はじめに
哲学を何故学ぶのか、哲学は何を学ぶのかということを「哲学のすすめ」で確認し、今度は哲学の歴史的な流れを学ぶために、「反哲学史」を手に取りました。
著者は、ハイデガーの研究で知られる哲学者です。反哲学史という名前ですが、哲学を否定するものではなく、著者は以下のように説明しています。
この本での私のねらいは、哲学をあまりありがたいものとして崇めまつるのをやめて、いわば「反哲学」とでもいうべき立場から哲学を相対化し、その始点から哲学を相対化し、その始点から哲学の歴史を見直してみよう(中略)一般に今世紀の哲学者たちは、奇妙な話ですが、自分たちの行っている思想的営みを「哲学」と呼ぼうとはしません。彼らが目指しているものは、むしろ「哲学の解体」なのです。つまり、彼らは「哲学」というものを「西洋」と呼ばれる文化圏におけるその文化形成の基本的原理とみなし、この西洋独自の思考形式を批判的に乗り越えようと目指しているのです。
「哲学の解体」という大きなムーブメントが、思想家の中で起こっているわけですが、我々のような俗人にとっては、この本を通じて哲学の歴史の本流を理解することができるのではないかと考えられるわけです。
それでは、以下本書の要約です。
あらすじ
本書で説明される哲学の流れとして、時系列に見てゆくと、
- ソクラテス以前のフォアゾクラティカーによる自然観
- ソクラテスによるアイロニー
- プラトンのイデア論
- アリストテレスの形而上学
- キリスト教義やスコラ哲学
- デカルト・カント・ヘーゲルの近代哲学
- 近代哲学に対する反哲学の萌芽
フォアゾクラティカーと呼ばれる古代ギリシャの思想は断片的にしか残っていませんが、本書では「フュシス(自然)」を中心に見て行きます。
フュシスとは、四季の移り変わりのような自然的運動を支配している原理のことであり、人間の社会や国家、神々さえ同じ原理で支配されていると考えていたようです。
一方で、人間には各自の思惑があり、自然のロゴス(理法)から逸脱することが認められていますが、それは仮象にすぎないわけですが、自然とノモス、存在と仮象の統一と抗争が思索の中心だったようです。
ここから時代が下り、表向きはフュシスが真の存在としても、仮象であるノモスに関心が向くようになるったときに、ソクラテスは出現します。
このように堕落したかたちのフュシス的存在論を一掃するため、ソフィストと呼ばれる当時の知識人に対し、「無知の愛知者」という立場で論争を挑んで行きます。このような論争をirony(皮肉)と呼び、知識人たちを否定していきます。
その徹底したアイロニーの後に出現したのがソクラテスの弟子であるプラトンです。
そのイデア論のポイントは、存在の全てを包括していたフュシスが、イデア(魂の眼によって洞察される純粋な形=「本質存在」)から借りてきた形相によって形作られる素材に成り下がったことにより「物質的自然観」が成立したことと、今まで「存在」という曖昧な概念しかなかったところに、「本質存在」と「事実存在」を分岐させ、さらに「本質存在」を優位においてきたということです。
これを批判から出発していき、旧来のフュシスとの調停を図ったのが、その弟子であるアリストテレスの形而上学です。
プラトンの形相と質料の結びつきの考えを少し変えたものの「超自然的な存在を設定し自然の存在を理解しよう」という本質は同じでした。
そして、この形而上学という思考様式と物質的自然観、本質存在と事実存在の存在概念の二元的区別は、ワンセットであり、この思考様式から近代ヨーロッパ文化は形成されているということです。
実際にこの考えが大衆に普及するには時間がかかっており、キリスト教の教義体系を整備するにあたって使われていきます。
近代哲学とは、この形而上学において「世界について何が存在するかを決定する存在」がイデアなり神だったものが、人間理性になっていくものです。
この転換をまず成し遂げたのがプラトンです。
プラトンにより、神の後援を受けながらも、人間理性が本質存在を明確に認識できるものが現実存在を保証される、すなわち世界について何が存在するかを決定するのは人間理性であるということが示されます。
カントにより、この「神の後援」がなく人間理性が単独で形而上学原理の座につくようになり、ヘーゲル哲学により人間理性は、社会の合理的形成の可能性を約束され、自然的及び社会的世界に対する超越論的主観としての位置を保証されました。
そのヘーゲル哲学全盛期に近代ヨーロッパ文化への反省は始まり、その中からヘーゲル哲学批判のみならず、プラトン以来の形而上学的思考様式への批判が出てきます。
この中で筆者は、シェリングの後期哲学から実存主義の流れ、マルクスの自然主義、ニーチェの力への意志が、その先の反哲学の流れと受け継がれていくとします。
所感
この本を読むには本当に苦労しました。どうしても簡単にあらすじをまとめられないので、下書きとして記載したアウトプットは1万字を超えるのですが、掲載するには長すぎるので後半はばっさりになってしまいました。別に理解できなかったわけではないです。(たぶん)
それだけ、哲学というものは、深いものであるということです。
特に近代哲学以降については、何度も読み返し、自分の中に理解を落とし込みながら進めたので遅くなってしまいました。
それだけ、哲学というものは、深いものであるということです。
特に近代哲学以降については、何度も読み返し、自分の中に理解を落とし込みながら進めたので遅くなってしまいました。
反哲学という特異なタイトルではありますが、読んでみて思ったのは、ヨーロッパという文化を根底から理解するには、形而上学の理解がどうしても必要なのだということです。
ニーチェは、形而上学により、「ヨーロッパの文化は無に向かって投射されている」という風に指摘したそうです。
本当に無にたどり着いたのかということはともかく、ヨーロッパが技術革新や法整備で先を行き、ヨーロッパ的国際秩序を作ったということは、根底に形而上学があったということです。それを理解すると、また違った歴史の見え方があります。
形而上学は、プラトン自身が国家は一定の理念を持って積極的に作り上げるべきだという考えを持ち、その基礎論として作った存在論が、本人自身の警告とは別に一人歩きした結果の産物です。
プラトンの作った理想国家も失敗に終わっていますが、実践や現実社会から離れて、思想の世界に閉じこもるということは、ある意味鋭い武器のようで、有用性と危険性を兼ね備えているような気がします。
まさに形而上学というものはこれを体現した存在で、西欧近代文明というものを思想的に支えてきたものであり、我々を含めた多くの人間にとってその存立の基盤になっているものである一方、それにより生み出された社会が人の手に負えなくなり、反哲学へと繋がるのだと思います。