2021年2月2日火曜日

これからの対立軸は、自由と独裁

概要


最近は分断が話題になります。
民主党と共和党、親トランプと反トランプ、右派と左派、貧富の差……。

ただ、これらの本質は「自由と独裁」であるように思います。
その中で自由主義の中で生きる国民として必要なことを考えていきたいと思います。

なぜ「自由と独裁」なのか


これらの分断は進めば進むほど過激な人を生みます。
過激化が進めば進むほど「自己の持つ正しさ」と「現実」の乖離が激しくなります。
この状態では、「自分の意見が正しく、他の意見は間違っている」という意識が肥大化します。これを独裁というのです。


「親トランプと反トランプ」と言う具体例で考えていきましょう。
米国の大統領選挙では、長くメインストリームメディアではバイデン氏優勢としており、一方で親トランプの言論人からは、世論調査はアテにならないとか隠れトランプが居る(支持を表明すると左派から攻撃されるリスクがあるから)という主張が大勢でした。
結果としては、それなりに接戦になりましたし、どちらも正確だったかというと微妙なところではありましたね。

問題はその後です。直後からトランプ大統領は「不正選挙」を主張していました。
この「主張をしていたということ」は事実でしたが、「主張の内容」については、結果として真実性は認められませんでした。それは、裁判の結果として却下されていることから明らかであります。真実性が認められないことと真実ではないことは=ではありませんが。

しかし、一部の保守系からは、証拠も無いのにも拘らず陰謀論的な意見が出てきました。
いわく、選挙結果をカウントするシステムが乗っ取られているとかそのシステムの運営会社と敵性国家の関係が云々といったものです。

もちろん、これらが「無いという証拠」はどこからも出てきません。いわゆる悪魔の証明なので当然でしょうが。
少なくともそのような陰謀論的な事が正しいならば、証拠を出して裁判でひっくり返るのでしょうが、次々と却下されたという事実が、そうではないことを示しています。

このような事実が出てもなお陰謀論を唱え続ける様は、彼らが日頃批判している左派と実態は何ら変わらない「自分の意見が正しく、他の意見は間違っている」という意識であり、つまりは独裁なのです。


独裁がダメな理由


一言で言えば歴史が証明しています
独裁的な政体は、個人独裁もあれば政党独裁もありますが、いずれにせよ必ず判断を誤って消滅します。
右派独裁であればナチスドイツ、左派独裁であればソビエト連邦でしょう。


では、なぜ独裁は判断を誤るのか。
まずは、個人レベルで考えますと、「自分の意見が正しく、他の意見は間違っている」という意識は確実に視野を狭めます。人間は全知全能の神ではないため、誤りや見えないことが避けられないわけですが、それに対して「自分の意見が絶対に正しい」と考えることは、他の意見を取り入れ、自身が正しいかを確認する機会を自ら放棄するわけです。
誤る可能性が高まることは必然でしょう。

上の立場に行った独裁的人間は、人から批判される機会が減る一方、すりよってくる人間が増えるため、ますます「自分の意見が絶対に正しい」という意識を強めていくことになり、手が付けられなくなります。
また、下の立場にいる独裁的人間は、「自己の持つ正しさ」と「現実」の乖離が開く一方、実際には何も変えられないため、世の中への不満を強めていくこととなり、より過激な手段や主張に訴えることになります。

つまり、どのような立場にいても独裁的人間は、「自己の持つ正しさ」ばかりが肥大化し、現実から離れていくのではないでしょうか。


次に組織として考えてみましょう。
組織の本来の目的とは、人間が一人ではできないことを実現するためにあります。
この中には単純な力や時間の問題(=分業で解決すること)だけではなく、当然ながら知力の限界を補うことや誤りを正すことも含まれるでしょう。
つまり、独裁的な志向を持った組織というのは、批判ができないため、それだけで組織の本来出せる力を大きく損なった状態になります。

さらに、組織には負の側面がいくつかありますが、独裁はこれを助長します。
独裁的な組織には必ず排除の論理が働きます。「組織の持つ正しさ」に反している場合、排除されます。その極端な例が、ソビエトの大粛清や支那の文化大革命でしょう。
このような組織でまともに声をあげる人はいなくなりますから、知力の限界を補うことや誤りを正すことが出来なくなります。
その結果として、誤った方向に突き進んで破滅していくのです。


独裁に対抗するためには


ここまでの話で、政治体制としての「独裁」だけではなく、身近な社会にも「独裁」的なことがたくさんあることがわかりました。
では、自分が「独裁」的な人物にならないために、そして「独裁」的な人間や言論を拒否していくためにどうしたらよいかを考えます。

  1. 人間の認知に関する限界を知る。
  2. 言論、行動と人間を切り離す。
  3. 自由を否定する言論、行動、人物を拒否する。

まず、1つ目は人間の限界を知ることで「自分の意見が正しく、他の意見は間違っている」という認識を自分が持たないようにすること、そのような傾向がある人物を遠ざけることが必要でしょう。

繰り返しになりますが、私たちが見えている世界、知っていることは世界のごく一部に過ぎません。その上で、見えている世界や知り得た知識には、様々なバイアスがあります。

例えば、前段で述べた米大統領選における一部の保守系の行動のように、自分がこうだと認識したい事実に当てはまる情報ばかりを集めて、自分の中ではそれが正しい事実のように考えてしまうというのも一つでしょう。これを確証バイアスと言われるものです。
感情や自分の私的な利益など、様々な要因がありますが、全てに中立な人間というのはいないと考えられるのではないでしょうか。

だからこそ、自分の意見が正しいかどうかを、常に批判的に検証し続けていかなければ、より正しい方向へ近づいていかないのです。


2つ目は言論、行動と人間を切り離すことです。
個人的には、日本人によく見られる現象だと思いますが、誰々が言っている(やっている)ことだから正しいといった主張や考えがよく見られます。所謂、「信者」です。(場合によっては独裁的な風潮で渋々かもしれません。)

1人が認識・理解できることには、時間的能力的な制約がありますから、他者の見識を利用するということは、現代社会における必須スキルというべきでしょう。

問題は、それが誰々が言っている(やっている)ことだから正しいということに変化することです。これは、形式的に見れば独裁者に従う臣民と同じです。
従う側が不利益を被るだけなら、その人の勝手とも言えますが、こうやって「信者」が増えることで、信じられる側の人間も「独裁者」としての自覚を持ってしまうのです。
これは当然のことで、自分が何を言っても批判されない(されても影響力に支障が無い)のならば、利益になることや自分の気持ちの良いことを言った方が得だからです。

だからこそ、他者の見識を利用する際には、一人一人がその内容を咀嚼し、正しいかを理解していかなければならないのではないでしょうか。

さらに話が厄介になるのは、このようなものに対して批判をすると、すぐに人格攻撃を始める輩が後を絶たないことです。もちろん、このような様は人間として失格なのは言うまでもありません
なぜ、このようになるのかと言えば、正しい批判精神を持って他者の見識を自分のものにしていない以上、批判が来ると論理的に説明できる拠り所がなくなるのです。そのような時に残る物は何かといえば、「誰々が言っている(やっている)から正しい」という自分の信仰だけです。
しかし、信仰では批判する他者を納得させることはできません。そのような術を持たないものが最後にすがる手段が暴力です。その一つの類型が人格攻撃であり、これが過激化すればテロリズムになるのです。

また、批判を受けることになる「信仰の対象」にも、「独裁者」としての自覚を高めていった結果、批判の内容ではなく、人物や属性を基に判断すること多いです。
たとえば、素人は黙ってろ、外野は口を出すなといったものです。


3つ目は、以前にも申し上げていることのため、詳細は割愛します。過去記事「目に見えぬ侵略 中国のオーストラリア支配計画(クライブ・ハミルトン著)」を参照願います。
批判ができる自由を守らなければ、1や2で語ったように、正しい方向に近づくことはできないのです。


最後に


最近話題に出ることの多い分断を中心に、本文中には信者ビジネスなどにも、無理矢理触れて斬ってみました。
とにかく、結論として一言言えば、自分にも他人にも健全な批判精神を持て、ということです。

ただ、情報化のスピードはどんどん加速しており、「健全な批判精神」を持つだけの時間が取れないことも非常に多いです。
その中でどうやって生きていけばよいかということは、私も模索中であります。