜戦争の実態を大本営参謀として体験した内容そのものが興味深いものがありますが、今回は、大東亜戦争の敗因と情報をどう活かすかということについて、氏の体験から考えを深めてみたいと思います。

まずは、個人的に気になった点の抜粋です。


抜粋


陸大だけが最終目標にあらず


堀氏が将来の人生に大きな影響を与えた将軍の一人として、本書で名前が出る寺本中将の言葉です。この言葉の締めくくりは「椅子の権力を自分の能力と思い違いしている人間ほど危険なものはない」です。

堀氏はこの言葉について、

陸大を出て枢要なポジションに就くと、そのポジションに付随した権力をまるで自分がもって生まれてきたかのように私物化し、乱用する危険を戒めたものであろう。

としています。 


ドイツ課とソ連課のやり方


堀氏は大本営情報部に移動してから、短期間でドイツ課→ソ連課→米英課と言う風に異動しています。
本書中にも何度か出てきますが、ドイツ課とソ連課のやり方を短期間とはいえ見たことは大きな経験になったようです。

ドイツ課は大島浩大使が、ナチス・ドイツの幹部(ヒトラー・ヘス・リッベントロップ等)から容易に意見を聞けるということや日本軍人の親独感情などから、その情報を絶対視していたようです。

一方、ソ連は敵国であり、このような方法では情報が取れないため、シベリア鉄道の状況を見るとか、ソ連やその隣国を旅行する、新聞雑誌の要人発言を確認して内容の変化を見るといったことから、スパイや放送傍受、暗号解読まで、「砂礫のような情報の中から一粒のダイヤを見つける」やり方をしていたようです。

この違いについて、ドイツ課は一方的な一本の線で見ているが、ソ連課は常に疑い、他の情報との関連を見つけようとし、二線、三線の交叉点を求めようとしていたと指摘します。


情報戦争とは


情報戦争というものについて、堀氏は以下のように定義します。
情報はまず収集の段階で抗争が起る。お互いに教えたくない、知られたくない情報を、あらゆる手段をつくして取ろうとし、取られまいとするのであるから、この抗争が情報戦争である。

この情報戦争は、実際の戦争が起こる前から当然始まるものであり、先の大東亜戦争でいえば、米国は寺本中将曰く大正十年からであったという。

情報戦のエピソードの中で1つ紹介します。米国の日系人収容は有名ですが、これについて堀氏は、以下のように指摘します。

第二次世界大戦で日本が開戦するや否や、米国がいの一番にやったことは、日系人の強制収容だった。戦後になっても日本人は、これが何のためにだったか知っていないし、知ろうともしない。(中略)日本のある経済界の要人が(中略)米国が真珠湾攻撃を受けての反日の感情的処置であったと考えているふうであった。どうして日本人は、こんなにまで「おめでたい」のだろうか?(中略)裏から見れば、あれで日本武官が営々として作り上げてきた米国内の諜者網を破壊するための防諜対策だったと、どうして考えないのであろうか。(中略)四十年後に何百万ドル払って不平を静めようが、戦争に負けるよりはぐっと安いのである。

日本のエピソードですと情報軽視ということばかりですが、それなりに本土にも目はあったようで、それを軒並み潰されてしまったことも大きかったようです。


戦略のミス


本書で現れる重要な教訓の1つとして、「一握りの指導者の戦略の失敗を、戦術や戦闘で取り戻すことは不可能である」というものがあります。
そのため、堀氏は、
一握りの中枢の人間の心構えが何よりも問われなくてはならない(中略)情報を重視し、正確な情報的視点から物事の深層を見つめて、施策を立てることが緊要となってくる。
と指摘します。

帝国陸軍での「戦略の失敗」は、アメリカと比べて戦略・戦術の研究が遅れており、「航空機・制空権」が無視されており、補給・兵員輸送・偵察等の様々な問題があったことや、武器や戦車の性能差のみならず戦艦の艦砲射撃を活用することで、圧倒的に優位な「鉄量」を確保していたことなど様々な問題が指摘されています。


言い切ることの難しさ


敵情判断で最大の難事は、言い切ることである。しかも情報の判断をする者には、言い切らなければならない時期が必ずやってくる

堀氏が山下方面軍の情報参謀に従事していた時に、ルソン決戦を諦め戦略持久に切り替える際に、マニラの軍需品や傷病者をルソン島北部へ移送しなければならないので、どこに上陸するかの情報は遅くとも2ヶ月前に出してくれと言われた時のことです。

堀氏は傍受した無線電話やマッカーサー軍の戦力交代のローテーションから時期を予測し、さらに上陸地点の予測までします。

限られた兵力でルソン島を守る以上、あっちもこっちもと兵力を配置できないわけですから、タイミングと場所ははっきり予測できなければ、意味がないのです。


考察


陸大だけが最終目標にあらず


この問題は現代にも通じますが、「椅子の権力を自分の能力と思い違い」している人間の多さというものは目に余ります。
権力は天賦のものでもなければ、その人自身の能力でもない。民主主義社会における権力というのは、有権者全体からの負託によるものです。
政治だけではなく、企業でも同じです。株主が取締役に付託し、取締役が部長に、部長が(ry

私はこのような「権力」の在り方というものが、日本人に全く浸透していないところに、日本がまだ民主主義を理解、実践できていないと感じます。結局は、大多数の日本人は、「権力」を上下関係ととらえているのではないでしょうか。
「負託」として考えれば、適切な能力・見識がなければ、退場させることができます

大東亜戦争で日本が敗れたのも、思い上がり準備を怠ってきた軍人(特に作戦参謀)にあるということを筆者は指摘しますが、その中には退場させるという選択肢を持たず、理不尽にも不合理にも「耐える」という対応しか持たない日本人の発想の貧困さがあるのではないかと思います。

日本が「軍国主義化」したということもありますが、私は順序が逆であり、大正デモクラシーの頃から「民主化」していくべきであったのにも拘らず、表層だけで実態が伴わなかったが故に、「独裁的」な権力というものが発達した結果の「軍国主義化」ではないかと思います。

大東亜戦争の過ちを繰り返さないため、独裁国家との闘い(軍事的な戦闘だけではない)のために、正しい民主主義を一人でも多くの日本国民に浸透させるべきではないでしょうか。


ドイツ課とソ連課のやり方


ソ連課の手法である、「常に疑い、他の情報との関連を見つけようとし、二線、三線の交叉点を求めよう」とすることは、現代人にとっても有用だと思います。

簡単に誰でも情報発信できる世の中において、偽情報や印象操作等に触れる件数は非常に多くなっております。また、メインストリームメディアと言えども、平気でこのようなことをするという有様です。
ある情報を疑い、他のチャネルからも情報を集めていくということは、必要不可欠なことではないでしょうか。
その中で情報の矛盾から正確性や発信者の意図を探っていくということも有用だと感じます。

情報戦争とは


サヨク系をはじめとする「平和主義者」からすると、今の日本は戦闘に巻き込まれておらず、「平和」なのかもしれませんが、堀氏の定義によれば既に支那や朝鮮、露国等の「情報」戦争は始まっていますし、恐らく同盟国ということになっている米国等も例外ではないでしょう。
今のままでいけば、大東亜戦争と同じ過ちを繰り返すことは必定です。

このことから学ぶべきは、情報戦争できちっと準備しておくことは、実際の戦争を抑止する一つの手法だということです。
国家が戦争を遂行するには、多岐にわたる相手国の情報を要します。それが少ない状況であれば、戦争を行うことで不利益を被るリスクが高まるわけですから、相手が合理的に行動すると仮定すれば、それは戦争が発生する確率を下げることに繋がります。

もう一つは米国の日系人収容もそうですが、時に安全保障は人権より優先するのです。
このような処置が大衆の非難を浴びなかった背景には、反日感情や有色人種への差別感情があったこと、現代より人権意識がはるかに薄かったことは否定できないです。
しかし、エリートはそのような感情だけでは行動しません。堀氏の指摘するように、情報戦争の一環として、最も効率よく日本の諜報網を封じ込めるには、各所に存在する日系人を除去するのが適当であったということです。

逆にいえば、日本がもし支那と戦争になるとしたら、日本中に存在する支那人や支那系日本人は除去できるのですか?ということになります。
そんなことを有事にできると、直接法律に書けるわけはありませんので、ぼかすかごり押すしかありませんが、少なくとも選択肢として想起できなければ、実行しようがないのです。
このような「泥臭い」ことができる人が、日本の中枢にはいるでしょうか。

戦略のミス


武漢肺炎対策、経済政策、ITや半導体等の技術開発……様々な戦略レベル(政治家や経営者)のミスや不作為を、戦術レベルでどうにかしようとして失敗するケースは目にあまります。
戦略を策定する意思や能力に欠ける者、失敗しそれを活かせない者は、即刻退場させないといけないのです。

言い切ることの難しさ


情報を扱う上で重要なことは、不確かなことはそのままでは使えないということです。
本書の例であれば、どこに上陸するかわからないけれど~いつ上陸するかわからないけれど~では、ルソン島を防衛することはできませんでした。
防衛に必要な体制は、瞬間的に構築できず、またノーコストでできるものではありません。

だからこそ、情報参謀である堀氏は、100%を保証できずとも、いつ、どこに米軍が上陸するかを様々な制約の中で、可能な限り見出し、断言することを迫られたのです。

もちろん、不確か中を試行していって正解にたどり着くということが許される場合もあります。しかし、世の中にはそうではないこともあり、その究極の例がルソン島の防衛の例です。もし、ここで不確かな情報のままであった結果、部隊が適切に戦闘準備してくれなければ、あるいは誤った情報で動いた結果、別の拠点から悠々と上陸されてしまったらば、取り返しのつかない兵士の命で贖うことになるのです。

情報を扱う上で、どのような場面でどう使われるのかということも、意識していかないといけないのではないでしょうか。